プロローグ
そこは安らぎに満ちた場所だった。
明るさも暗さも感じられない、五感すべてを優しく包み込むような途方もない奥行きがその空間には詰まっていた。
あるものは母親の子宮に還ったのかと思い。
あるものは深い海の底で眠っているのかと感じた。
意識と存在がさざ波のように揺らめいて、曖昧な境界線は陽炎のごとく形を変える。自己とは何か、思考とはどこか。おぼろげながらも全員が理解していた。これが、死なのだと。
「お集まりのみなさん。おはようございます」
かすれゆく魂に楔を打つような、くっきりとした輪郭をもった声が響いた。無で埋め尽くされた空間に、まるで初めからそこに在ったかのように、何者かが鎮座している。幼子のような、鬼のような、喜怒哀楽をミキサーでかき混ぜたみたいにぐちゃぐちゃの表情をしたお面。その首元から生えるかのように、しわ一つない三つ揃えのスーツを着た身体があった。
「お察しの通り、みなさまはお亡くなりになられました」
低く落ち着いた言葉が仮面の口元から吐き出されていく。その言葉はまるで呼び水のように、ひとり、またひとりと集まっていた者たちの自我を取り戻していく。肉体こそ纏いはしなかったが、彼らは己の目や耳を感じ取っていた。そして同時に、自分以外にも他に6人、同じように仮面の男の周囲を漂う存在を感知することができた。
「ですが、我らの父は寛大です。ここにいらっしゃる7名の方々は、生前目まぐるしいご活躍をされておりました。なので今一度、父はあなた方の生きる姿をご覧になられるために、こうして機会を設けられたのです」
仮面の男が白手袋に包まれた指で、どこかを指した。すると何もなかった空間にインクが滲むように、じわじわとここではないどこかの風景が混じっていく。
中世風の家屋が建ち並ぶ街並みに、剣や鎧をまとった男と女。大通りの奥からは蔦が絡んだ壮大な城がこちらを見下ろしていた。映画や漫画の中でしか見たことのない風景。そのどれもに作り物めいた欺瞞は感じられず、おおよそ真実の映像であると7人は不思議と感じた。おそらくは理屈ではなく、本能が悟らせた。映り込んだ風景はそのまま群衆ひしめく街中から遠ざかり、門をくぐると外には広大な荒野が広がっていて、巨大な怪物たちが我が物顔で闊歩している。視点は鳥瞰図のように天空へと舞い上がっていき、怪物や王城が消えゆく蝋燭の明かりのように小さくなっていき、それでもまだ上昇は続く。
「テラ・マガラニカ。この大陸が、あなたたちが転生する舞台となります」
言い終わると同時、映像がぴたりと空中に固定された。緑に包まれた洋ナシ型の陸地が眼下に広がっている。周囲は絶海で、小島の影ひとつ見つけることはできない。世界にたった一つだけ存在する稀有なる孤島。まるでアトランティス。七人が七人とも、それぞれの言葉でその大地を形容した。
「この世界はみなさまが住んでいた地球とは違って、魔法やモンスターが存在する、驚嘆すべき幻想が広がっております。ですのでこのまま裸一貫、放り出すのは気が引けるという父の懸念から、みなさまにはそれぞれ素敵な能力をご用意させていただきました。ひとつは、類まれなる身体能力です。みなさまの前にはどんな人間もモンスターも塵に同じです。病気も毒も寄せ付けない無敵の身体となります。そのような些事のせいで倒れられるのは、父も望んではいないからです」
仮面の言葉を聞いていた七人は自らの奥底から言いようの知れない強靭さが漲ってくるのを感じた。腕を振るうだけで鋼鉄を引き裂くことができ、瞬く間に万里を駆け抜けられるような、そんな人智を超越した肉体が宿ったことを確信できた。この場では疑うという心が奪い去られてしまっているのか、誰もが迷うことなく自らの変容を受け入れていた。
「もうひとつはみなさまの個性にちなんだ、特殊なチカラをプレゼントいたしました。身体能力のおかげで、ただでさえ無双極まりないみなさまですが、その上さらにチートと呼ぶべきチカラまで分け与えるとは、父のみなさまに対する耽溺具合がご理解いただけるかと思います」
卓越した身体能力と同様に、そのチカラが備わったことも彼らは知り得た。チカラの内容に、享受する者、歓喜する者、多種多様な感情で反応したが、7人全員が最終的には同じ結論に至った。なるほど、自分になんとふさわしいチカラであるのかと。
姿は見えない亡者たちの様子を観察しているのか、仮面の男はしばらく無言で佇むばかりだったが、しばらくするとまるで機械のように礼儀良く頭を垂れ、イントロダクションの終わりを告げた。
「これにて私からのお話は以上となります。後はみなさん、マガラニカで思う存分第二の生を楽しんでください。魔王を討伐する旅に出るもよし、一国を納める主になるのもよし、無限の未来があなたたちを待ち受けています」
その言葉を合図に、また空間が定義を失って淀み始める。質量を伴っていた魂が撹拌され、未知の大陸へと注がれていく。意識が無へと流れ込んでいく最中、仮面の男が急に素っ頓狂な声を上げて手を打った。
「あ、ひとつ言い忘れておりました。これは余談にはなるのですが、ここに集った7人のうち6人が何らかの事情で死に至った場合、残り一人には何でも願いを叶える権利が生じます。父が退屈しないように私が仕込ませていただいたおまけのようなものなんですがね。まあ、これからステキな転生ライフを過ごすみなさまには無縁の長物です、忘れてください」
途端、誰かが笑った。7人のうちの誰かが、確かにほくそ笑んだ。仮面の男が初めてピクリ、と身を震わせた。あまりに卑屈で醜悪なその笑みに、僅かばかりに気圧されたのだ。
魂は大陸へと散ってゆく。座標すら失ってしまった空間の中で、残された仮面の男は静かに囁いた。
「よかった、これは面白くなりそうだ」
それは純粋に上機嫌な声色にも聞こえ、また残忍な嘲笑のようでもあった。