表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

 壁に背中を預けて雄大は、大勢の人で賑わうきらびやかな室内を眺めていた。表情らしい表情は特になく、彼が何を考えているのか……それを読み取ることはできない。


「酔ったな……」


 ぼそりと口中で低く呟き、雄大は軽く頭を振った。そうして、手にしたグラスの中身を一口飲む。茶色いそれは、日本茶とは違って独特の苦味があって、やはりこんな時は水が良いなと雄大は顔を顰めた。自分がまだ未成年であるという自覚があるため、彼が口にしたアルコールは最初の乾杯時のシャンパンだけであり、その後はジュースやお茶等を飲んでいる。


 昔から人が大勢いる場が苦手であるため、彼が言う“酔った”とは、アルコールではなく“人に”なのだ。それと女性達の化粧や香水の匂いも、この“酔い”の原因の一つになっている。


 手近な窓から庭へと出ると、彼は数回深呼吸をし、室内よりは幾分か新鮮な空気を体内に取り入れる。滅多に参加することのないパーティーだが、主催者が主催者だけに、いつものように無視するワケにはいかなかった。


「雄、ここにいたんだ」

「……亜蘭(あらん)


 にこやかな笑みを浮かべ、右手に細長いグラスを持ったその人物は、雄大の傍までくると左手で彼の頬を触った。


「うわ、きみってば酷い顔だねぇ」


 大丈夫かい?――と、亜蘭は眉間に縦皺を作った。


「酔った……」

「こらこら、未成年の飲酒はダメだよ」

「違う。人と匂いに、だ」

「ああ、そっちか」


 納得したように頷くと、亜蘭は雄大のネクタイの結び目に手をかけ、それを少し緩めてワイシャツのボタンを二つほど外してやった。今夜のパーティーは政治家である亜蘭の父親が主催したもので、雄大の父と彼の父とは無二の親友という間柄なのである。そのため子供達も、生まれた時からの付き合いだ。


「そういえば向こうに、武蔵川の息子がいたよ。きみ、確か彼と同じ高校じゃなかったっけ?」

「ああ、エロ男爵か。同じクラスだよ」

「エロって……何それ? もしかして彼の渾名(あだな)?」


 プッとふきだして、亜蘭は琥珀色の液体をゆっくり飲んだ。横目でそれを見ながら雄大は、「なにが未成年の飲酒はダメだ。自分は飲んでいるくせに」と、内心で毒づく。そんな幼馴染みの心の呟きを知ってか知らずか……母親譲りの金色がかった茶色の髪を無造作に後に流し、亜蘭は妙に色っぽい目つきで雄大を見た。その緑色の瞳を見て「これは酔っているな」と、雄大はこっそりと溜息をついた。


「ねぇ、雄。ちぃちぃ(・・・・)はどうしてるの?」

「元気だよ」

「そう。彼女、今どこにいるの? あの家はもう、人手に渡ってしまったんだろう?」


 テラスでお茶を飲むのが好きだったのに――と、亜蘭は残念そうに唇を尖らせた。


「とっくにな。ちぃは今、武蔵川の家で住み込みのメイドをやってるよ」

「は? メイドだって?! 何でそんな事を、ちぃちぃがしなくちゃいけないのさ!!」

「俺が手を打つ前に、先にあいつ(・・・)にやられたんだ。親父さんの借金を、武蔵川の父親が肩代わりした。彼女は……ちぃは……親父さんが逃げないための、人質みたいなもんなんだよ」

「ふぅん。雄が先手を打たれるなんて、珍しいね」

「……」


 ブスッとして、雄大は額に落ちてきた前髪を掻き上げると、己が掌をじっと見つめた。この中にあったはずの温もりが、自分の意思とは関係なく消えてしまった。そしてそれは、自分ではない他の男のモノとなろうとしている。冗談じゃない。誰がそんな事をさせるか。


 グッと拳を握り締め、雄大は目を閉じ深く息を吐く。どうやったら取り返せるのか……どうしたら取り戻せるのか………。


「ちぃちぃの親父さんの借金って、どれくらいあったの?」

「さあ? そこまでは俺も知らない」

「ふぅん。でも、そんなに業績悪くなかったよね?」

「ああ。確かに。ちぃの親父さんはさ、親族を信用し過ぎたんだ。だから横領されている事にも気づかず、結果、借金を全部被るハメになった」

「ふぅん。元々経営者向きじゃなかったのかもね」

「そうだな」

「で、なんで武蔵川の家でメイドなんだ?」

「ああ、それは――」


 雄大がその理由を話そうとした時、第三者が現れた。それは雄大が、今、もっとも会いたくない人物だった。


「おい、溝上 雄大」


 チッと短く舌打ちし、雄大はゆっくりと顔をそちらへと向ける。亜蘭も彼に倣い、声のした方へと視線を向けた。黒っぽいスーツを着ている武蔵川 裕樹が立っていて、その秀麗な顔は不機嫌さを隠そうともしていなかった。


「まさかこんな所で会うとはね。誰かと思ったよ。なぁ溝上、なんでお前、学校であんなダッサイ眼鏡なんかしてんだ? 本当はイイ男のくせに、眼鏡のせいで野暮ったくなってるよ」


 今はコンタクトなのかと問う裕樹に、雄大は嫌そうに片唇を上げた。答える気はないらしいので、彼の代わりに亜蘭がその問いに答えた。


「雄は元々、視力良いんだよ。眼鏡は単なる虫除けさ」


 ボクがアドバイスしたんだよ――と、亜蘭はくすりと笑う。裕樹は彼をちらりと一瞥しただけで、すぐに視線を雄大へと戻した。


「何か用か? 武蔵川」

「ああ。良い機会だから、お前に言っておこうと思って」


 カツリと音をさせ、裕樹は雄大のすぐ目の前まで来ると、挑むような目で彼の目を見た。


「茅衣子に近づくな。お前はもう、彼女の許婚じゃないんだ」


 雄大の眉根がグッと引き寄せられ、唇がきつく結ばれた。


「茅衣子は僕のものだよ」

「ちぃは“もの”じゃない」

「正論吐くな、ムカツク奴だ」

「お前、ちぃをどうするつもりだ? まさか死ぬまで、彼女をお前の家で働かせる気か?」

「まさか」

「だったら、ちぃを自由にしてやれ。親父さんがお前のとこの監視下あって、毎月借金を返済している事くらい知ってるぞ。お前、それをちぃに話していないだろう? 何でそういう汚い真似をするんだ」


 今にも掴みかかりそうな雄大に、裕樹は余裕の笑みを浮かべる。そして彼の左肩にポンと手を置いた。


「あのさぁ溝上、きみ、解っちゃいないね? そんなこと言ったら、チーコちゃんは僕から逃げちゃうじゃないか。僕は僕の可愛い小鳥が鳥籠から逃げないように、ありとあらゆる手を打つ必要があるんだ。たとえそれが卑怯で汚い手だとしてもね」


 ヒュウ――と、亜蘭が口笛を吹き、楽しげにパチパチと手を叩いた。


「黒いねぇ~きみ。綺麗な顔しているのに、腹の中は真っ黒だ。こんな大変な男に気に入られちゃって、ちぃちぃってばなんて可哀想な子なんね」


 亜蘭は言っている事と表情とが正反対で、「お前もこいつと同類だろう」と喉まで出かかった言葉を、雄大は無理矢理胃の中へと飲み戻した。


「ちぃちぃ?」


 その親しげな呼び方に、裕樹から笑みが消え、瞬時に不機嫌な顔に戻る。彼はニコニコしている亜蘭をぎろりと睨む。


「ああ、自己紹介がまだだったか。ボクは里見(さとみ) 亜蘭。この髪と瞳の色はハーフの母親譲りで、自前だから誤解のないようにね。ボクは雄大の幼馴染みで、ちぃちぃとは彼を通じて知り合ったんだ。あ、先に言っておくけど、ボクはちぃちぃのこと、妹としか見てないから安心していいよ」


 年下は恋愛対象外なんだ―――と、亜蘭は口端を軽く上げた。裕樹は首の後ろを掻きフンと鼻を鳴らす。


「武蔵川」

「あん?」

「この際だ、俺もお前に言っておく。ちぃは返してもらう。絶対に、だ」


 くしゃりと前髪を掻き上げ、裕樹は不敵な笑みを浮かべた。


「やれるものならやってみろ」

「ああ、やってやるさ」

「ま、無駄だとは思うけどね。チーコちゃんの気持ちは、もう僕の方に傾き始めているんだから。お前なんかが今更どうこうしても、何も変わりはしないよ」


 それでも良ければやってみな――と、雄大の胸を拳で軽く叩き、裕樹は踵を返し室内へと戻っていった。すぐさま彼の周りには、年頃の女性達が群がる。媚びるような熱っぽい視線を、彼女達は一生懸命裕樹に送った。だが彼は上辺だけの笑みを浮かべて、上手にそれをかわしていく。


「きみもアレくらいできると良いんだけどねぇ……」


 感心したように呟いた亜蘭に、雄大は冷やかな視線を送る。


「ちぃちぃが横にいれば、誰もきみに寄ってこないから、ダッサイ眼鏡なんてかけなくてもよかったのにね」


 彼女を失った損失は大きい――と、亜蘭は肩を竦めた。


「……黙れよ亜蘭。お前、さっきから煩いんだよ」

「おー怖っ!」


 わざとらしく体を震わせ、亜蘭はぺろりと舌を出す。


「良い機会だ、お前にはたっぷりと……」


 文句を言ってやる――と、食いつきかけた雄大を右手で制し、彼は上着の内ポケットからスマートフォンを取り出した。ブーブーと小さな音がしていて、どうやら誰かから電話がかかってきているらしい。相手を確認してから、亜蘭は通話ボタンを押した。黒いそのスマホを耳にあて、彼は雄大にウィンクをし、その場からいそいそと去っていく。


「チッ、また女か……相変わらずだ」


 呆れたように息を吐き、雄大は空を見上げた。


 今夜はいつもより空気が綺麗なのか、星の輝きが多く見ることができた。少し丸みの欠けた月が浮かんでいて、彼はそれを見ているうちに、ふと去年のことを思い出す。夏休みに雄大は、祖母の住む別荘に亜蘭とその時彼が付き合っていたガールフレンド……そして茅衣子を連れて四人で遊びに行った。明日は東京に戻るという晩、茅衣子と二人でバルコニーで夜空に浮かぶ真ん丸な月を眺めた。その時触れた彼女の、あの甘く柔らかな唇の記憶は、今でも雄大の唇にハッキリと残っている。


「ちぃ」


 そっと指先で自分の唇に触れ、雄大は静かに目を閉じた。目蓋の裏に浮かぶのは、他の男の鳥籠に入れられてしまった小鳥……茅衣子という名の可愛い小鳥。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ