断章 柊佳也子
現場となったリビングは、犯行から丸一日経った今でも未だ硝煙の匂いが残留していた。
家族の団らんの場となっていたダイニングテーブルは跡形もなく消し飛んでいて、そこを中心にして一面が黒焦げになっていた。フローリングの床は剥がれおち、軒下からは基礎のコンクリートが見え隠れしている。幸せな家庭の痕跡。一瞬にして爆炎に包まれ、痛みを感じる暇もなく天へと旅立ったことが、結城には唯一の救いのように感じられた。
非番の日に岩国から呼び出されたのは、県内でも有数の高級住宅街の一画だった。都内へと通勤する富裕層が住むニュータウンで、地元暮らしが長い結城は憧れを覚えていた地域だ。記憶している中では目立った事件など起きたことがない平和な土地であったが、まさかこのような凶行が起こるとは。一報を聞いた時、結城は信じられない思いだった。
犯行時刻は夜7時過ぎ。一家が夕餉を囲んでいたところに、犯人がベランダから侵入した。目立って争った形跡はなく、おそらくは家族全員が呆気にとられている間に、犯人は自らにくくりつけた爆弾を起動し、家族を爆殺。まだ4歳だった娘を含む全員が即死した。そして、爆発の中心にいた犯人も、もちろん生きてはいなかった。
怨恨や近所のトラブルに巻き込まれた可能性を、初め警察は当たっていたが、現場の遺留品や犯行に用いられた爆弾の特徴から、あっけなく事件は解決へと向かっている。
「つまり、これは自爆テロってことですか」
「ああ。この前都庁の近くで爆発騒ぎがあっただろ? あの時に使われていた爆弾と今回のものが非常に似ているんだよ。それに加えて、遺留品からホシが割れた」
岩国は資料を結城へと手渡した。何とも言えないような渋い表情に、怪訝に思いながらも結城は資料に目を通す。束になった紙の一番上、添付されていた写真にはまだ年端もいかないような少女が映っていた。
「まさか、この女の子が犯人だって言うんですか」
「柊 佳也子。マジモンの狂信者だよ」
資料には続いて、彼女の経歴が綴られていた。近頃ワイドショーでよく目にする新興宗教の名前が、所々に出てくる。テロまがいの行為を繰り返し、最近では死者まで出るほどの過激派で有名だった。そんな団体で、彼女はまだ齢19にして幹部なのだと記されていた。
被害者団体を擁護する弁護士への暴行。無差別な拉致行為。さまざまな悪行の中には、つい最近世間を賑わせた政治家秘書の殺人への関与の疑いもあると記されている。もう一度写真を確認してみるが、結城にはどう見てもただの快活そうな少女にしか見えない。しかし、その実態は筋金入りの犯罪者なのだ。
「団体の中では、なんとかミトラって名乗ってたらしい。世俗の名を捨てて、高尚な生を全うする、とか。よくわからんが」
「同感です。とはいっても、やっぱり信じられませんよ。19歳って言っても、写真で見る限りだとかなり幼く見えますし。それに、どうしてそんな大層な宗教団体が、この家庭を襲ったんです? 夫は一般的なサラリーマンだったようですが」
結城の責めるような口調に、岩国が苦虫を噛み潰したかのように、不機嫌そうに口を曲げる。ここから先は、さらに気持ちのよくない話になるのだと、結城は感じ取った。だが、彼も刑事の端くれとして踏みとどまるわけにはいかなかった。
無言の視察戦を繰り広げていた二人だったが、岩国が先に折れた。彼は煙草が吸いたそうに胸ポケットをまさぐっていたが、ここが現場であることを思い出し、軽く舌打ちをしながら頭をぼりぼりと掻いて、渋々といった感じに口を開く。
「もともとは、この爆弾、政府の高官に対して使用する手はずになっていたらしい。さっき、連絡があってな。そっちは未遂で済んだそうなんだが、まあ、柊佳也子がこっちで死んでメンバーが足りなかったのもあったんだろう」
「一般市民の死が政治家を救う。皮肉ですね。それで? その大事な爆弾を何故決行前にこの家族に対して使ったんです?」
「……近所の聞き込みでは、この一家は敬虔なクリスチャンだったらしい。食事の折にもお祈りを欠かさない、熱心な信徒だったそうだ」
「まさか、それだけで?」
岩国はリビングから庭へと出る。結城も慌ててそれに続いた。小さくはあるが、花壇には季節の花が植えられ、よく手入れされていることが分かる小奇麗な庭だった。週末には家族の憩いの場となっていただろうその庭は、肩までの高さくらいの生垣で周りを囲われており、その向こうからは通りを窺うことができた。逆を返せば、通りからも庭の、そして家の中の様子を見ることができたということだ。
「おそらく柊佳也子は、そこの道路から家族が食事時に祈りをささげる姿を目撃したのだろう。幸せそうに、神を讃える姿を、彼女は許せなかった。資料にもあるように、彼女に肉親はいない。それも怒りの原因かもしれないが、まあそこまでいくと憶測の域を出ないか」
「だから殺したと? 自分の命を投げ打って? そんなの、馬鹿げてる!」
「ああ、その通りだ。こいつは正真正銘、ネジが抜けた馬鹿なんだろうよ」
写真の中でほほ笑む彼女は、相も変わらず純粋そうで可愛らしい。薄っすらと染めた茶色の髪も、控えめなメイクも、町を歩けば当たりそうな、どこにでもいる少女だった。よもや、信仰による狂気を内包している気配など、まるで感じられない。それでも彼女、柊佳也子は殺すのだ。幸福な家族を、異端と罵りながら。
やりきれない気持ちになって、結城は深いため息を漏らした。
「前の事件も言ったが、あまり深入りしないことだ。この仕事を長く続けたかったらな。少し外の空気を吸って、リフレッシュしとけ」
そう言い捨てて岩国は家の中へと戻っていく。自分も戻らなければ、とは思うのだが、殺された家族のことを、そして殺した柊佳也子のことを考えると、足は棒になったように上手く動いてはくれなかった。岩国の言葉に甘えて、気持ちの整理をしてから仕事に戻ろう。
俯いた結城の目に踏みにじられた花壇の花が映った。同心円に広がった白い10枚の花弁と、大きな3本の雌しべが特徴的な、あまり見慣れない花であった。柊佳也子が侵入した際に、踏みつぶしてしまったのだろうか。それにしては、あえて狙ってその花を踏んだような、そんな感じもする。理解できない柊佳也子の心の一端がその光景に現れているような気がして、結城はじっとその花、トケイソウを見つめているのだった。