断章 白峰まどか
ひとつの部屋に、ひとつの死体。殺人事件であるのだから、間違いなくそれは異常事態であるはずなのだが、結城は自分が思いのほか冷静でいることに気がついた。ここ最近、普通ではない事件が立て続けに起きていたせいで、心が麻痺しているのだろうと結論付ける。アレらに比べれば、今回の事件はまるで定食屋のメニューのように型式ばっていて、ありふれたものだったからだ。
「女が金をだまし取ったか、あるいは浮気でもしたか。いずれにしてもそれに逆上した男が殺害ってとこですか。至ってシンプルですね」
「凶器は拳銃ってところもポイント高いか?」
県内有数の高層マンションの最上階、まさに豪華絢爛な内装の中、白峰まどかは胸を数発撃たれて死んでいた。毛足の長い白の絨毯が彼女から流れた血で黒く染まっており、この絨毯だけで自分の給料何カ月分になるのだろうか、と結城は暢気に考えていた。
「ガイシャは高級ソープ嬢ですか。うーん、確かに美人で体つきもすごい」
「あんまりジロジロ見んなよ。ま、どうせ他の連中に仕事は全部持ってかれそうだがな。単純にコロシの捜査として来てんのはウチくらいなもんだ」
広いダイニングキッチンの間取りであったが、そこは目つきの鋭い男たちでごった返している。ただの殺人事件にしてはやけに警官の数が多い。結城はようやくその事実に気付いて岩国に尋ねた。
「これ、どんだけ人が来てるんですか? 普段は見ないような課の連中も出入りしているようですけど」
「結城、さっきはシンプルな事件ってことで安心してたみたいだがよ。残念ながら、今回も普通の事件じゃないんだよ」
そう言われて結城はもう一度現場を深く観察してみた。だが、特に争った形跡や不審な様子はなく、死因も銃殺以外には考えられない。不思議そうに首を捻る結城に、岩国は声を顰めて囁いた。
「窃盗や暴行に始まり、あげくは結婚詐欺や恐喝、麻薬の所持・密売まで。殺人事件への関与も両手じゃ数えられないって話だ。そこで死んでいる女にはそれこそ星の数ほどの容疑が上がってんだよ」
「な、なるほど。だからこれだけ人が集まってるんですね。まるで火薬庫みたいな女じゃないですか。でも、それならどうして殺されるまで放って置かれたんです?」
「こいつにはやくざの大親分から大物政治家まで、色んな「父親」がいたんだ。警察も偉そうに市民には吠えてても、結局は権力の犬だ。死んで初めて、手を出せたっていう情けない話だよ。……まあ、これはオフレコであんまり広めるんじゃねえぞ。それこそ警察中に目をつけられる案件だからな」
熱心に箪笥やクローゼットの中を探る者や、PCを機器に繋いで目まぐるしく操作している者。言われてみれば確かに、死体になどまるで興味がない連中がそこかしこにいた。殺人事件は結城たちの担当であるはずなのに、その自分たちこそがまるで異物であるかのような、奇妙な緊張感がこの現場には漂っている。居所の悪さを感じ、結城たちはじりじりと気圧されるようにして壁際まで下がっていく。
「しっかし、それだけ犯罪を繰り返していたんじゃあ、相当貯め込んでいたんでしょうね」
人垣の隙間から覗く死に顔は、苦痛に歪んでいるのにも関わらず、なおも魅力的だった。涙袋が大きく膨らんだ相貌に形のよい眉。肉厚だが、下品さは全く感じさせないあの唇で愛の言葉でも囁かれた日には、どんな男でもコロッと堕とされてしまうだろう。横たわっていてもはっきりと形が分かるくらいに膨らんだ胸やスカートからすらりと伸びたしなやかな太ももまで。まさしく、神に愛された容姿とはこのことだった。風俗嬢としてだけでも人並み以上に稼ぐ彼女は、果たしてどれだけの富を得ていたのだろうか。
その疑問に、岩国は軽く笑いながら答えた。
「それがよ、どうやらほとんど貯金はしていなかったみたいなんだよ。手に入れた金は三日足らずで使い果たす。浪費癖の最上級だね、こいつは」
「マジッすか。まあ高そうな服着てるし、宝石とかにも相当使ってたってことなんですかね」
「いや、そうでもないらしいんだよ。まさに荒唐無稽って言葉そのものの金遣いだったらしくてな。なんでも零細企業の株を限界まで買い漁ったり、スマホのゲームで何百万と使ったりしてたそうだ」
「それは……豪快を通り越して異常、ですね」
「まだまだ驚くのは早いぜ。なんと、去年の今頃に丸ごと1億近く途上国の支援のために募金したんだとよ。かと思えば、リゾート開発に出資してたりもする。善人なのか悪人なのか、それともどっちでもないのか。死んでからも男を惑わせる、まさに魔性の美女だな」
手帳に書かれた白峰のデータを読み上げながら、岩国が訝しそうに首を捻った。何か深い事情がありそうな金の動きだったが、どう調べてみてもさっぱり見当もつかないのだ。
しかし、結城はなんとなくであるが、彼女の本心が分かるような気がした。
「もしかしたら、本当に彼女は金を捨てるためだけに使っていたんじゃないでしょうか。金を得るために罪を犯していたんじゃなくて、罪を犯したいが故に悪に手を染める。うん、そう考えるとしっくり来る気がします。そこから生まれた現金は、あくまで彼女にとって副産物でしかなかったんですよ」
「結城、お前、大丈夫か?」
手帳から顔を上げて、心配そうに岩国が見つめてくる。茶化すような含みはなく、真剣なまなざしであったので結城は空笑いで場を誤魔化そうとした。
「ははは、すみません、やっぱり最近変な事件ばっかりで、考え方も影響されてるのかもしれませんね」
「さっきの答えは常人の思考回路じゃねえぞ。それに目もどこか虚ろだったし……。よく言うだろ? 精神科医だって患者に長時間触れているとメンタルを崩すんだ。溜まっている有給でも使ってリフレッシュした方がいいんじゃないか?」
「心配無用ですよ。大丈夫です。慎重に、「慎重」に僕は物事を判断できていますから。彼らの考えが分かっても、彼らみたいにはなりません」
言い終えると、結城は逃げ出すように白峰の死体が置かれているダイニングの中央へと戻っていった。受け答えも問題なく、足取りもしっかりしてはいたが、岩国にはそれが無理やり繕った正常さのようにも感じられた。
「まったく、お前は本当に男を狂わせるのが好きみたいだな」
岩国が苦虫を噛み潰したような表情で一人呟く。死んだ女に向けて放たれたその言葉は、現場に殺到した警官たちの騒々しさにかき消され、誰の耳にも届くことなく空気の中に溶けて行った。