第2話 一人ぼっちの十字軍⑥
深い森の中を、ミトラは必死に駆けていた。
教会で異端たちを皆殺しにした後、迫りくる衛兵たちの姿を一目見た途端、ミトラは怯えとともにその場から逃げだしていた。彼らなど一蹴できるだけの力を持っているのにも関わらず、ミトラは戦うという選択肢を放棄したのだ。
何故なら、衛兵たちはまだ彼女の中で『普通の人』であるからだ。異教の民は殺しても何ら心が痛まないミトラであったが、無関係の人々を犠牲にするのは彼女の信仰においてタブーとされていた。その教えを忠実に守るため、ミトラは一人鬱蒼と生い茂った木々の合間を走っていく。
駿馬にも勝る脚力のおかげで、町からはもう何キロも離れていた。追手もさすがにここまでは来ないだろうと、ミトラはようやく腰を下ろす。滝のように流れる汗と皮膚にこびり付いたままだった返り血を拭いながら、ミトラはふと思った。どれだけ並はずれた力を持っていても、身体や心は疲労を感じるんだな、と。
メイやジュードを手に掛けたことには、ミトラは全く良心が痛んではいなかったが、それでも少し悲しくはあった。せっかく仲良くなれると思っていた夫婦が、まさか異教徒だったなんて。異なる宗教があるから、争いが生まれるんだ。己のしでかしたことなどすっかり棚に上げて、ミトラは異世界の神を強く恨んだ。
大きな樹木に体重を預けて、空を仰ぎ見る。昼間に差し掛かった太陽の光が折り重なった木の葉の向こうから、細かい粒子となって森へと降り注いでいた。青空こそ木陰のせいで見えないが、いい天気。おじさまのパンでも貰ってきていたら気持ちの良いピクニックになったのに。町から遠くまで来てしまったことをミトラは後悔した。
これから、どうしよう。
ミトラの鼻先をかすめて、小さな羽虫が飛んでいく。テントウムシのような、紫の甲殻をもった楕円形の虫だった。図鑑でも見たことがない姿に、やっぱりここは異世界なんだなと改めて理解する。
テラ・マグラニカ。メイたちのおかげでこの異世界に対する好感度は天から地獄へと突き落されていた。せっかく好きになり始めていたのに、まさか異教徒が多くはびこる穢れた地だったなど、ミトラは泣きたくなるくらいに不幸だと感じた。
男の子だったらまだしも、こんな土地で暮らしていくだなんて、私には無理。
こうなったのは、どうしてだろ?
「他の転生者を全て殺せば、なんでも願いがかなう」
ミトラはふと、仮面の男が最後に言った言葉を思い出す。あの歪みきった奇妙な仮面と不遜な立ち振る舞いに、ミトラは嫌悪感を覚えていたが、よくよく考えてみれば、こうして自分が転生し、第2の生を歩めているのはあの男のおかげであった。
この現象は、尋常のものではない。
人智を超えた、まさに神の所業とも呼ぶべき奇跡だったのだ。
奇跡とは真なる神だけが起こせるものであるはずだ。それなのに何故、自分はこうして異世界へと転生しているのか。あの仮面の男も、真なる神と同格の力を有しているのだというのか。いや、そんなはずはない。
あの男は他にも何か言っていた。そうだ、まるで自分が誰かの使者であるかのような口ぶりだったではないか。
「……ああ!」
どうして思い至らなかったんだろう。
天啓を得て、ミトラは立ち上がる。そうか、そうだったのだと。
あの仮面の男こそ、彼女が信じる神が寄越した使いだったのだ。そして、この異世界はミトラに課せられた大いなる試練なのだ。肌身離さず持ち歩いていた教典にも、書いてあったではないか。人々を導く師になるためには、煉獄の中を歩む覚悟がいるのだと。異教徒であふれたこの大陸こそ、まさに煉獄だった。
「ああ、我が真なる神よ。あなたの声、確かにお受けいたしました。これよりミトラはこの世界に救済をもたらします。悪しき魔王を打ち倒し、正しき信仰を民へと伝えましょう!」
6人の、転生者という名の魔王たち。彼らを皆殺しにし、この異世界や現実世界に住む人々全てを、真なる神のみなしごにするのだ。完全なる救済。それこそが、成就すべき私の願いだ。
ミトラは再び走り出す。浮かれた表情で、風よりも速く。目指すは異端者どもの首、ただそれだけだ。