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壁に背中を預けて雄大は、大勢の人で賑わうきらびやかな室内を眺めていた。表情らしい表情は特になく、彼が何を考えているのか……それを読み取ることはできない。
「酔ったな……」
ぼそりと口中で低く呟き、雄大は軽く頭を振った。そうして、手にしたグラスの中身を一口飲む。茶色いそれは、日本茶とは違って独特の苦味があって、やはりこんな時は水が良いなと雄大は顔を顰めた。自分がまだ未成年であるという自覚があるため、彼が口にしたアルコールは最初の乾杯時のシャンパンだけであり、その後はジュースやお茶等を飲んでいる。
昔から人が大勢いる場が苦手であるため、彼が言う“酔った”とは、アルコールではなく“人に”なのだ。それと女性達の化粧や香水の匂いも、この“酔い”の原因の一つになっている。
手近な窓から庭へと出ると、彼は数回深呼吸をし、室内よりは幾分か新鮮な空気を体内に取り入れる。滅多に参加することのないパーティーだが、主催者が主催者だけに、いつものように無視するワケにはいかなかった。
「雄、ここにいたんだ」
「……亜蘭」
にこやかな笑みを浮かべ、右手に細長いグラスを持ったその人物は、雄大の傍までくると左手で彼の頬を触った。
「うわ、きみってば酷い顔だねぇ」
大丈夫かい?――と、亜蘭は眉間に縦皺を作った。
「酔った……」
「こらこら、未成年の飲酒はダメだよ」
「違う。人と匂いに、だ」
「ああ、そっちか」
納得したように頷くと、亜蘭は雄大のネクタイの結び目に手をかけ、それを少し緩めてワイシャツのボタンを二つほど外してやった。今夜のパーティーは政治家である亜蘭の父親が主催したもので、雄大の父と彼の父とは無二の親友という間柄なのである。そのため子供達も、生まれた時からの付き合いだ。
「そういえば向こうに、武蔵川の息子がいたよ。きみ、確か彼と同じ高校じゃなかったっけ?」
「ああ、エロ男爵か。同じクラスだよ」
「エロって……何それ? もしかして彼の渾名?」
プッとふきだして、亜蘭は琥珀色の液体をゆっくり飲んだ。横目でそれを見ながら雄大は、「なにが未成年の飲酒はダメだ。自分は飲んでいるくせに」と、内心で毒づく。そんな幼馴染みの心の呟きを知ってか知らずか……母親譲りの金色がかった茶色の髪を無造作に後に流し、亜蘭は妙に色っぽい目つきで雄大を見た。その緑色の瞳を見て「これは酔っているな」と、雄大はこっそりと溜息をついた。
「ねぇ、雄。ちぃちぃはどうしてるの?」
「元気だよ」
「そう。彼女、今どこにいるの? あの家はもう、人手に渡ってしまったんだろう?」
テラスでお茶を飲むのが好きだったのに――と、亜蘭は残念そうに唇を尖らせた。
「とっくにな。ちぃは今、武蔵川の家で住み込みのメイドをやってるよ」
「は? メイドだって?! 何でそんな事を、ちぃちぃがしなくちゃいけないのさ!!」
「俺が手を打つ前に、先にあいつにやられたんだ。親父さんの借金を、武蔵川の父親が肩代わりした。彼女は……ちぃは……親父さんが逃げないための、人質みたいなもんなんだよ」
「ふぅん。雄が先手を打たれるなんて、珍しいね」
「……」
ブスッとして、雄大は額に落ちてきた前髪を掻き上げると、己が掌をじっと見つめた。この中にあったはずの温もりが、自分の意思とは関係なく消えてしまった。そしてそれは、自分ではない他の男のモノとなろうとしている。冗談じゃない。誰がそんな事をさせるか。
グッと拳を握り締め、雄大は目を閉じ深く息を吐く。どうやったら取り返せるのか……どうしたら取り戻せるのか………。
「ちぃちぃの親父さんの借金って、どれくらいあったの?」
「さあ? そこまでは俺も知らない」
「ふぅん。でも、そんなに業績悪くなかったよね?」
「ああ。確かに。ちぃの親父さんはさ、親族を信用し過ぎたんだ。だから横領されている事にも気づかず、結果、借金を全部被るハメになった」
「ふぅん。元々経営者向きじゃなかったのかもね」
「そうだな」
「で、なんで武蔵川の家でメイドなんだ?」
「ああ、それは――」
雄大がその理由を話そうとした時、第三者が現れた。それは雄大が、今、もっとも会いたくない人物だった。
「おい、溝上 雄大」
チッと短く舌打ちし、雄大はゆっくりと顔をそちらへと向ける。亜蘭も彼に倣い、声のした方へと視線を向けた。黒っぽいスーツを着ている武蔵川 裕樹が立っていて、その秀麗な顔は不機嫌さを隠そうともしていなかった。
「まさかこんな所で会うとはね。誰かと思ったよ。なぁ溝上、なんでお前、学校であんなダッサイ眼鏡なんかしてんだ? 本当はイイ男のくせに、眼鏡のせいで野暮ったくなってるよ」
今はコンタクトなのかと問う裕樹に、雄大は嫌そうに片唇を上げた。答える気はないらしいので、彼の代わりに亜蘭がその問いに答えた。
「雄は元々、視力良いんだよ。眼鏡は単なる虫除けさ」
ボクがアドバイスしたんだよ――と、亜蘭はくすりと笑う。裕樹は彼をちらりと一瞥しただけで、すぐに視線を雄大へと戻した。
「何か用か? 武蔵川」
「ああ。良い機会だから、お前に言っておこうと思って」
カツリと音をさせ、裕樹は雄大のすぐ目の前まで来ると、挑むような目で彼の目を見た。
「茅衣子に近づくな。お前はもう、彼女の許婚じゃないんだ」
雄大の眉根がグッと引き寄せられ、唇がきつく結ばれた。
「茅衣子は僕のものだよ」
「ちぃは“もの”じゃない」
「正論吐くな、ムカツク奴だ」
「お前、ちぃをどうするつもりだ? まさか死ぬまで、彼女をお前の家で働かせる気か?」
「まさか」
「だったら、ちぃを自由にしてやれ。親父さんがお前のとこの監視下あって、毎月借金を返済している事くらい知ってるぞ。お前、それをちぃに話していないだろう? 何でそういう汚い真似をするんだ」
今にも掴みかかりそうな雄大に、裕樹は余裕の笑みを浮かべる。そして彼の左肩にポンと手を置いた。
「あのさぁ溝上、きみ、解っちゃいないね? そんなこと言ったら、チーコちゃんは僕から逃げちゃうじゃないか。僕は僕の可愛い小鳥が鳥籠から逃げないように、ありとあらゆる手を打つ必要があるんだ。たとえそれが卑怯で汚い手だとしてもね」
ヒュウ――と、亜蘭が口笛を吹き、楽しげにパチパチと手を叩いた。
「黒いねぇ~きみ。綺麗な顔しているのに、腹の中は真っ黒だ。こんな大変な男に気に入られちゃって、ちぃちぃってばなんて可哀想な子なんね」
亜蘭は言っている事と表情とが正反対で、「お前もこいつと同類だろう」と喉まで出かかった言葉を、雄大は無理矢理胃の中へと飲み戻した。
「ちぃちぃ?」
その親しげな呼び方に、裕樹から笑みが消え、瞬時に不機嫌な顔に戻る。彼はニコニコしている亜蘭をぎろりと睨む。
「ああ、自己紹介がまだだったか。ボクは里見 亜蘭。この髪と瞳の色はハーフの母親譲りで、自前だから誤解のないようにね。ボクは雄大の幼馴染みで、ちぃちぃとは彼を通じて知り合ったんだ。あ、先に言っておくけど、ボクはちぃちぃのこと、妹としか見てないから安心していいよ」
年下は恋愛対象外なんだ―――と、亜蘭は口端を軽く上げた。裕樹は首の後ろを掻きフンと鼻を鳴らす。
「武蔵川」
「あん?」
「この際だ、俺もお前に言っておく。ちぃは返してもらう。絶対に、だ」
くしゃりと前髪を掻き上げ、裕樹は不敵な笑みを浮かべた。
「やれるものならやってみろ」
「ああ、やってやるさ」
「ま、無駄だとは思うけどね。チーコちゃんの気持ちは、もう僕の方に傾き始めているんだから。お前なんかが今更どうこうしても、何も変わりはしないよ」
それでも良ければやってみな――と、雄大の胸を拳で軽く叩き、裕樹は踵を返し室内へと戻っていった。すぐさま彼の周りには、年頃の女性達が群がる。媚びるような熱っぽい視線を、彼女達は一生懸命裕樹に送った。だが彼は上辺だけの笑みを浮かべて、上手にそれをかわしていく。
「きみもアレくらいできると良いんだけどねぇ……」
感心したように呟いた亜蘭に、雄大は冷やかな視線を送る。
「ちぃちぃが横にいれば、誰もきみに寄ってこないから、ダッサイ眼鏡なんてかけなくてもよかったのにね」
彼女を失った損失は大きい――と、亜蘭は肩を竦めた。
「……黙れよ亜蘭。お前、さっきから煩いんだよ」
「おー怖っ!」
わざとらしく体を震わせ、亜蘭はぺろりと舌を出す。
「良い機会だ、お前にはたっぷりと……」
文句を言ってやる――と、食いつきかけた雄大を右手で制し、彼は上着の内ポケットからスマートフォンを取り出した。ブーブーと小さな音がしていて、どうやら誰かから電話がかかってきているらしい。相手を確認してから、亜蘭は通話ボタンを押した。黒いそのスマホを耳にあて、彼は雄大にウィンクをし、その場からいそいそと去っていく。
「チッ、また女か……相変わらずだ」
呆れたように息を吐き、雄大は空を見上げた。
今夜はいつもより空気が綺麗なのか、星の輝きが多く見ることができた。少し丸みの欠けた月が浮かんでいて、彼はそれを見ているうちに、ふと去年のことを思い出す。夏休みに雄大は、祖母の住む別荘に亜蘭とその時彼が付き合っていたガールフレンド……そして茅衣子を連れて四人で遊びに行った。明日は東京に戻るという晩、茅衣子と二人でバルコニーで夜空に浮かぶ真ん丸な月を眺めた。その時触れた彼女の、あの甘く柔らかな唇の記憶は、今でも雄大の唇にハッキリと残っている。
「ちぃ」
そっと指先で自分の唇に触れ、雄大は静かに目を閉じた。目蓋の裏に浮かぶのは、他の男の鳥籠に入れられてしまった小鳥……茅衣子という名の可愛い小鳥。