17 翌日の二人と、先生
いつもの時間、いつもの場所、分厚い本、手元の筆記具。
とても幸せな居場所。
だというのに。
いつもならすぐに本の世界に浸れるのに。
今日、まだこたろーちゃんに会ってない。
カウンターにいた伊藤先生曰く、会議に行ってると言ってたけれど。
頬杖をついて、真横にある窓から外を見る。
既に夕方を迎えてオレンジが紺色に変わっていく、きれいな空。
建物に邪魔されつつ、低い位置に一番星が見えて。
じっと、見つめる。
昨日、こたろーちゃんに言った言葉に、嘘はない。
嘘吐きは……、ずっとずっと私に嘘をついているのはこたろーちゃんの方なんだから。
だから、もういいって、言った。
そんなことをしなくても、こたろーちゃんの幼馴染だからって。
幼馴染で、あり続けるからって。
嘘なのに、私の事好きだなんて思ってもいないくせに、言われ続けるのは私だって辛い。
こたろーちゃんがそんな事を言い出したのは、高校三年。
私は、まだ中学一年生だった。
その時の自分といえば小学生の頃と違う制服を着た自分に、少しこたろーちゃんに近づけたと内心喜んでいた。
……こたろーちゃんが、好きだった。
ずっとずっと、幼い頃から。
多少、憧れに近い想いだったと言えるかもしれない。
けれど、中学生に上がった後は、恋、と呼べるものに変わっていたとそう思う。
じゃなければ、あんなに苦しくなかった。
こたろーちゃんへの感情を、捨てる事、が。
”……あなたが、ひなちゃん”
未だに忘れることができない、冷たく呼ばれた自分の名前。
”本当に、ひな、ね”
初めて、自分の名前が嫌になった。
「比奈」
記憶とオーバーラップするように呼ばれた名前に、自分でもおかしいほど体が震えた。
頬杖をついていた顔を勢いよく上げて、声のした方を見る。
あまりの驚きに見開いてしまった視界には、同じようにしているこたろーちゃんがいた。
「こたろー……ちゃん」
無意識に零れた声に、こたろーちゃんが息を吐いて瞬きを繰り返す。
「どうした比奈ー。驚きすぎだろう?」
いつもの間延びした声と、柔らかい表情。
……柔らかく、そう努めようとしている、表情だ。
ツキリと胸が痛くなって、思わず目を手元の本に落とす。
「どうしたの、こたろーちゃ……梶原先生」
いけない、ここは図書室だった。
不用意に名前を呼んでいい場所じゃない。
聞かれたのが佳苗だったからよかったものの、幼馴染を隠しているはずの私が気を抜いちゃいけない。
こたろーちゃんは眉を顰めると、机の向こう側に立った。
「昨日の資料、貰おうと思って。持ってきてくれたー?」
「ごめん、忘れた」
反射的に、即答してしまった。
本当は、ちゃんと持ってきている。
机の横に置いてある鞄の中に、ちゃんと入ってる。
でも、今は。
こたろーちゃんと、あまり話していたくなかった。
「そっかー、うん、別に急がないし。気にすんなー」
いつもの間延びした声音だけれど、少し緊張感を含んでいるのが感じ取れる。
私の出方を、伺っているような。
それに気づきながらも、簡単に謝罪だけしてぺらりと本のページを捲る。
今日、一文字も頭に入れていない、その本のページを。
その音がきっかけになったのか、こたろーちゃんの掌が机に置かれた。
トンと軽い音がして、同時に上体を屈めて近づいてくるのが分かる。
ドクドクと不快なほど、鼓動が早くなっていく。
今、きっと、顔……青い。
「比奈、昨日の話だけど……」
「梶原先生」
違う意味で、肩が跳ねる。
こたろーちゃんの言葉を遮った、伊藤先生の声。
斜め上で、小さくこたろーちゃんが息を吐いて、それが耳元を通り過ぎた。
「どうしました、伊藤先生」
それでも柔和な笑みをきっと作ったのだろうこたろーちゃんが、上体を戻しながら体を後ろへ捻る。
パタパタと聞こえるのは、伊藤先生が愛用しているナースサンダル。
ゆっくりと顔を上げれば、すぐ傍まで来ていた伊藤先生と目があった。
こたろーちゃんがいるからか表情は変わらないけれど、それでも視線は冷たい。
「えぇ、昨日の資料の事ですけれど」
その言葉に手元を見れば、数枚の紙。
あぁ、と理解する。
こたろーちゃんにも伊藤先生の言わんとしていることが伝わったのか、同じように手元に視線を向けている。
「作ってきたので、どうぞ?」
案の定、こたろーちゃんに向けて差し出されたそれは、昨日私が夜に作っていたものと似ている資料。
元々の資料が手元にあることに、たぶん気が付いたんだろう。
昨日最初に私が持ってきてこたろーちゃんや伊藤先生に見せた資料は、元々彼女にも提出したものだったのだから。
こたろーちゃんは差し出された資料を一瞥して、すぐに顔を上げた。
その表情が無に近いことに気が付いて、私は慌ててその資料を奪い去るように手に取る。
「委員長?」
非難がましい伊藤先生の声が聞こえたけれど、私は構わずにその資料に目を通すふりをした。
「凄いですね! やっぱり、教えて頂いても足元に及ばないです、私なんて!」
「え?」
まさかそう来るとは思わなかっただろう伊藤先生が、呆けたように声を出す。
「昨日作ってはみたんですが、どうにもうまくいかなくて! 作り直そうと思って、捨てちゃったんですよ!」
「は?」
今度は、こたろーちゃん。
その声に一瞬肝が冷えたけど、そんなこと気にしてられない。
伊藤先生を見上げて、満面の笑みを浮かべた。
「正直難しくて、どうしようって思ってたんです」
そう言い放つと、その資料をこたろーちゃんに押し付けた。
呆気にとられたように私を見ていたこたろーちゃんは、勢いに押されたのか何も言わずそれを受け取る。
「やっぱり、私には無理でした。伊藤先生、ありがとうございます!」
「あ、えと……。そう言ってもらえれば、嬉しいわ」
本当に嬉しそうに、笑ってくれるから。
あぁ、そうだ。
ナースサンダルがちらりと、視界の端に映って思い出す。
履きやすくて、足も痛くならないし、重宝するのよ! と、そういえば一学期にそんな事言ってた。
そんなことを話すくらい、伊藤先生は私を嫌ってはいなかった。
ガリ勉スタイルを指摘されることはあっても、それは苦笑を伴うものだった。
今みたいに、冷たい視線を向けられることなんて、なかったんだ。
伊藤先生がそんな態度をとるようになったのは、私のせい。
中途半端に、こたろーちゃんの近くにいるから。
捨てたはずの感情が、まだ欠片くらいは心の片隅に残ってたのかもしれない。
だから、こたろーちゃんを口では拒否しながらも、態度が伴ってなかったんだ。
どこまでも、どこまでも、私は”ひな”のまんまで。
それでもこれだけは、上手くなったんだ。
「もうそろそろ鍵当番が見回りに来るので、私、帰りますね」
にっこりと笑って、自分の感情を隠すこと、それだけは。
今後の更新ですが、隔日に変えていこうと思ってます。
よろしくお願いしますm--m