断章 榊原晴彦
201X年、K県内公立高校にて。
現場である教室から離れた岩国は、安寧の場所を目指して校舎をさまよい、ようやく校庭の隅に教師用の喫煙所があるのを見つけて一息ついた。スーツの胸ポケットから愛すべき相棒を1本取り出して、口にくわえて火を付ける。8mgのガツンと頭にくるタールの重みがこれほど心地よく感じられるのは、とても久しい。それだけこの県内は平和だったのだ。
「ちょっと、岩さん! こんなところでサボってたら部長にどやされますよ」
しばらく紫煙をくゆらせていると、いつの間に嗅ぎつけたのか、後輩の結城がしかめっ面で屋根の先に立っていた。刑事には珍しく嫌煙家である彼がそれ以上こちらへは近づけないと知っている岩国は、わざとらしく口から煙を吐き出してやった。結城の顔色がいっそう曇ったが、「あと一本だけ」と岩国は灰皿で火を揉み消しながらお願いする。彼の真面目な性格らしくない仕草に、結城はおや、と岩国をよく観察した。いつもと変わらない強面のように一見すると思えるが、その目じりの皺が普段よりも少しだけ濃くなっているように結城には見えた。
「やっぱり、岩さんでも今回のヤマは効きましたか」
岩国はそれには答えず、新しい煙草の煙を吸い込んで、しばらく目を伏せた後にゆっくりと吐いた。その煙が風に吹かれて散っていく様をぼんやり眺めながら、岩国は独り言のように呟いた。
「俺にもな、同じくらいの子どもがいるんだよ」
「ええ、知ってますよ」
「最近は憎たらしい口も聞くようになって、やたらと大人ぶりやがるんだが、それでもまだまだ子どもなんだ。それなのによぉ」
見上げる目線の先を追わなくても、結城には岩国がどこを見つめているのか、そして何を考えているのかがはっきりと分かった。
どうして、あんな子供が、ここまで残酷なことができるんだ。
現場となった教室は、おそらくもう2度と使われることはないだろう。結城とて、それなりに経験は積んだつもりではいた。しかし、あんな凄惨な現場の前では、まるで今までの事件が全てガキのおままごとであったかのように思えて仕方がない。
大腸、脳漿、骨、指、舌。人体を構成するありとあらゆるパーツが、あの教室の床には散乱していた。ぱっと見ただけでは、一体何人死んでいるのか結城には分からなかった。そして、理解したくもないと同時に思った。その死体の山の中心で、まるで眠るかのように安らかに死んでいた容疑者、榊原晴彦。その表情は神の寵愛を受けたかのように満たされていて、現場のグロテスクな有様よりもむしろ、彼の死に顔こそが結城には最も恐ろしかった。
「岩さん、辛いのは僕も同じです。でも、被害者の為にも早く現場に戻って、捜査を再開しましょう」
「はは、現場ねぇ。戻っても、もはや捜査と呼べるような状況じゃねえだろ。あれは子供が散らかした部屋の後片付けと一緒だ。これ以上調べても、なにもでてきやしねえよ」
「そうは言ってもまだ動機とか、はっきりしていないことが多いですし」
「動機だったら出てきただろ。ほら、SNSの書き込み」
「ああ、あれですか……」
自身のページに榊原は、今回の事件についての予告状ともとれる内容を書き込んでいた。しかしそれは、理解しようとした頭が痛くなるような内容だった。血の儀式、異世界、転生。何文字にも及んで書かれていたその妄想は、おそらくは榊原以外の何物にも解読することは不可能だと思わせるほど、支離滅裂な文章であった。
「はっきり言ってあれだけではとても……。かといって教師への聞き込みでは、友達も多くて成績優秀。いじめに遭っていたなんてことはとてもじゃないがあり得ないって話ですし。やっぱりもう一度、同級生あたりから話を聞いて、怨恨の線から探っていくしかないですよ」
「無駄だよ。犯人にとって、あそこに書き込まれていることだけが真実なんだ。これ以上情報を得ても、推測の域を出やしねえさ」
「でも! あんな内容、全く度し難いというか、ちっとも理解できませんよ」
「そう、それでいい」
岩国は二本目の煙草を吸い終わると喫煙所を出て結城の隣へ並んだ。まだ20代の半ばを過ぎたあたりで、世の中の酸いも甘いも噛みしめてはいない若造であったが、事件に対する熱心さだけは目を見張るものがある。そんな彼だからこそ、言っておかなければいけないことがあった。
「俺は常々後輩に、被害者ではなく加害者の心理に立って捜査しろと言ってきた。結城、お前にも新米のころ、似たような話をしたな。現場や証拠には、加害者の心理が色濃く表れている。それを理解することが解決への近道なんだよ。だけどな、その言葉にひとつだけ付け加えるなら、こうだ。あまりに常軌を逸した加害者の心理は理解してはいけない。理解できない、じゃない。してはいけないんだ。榊原晴彦の心が分かった途端、お前は狂気に飲み込まれるぞ。あれは、そんな部類の人間だよ」
「理解してはいけない……。ええ、分かるような気がします」
「だからこれ以上、動機については考えるな」
結城の肩を軽く叩いて、岩国は校舎へと歩き出した。結城も黙ってそれに続く。岩国の背中を見つめながら、結城は彼の言葉を頭の中で反芻した。理解してはいけない。まさにその通りだと、結城は思った。
でも。
結城はふと、思いつく。彼は、榊原晴彦は寂しかったのかもしれない。SNSへの書き込みもこの猟奇的な殺人も、誰かに見てほしかっただけではないのだろうか。このありふれた現実世界で、不特定多数の誰かに自分の存在を知ってほしかった。歪んだ承認欲。彼を突き動かしたのは、そんな感情のような気がしたのだ。
「まさか、ね」
口に出して呟いて、結城はその思いつきを振り払った。そうだ、理解してはいけないのだし、自分に理解できるはずもないのだ。少し離れてしまった岩国との距離を詰めるために、結城は小走りで校庭を駆けていった。
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