第1話 ペーパームーン④
蔓で編んだ籠の中からよく熟れた果実を選んで、サカキはそのままかぶりついた。レモンに似た、ざらついた皮を持つ黄色い果物であったが、味は予想に反して顎が痛くなるほど甘く、サカキは思わず零れおちた果汁を手で受け止めて啜った。
「マンゴーに似てる。うん、美味しい」
先ほど手に入れた戦利品を味わいないがら、サカキは未だに道を歩いていた。倒した敵からの情報だと、もうそろそろ村が見えてくるはずなのだが。やはり、俺をだましていたのだろうか。少し腹が立ったがこの果物をドロップしたことに免じて、サカキは許してやることにした。
「まあ、村があるっていうのも完全に嘘じゃなさそうだけどな」
転生した場所に比べて樹木や草花の密度が次第にまばらになってきて、道の土も歩きやすいようによく慣らされている。距離はあとどれくらいあるか分からないが、人里が近づいていることにはどうやら間違いないようだ。
そこでふと、サカキは少し先に人の気配を感じて立ち止まった。霧で視界が途切れるぎりぎりの位置に、誰かがいる。道端の岩に腰掛けて、その人影はこちらをじっと窺っているようだった。
さっきのリナみたいな村人ではない。サカキは腰だめに身構える。あれは偶然この場に居合わせたとか、そんな様子ではない。明確に、サカキと会うために腰を据えて待っていたのだ。
「ちょっとー、そんな警戒しなくても大丈夫だってばー!」
緊張感のない声が、その人影から発せられた。少し間延びした女のものだ。敵意はまるで感じられないが、こちらを油断させているという可能性はおおいにある。いつでも動けるように、サカキはじりじりと足を開いた。
「お姉さんを信じなさいよー! あんたも転生した人なんでしょー?」
転生。
その単語に、サカキは相手の正体が何者であるか瞬時に理解した。あの場にいた7人のうちの一人。サカキと同じ異世界転生者だ。
人影は立ち上がり、こちらへとゆっくり歩いてくる。近づいてくるにつれ、それが大人の若い女であることが分かり、サカキは少しだけ緊張の糸を緩めた。
よかった、これくらいの相手なら他愛ない。
女と顔を合わせると、サカキは奇妙な既見感を覚えた。顔を見るのは初めてであるはずなのに、どういうわけか、彼女が自分と同じ存在なのだと心から理解できる。転生者同士は響き合うものなのか。その感覚に、サカキの中に深い嫉妬が芽生えた。やはりこいつらとは、相容れることはできない。
「おい、あんたも転生者なのか?」
サカキも歩きながら言葉を投げかけた。「そうだよー」というやはり気の抜けた返事。演技ではなさそうだった。
「私、シラミネっていうの」
「俺はサカキだ」
胸元が空いたワンピースを着た女は、歯を見せながら笑って手を差し出した。緩くウェーブがかかった金髪がふわりとその仕草にあわせて揺れ、薔薇のような香りがサカキの鼻孔をくすぐった。派手な見た目であるが、立ち振る舞いに気品が滲んでいて、有体にいえば非常に美しい女性だとサカキは思った。
動揺が悟られないように、シラミネの手を握る。自分よりも少しだけひんやりとした体温に、心臓の動きが早まりそうだった。気づかれる前に、やや強引に手を離す。その仕草に、シラミネが薄く目を細めながら蠱惑的に首を傾げた。年齢はおそらく自分よりも7つか8つ上だろう。大人の魅力、とはまさにこの女性のようなことを言うのだろうか。
「急にこんなところに放り出されてさ。途方に暮れてたら学生服の君が歩いてくるのが見えたから、安心しちゃったよ。てか、その服どうしたの? 滅茶苦茶汚れてるけど怪我とかしてなぁい?」
「モンスターに襲われたんだ。シラミネも気をつけた方がいい。とはいっても、俺たちかなり強くなってるみたいだから、やられる心配なさそうだけど」
「モンスターか、やっぱいるんだね。マジメルヘン」
唇をすぼませて、シラミネがおどけた調子で言った。まだ状況が読めていないらしく、サカキの言葉も半信半疑の様子だった。
これなら、確実に殺せるだろう。確信して、サカキは拳の感触を確かめた。
他の6人を殺せば何でも願いがかなう。
あの仮面の言葉に、実のところサカキは全く興味がなかった。なぜなら、彼の唯一無二である願い「異世界転生」はすでに叶っているのだ。これ以上、サカキはなにも望まない。
他の転生者を殺す算段を付けているのは、彼のエゴに他ならなかった。サカキは誰にもできないような努力をして、ようやく夢を実現したのだ。それが、なんの苦労もしていない他人が自分と同じ力を得て異世界で生きているなど、彼にはとても容認できることではなかった。
それは我慢できない屈辱であったのだ。
この物語にチート勇者は俺一人で十分だ。他の転生者は邪魔だから殺すしかない。彼を突き動かしているのは、そんな単純で歪な思いだった。
「見た感じチューセーっぽい街並みだったからコンビニもなさそうだよねー。ジャンプも立ち読みできないとか、世も末だわ」
「コンビニは絶対ないだろうけど、この先に村があるみたいなんだ。とりあえずそこまで行かないか?」
「村? 私、村とか言ったことないからちょっと楽しみ。おじいちゃんが畑とか耕してんでしょ? ウケるわー」
どうやらツボにはまったらしく、シラミネは腹を抱えてケラケラ笑っている。見れば見るほどに、警戒心の欠片もなかった。彼女だって仮面の言葉を聞いているし、自分のようなとてつもない身体能力も得ているはずだ。だが、サカキにはシラミネを殺すことは虫を潰すことよりもたやすいと思えて仕方がなかった。
とはいっても、念には念を入れるべきだろう。村を目指して歩き始め、背中を見せたその瞬間。ありったけの力でシラミネに襲いかかる。転生者の耐久力がいかほどか想像もつかないが、おなじ転生者の腕力で一方的に殴れば、さすがに殺すことはできるだろう。
「んじゃま、とりまサカキくんの言った通り、村を目指すとしますか」
シラミネは腕を伸ばしてぐぅっと伸びをする。ワンピースの薄い生地が彼女の大きな胸で押し出されて、くっきりとその形が浮かび上がった。サカキは思わず目をそらす。あれの中身を楽しむのは、殺してからでもいいだろうと、はやる気持ちを抑えつけた。
「あ、そうだサカキくん」
「どうした、シラミネ?」
胸を盗み見ていたのがばれたのか、と一瞬どぎまぎしたが、そうではなかった。
「その服、汚いから全部脱いじゃいなさいよ」
顔色ひとつ変えず、シラミネが言い放った。その言葉にサカキは、黙ってズボンとシャツとを脱ぎ捨てた。肋骨が浮き出た貧相な身体が現れて、シラミネがぺロりと舌を出す。やや上気したように頬が紅潮するシラミネの様子を、サカキは不思議そうに見つめていた。
「ちょっと、何やってんのよ。パンツも下ろしなさいな」
「はいはい、わかったよ」
サカキは何の疑いもなく、言われるがままにトランクスのゴムに手をかける。わずかばかり膨張したサカキの陰茎が外気に晒された。霧にふける林道で真っ裸になってしまった自分と、それを嗜虐的な視線でねめつける女。異様なその光景にようやくサカキの中に小さな猜疑心が生まれた。
どうして俺は、この女に言われるがまま、服を脱いでいるのだろうか? どう考えても異常な状況にあって、しかしサカキはその答えを見つけることは出来なかった。思考に靄がかかってしまったかのように、物事を整理して考えることができないのだ。
代わりに彼を支配し始めていたのは、その女、シラミネに対する献身的な愛情だった。俺は、シラミネを愛するために生まれてきた。彼女を傷つけることは、できない。
なぜ? 俺はついさっきまでシラミネを殺そうと企んでいたのに。
「やっぱり転生者には効きが悪いみたいだけど、便利なチカラでしょ、これ」
シラミネがサカキの腿をつねりながら、愉快そうに、まるで歌でも口ずさむかのように言った。内出血を起こしそうなほどシラミネの指先は強くサカキの皮膚を握っているのに、抵抗することはできない。サカキの太ももから脳へは「痛い」という信号は送られているはずなのに、そう感じる前にどこかをろ過して快感へと変わっているのだ。
チカラ。そうか、これが。
ようやくサカキは答えにたどり着く。仮面の男が語っていたもう一つのチート。転生者それぞれに与えられた特殊能力。今まさに、サカキがその術中に嵌められているこの状況こそが、シラミネの持つチカラなのだと。