15 比奈の本音
突如部屋に入り込んできたこたろーちゃんに、あっさりと嘘を見破られた。
作り終えた資料を、さっさと鞄に入れておけばよかったと後悔しても今更遅い。
奪い返そうとした資料を、こたろーちゃんはざっと目を通す。
それは、先生の顔で。
それは、……私の苦手な顔で。
しばらくして、ため息をついた。
「あのな、比奈」
そういって顔を上げたこたろーちゃんは、じ、と私を見る。
「本当にありがたい。この資料は、生徒が出すようなものじゃないから、助かる」
その言葉が、嬉しくないわけない。
一生懸命やった結果を褒められれば、私だって嬉しい。
でも――
ちらりと視線だけでこたろーちゃんを伺えば、無表情のままの顔が見える。
どうして、ここまで怒るんだろう。
確かに私、こんな時間まで起きて資料作りやってたけど。
でも、ここまで怒られる意味が分からない。
「こたろーちゃん?」
黙ったままむすっとしているこたろーちゃんの名前を呼べば、少し細めた目が私を見下ろす。
ただでさえいつも見下ろされているのに、押しつぶされそうな程の威圧感は、なんなんだろう?
すぐに目を伏せてこたろーちゃんの出方を、伺う。
どうしたらいいのかわからなかったけど、それでも今のこの雰囲気は怖いと思うから。
「比奈。俺、資料は月曜まででいいって言ったよな?」
「……うん」
「睡眠時間削ってまで、やらせたいわけじゃない。あまり、無理しないでくれ」
「無理じゃない……けど」
そう言い返してから、しまった、と口を塞ぐ。
はいはい、って話聞いてればよかった!
余計、オーラが黒くなった!
「うん、ごめん。伊藤先生だろ、比奈が気にしてるの」
ふわりと、雰囲気が柔らかくなって驚いて顔を上げた。
いきなり一八〇度雰囲気が変わったよ!
何、何マジック??
顔を上げた先のこたろーちゃんは不機嫌そうな表情は変わらないけれど、その感情の矛先が違っていた。
どうやら、伊藤先生に対して怒っていたらしい事に気が付く。
「あ、いや。えっと、別に気にしてるわけじゃ……」
ただ、伊藤先生の纏めた資料がとても見易くて、ちょっと悔しかったからっていうのもある。
早く作りたかったって、それもあるけど。
「あの人、なんでこんなに比奈に競争心を持つかね。無駄だってのに」
こたろーちゃんは手にしていた資料を机の上に置くと、困った様に首元を片手で抑えた。
なんで、なんて。
そんなの、分かってる癖に。
心の中に、もやっとした何かが浮かんで唇を噛み締める。
こたろーちゃんは、もてるのだ。
それは、もう、昔から。
だからアプローチ掛けられても、あまり動じない。
うまい具合に流している、ようだ。
そのとばっちりが、私に来てるなんて、知らない癖に。
「夜中に悪かったな、つい、カッとなった。早く寝て……あと、ありがと」
こたろーちゃんは、溜息をつくと私のベッドの上に足を乗せた。
そこからしか、こたろーちゃんちのベランダに戻れないから。
私は少し壁際に身を寄せて、こたろーちゃんが窓枠に手をつくのをじっと目で追う。
「まぁ、面倒かもしれないけど、伊藤先生は適当に流してくれ。ただ、目に余るようなら俺に言って。泣かせるから」
「……なんで?」
泣かせる?
こたろーちゃんから、あんまり聞かない言葉が出てくる。
「どうして、泣かせるの」
そんな事、しなくていい。
幼馴染っていうのを、隠している私にも非があるんだから。
知っていれば、もしかしたら私への嫉妬心なんてくだらないもの、持たなくていいんだから。
窓枠に足をかけたまま、怪訝そうにこたろーちゃんがこっちを見た。
「どうしてって……。俺の比奈に迷惑かけるような女、泣かせて何が悪い」
首を傾げながらも、窓から身を乗り出してベランダに着地した。
その背中に、ぽつりと呟く。
「……幼馴染だからって、そこまで面倒見てくれなくていいよ」
そして窓を閉めようとして、呼び止められた。
「ちょっと待て。今の言葉、何?」
そう言いながら伸ばされた手を見て、思わず上体を引いた。
たぶん反射みたいな行動だったと、思う。
けれど、それがこたろーちゃんの不機嫌スイッチを入れてしまった。
低い声そのまま、名前を呼ばれて肩が震えた。
「確かに幼馴染だからっていうのも少しはあるけどさ。一応これでも、お前にずっと好きだって言ってるんだけど」
むっとしたように眉を顰めると、ベランダの柵越しに身を乗り出してくる。
「比奈、ここでちゃんと言おうか? 俺の大切な比奈を、守りたいからだよ」
さらりと、言いのける言葉。
「俺は、比奈が好きだ」
まったく、心に響かない言葉。
「お前が俺を幼馴染以上に見てくれてるとは思わねぇけど、俺の方の気持ちを疑うの、そろそろやめてくんねーかな」
間延びした口調はずっとなりを顰めていて。
正直、ずっとその低い声で話されるのは、妙な緊張感が漂う。
「聞いてる? 比奈」
そういって再び伸びてきた指先を、目で追う。
部屋の明かりに照らされて、微かに白く浮かび上がる。
昔は、この指が好きだった。
その掌が、好きだった。
こたろーちゃんがくれる温かさが、大好きだった。
確かに、こたろーちゃんに向けて恋愛感情を持っていたとは思う。
けれど、それは。
とっくの昔に、捨てた感情。
だって――
「こたろーちゃんは、嘘吐きだから」
その時の目を見開いたこたろーちゃんの表情は、ずっとずっと、私を苛むものとなる。
けれど今の私は、そんな事よりも。
記憶の中にいつまでもあり続ける、黒い感情から、目を逸らせなくなっていた。