11桁の記憶
「とある地方の とある会社の 恋話」短編 1
意を決して、すっかり暗記してしまった番号11桁を右手の人差し指でゆっくりと間違いの無いよう押していき……10桁目で手が止まる。
――あ、この時間まだ家に着いたばかりで、電話に出られないかも?
駅に併設されたコーヒーチェーン店の窓際に陣取り、私はすっかりぬるくなったコーヒーを一口すする。
そして、正確な秒数よりよっぽど遅い180秒を数え、もう一度11桁に挑戦した。
――でも、靴脱いだりコート脱いだり……そんなタイミングじゃ悪いよね?
やはり10桁で止まる指。
幾許か逡巡した後、ぱたりと携帯を閉じた。
携帯電話のアドレス帳にすらまだ登録していない番号。
会社の、同僚の、好きになった、彼。
裏ルートで入手した……といっても、合コン幹事の人に連絡係を頼まれたついでに、カモフラージュとして何人か一度に教えてもらった番号のうちの一つ。
それを毎日毎日、何回も眺めるうちにやがて諳んじられるまでになった。
いつ使うのよ、この番号!
ヘタレだと思いつつ、勇気が出せない。
会社での彼は4つ年上の頼れるタイプ。上司ですら最終確認に彼を巻き込むほど優秀で、彼の同期の中では一番で役職に手が届くだろう。
私は入社当初の右も左も分からない中、初めて受け取った取引先の電話で相手を怒らせてしまい、その担当者であった彼に迷惑をかけてしまった。
直属上司にたっぷりとお説教された午後7時。
彼が上司にとりなしてくれて、やっと解放されて……
――じゃ、次に活かせよ?
と、彼に肩を軽く叩かれた。小さな微笑と共に。
あまりに柔らかい笑みに、萎れた私の心はぎゅうっと鷲掴みにされたんだ。
気付けば彼の姿を目で追う日々。
部署は違うけれど、ワンフロアのこの会社では『島』が違うだけ。
書類仕事をする時にペンでこめかみを押さえる癖や、電話を取るとき聞き耳が右らしく、左手で受話器を押さえながら右手でメモを取る姿。
色々な表情を私は見ることが出来た。
それだけで幸せだったはずなのに、どうして「もっと」と欲が出てしまうのだろう。
目の前の携帯電話。
記憶に刷り込まれた番号。
再び携帯電話を開こうと手を伸ばし……やめて、コーヒーのカップを手に取った。でも取っ手に指をかけただけで持ち上げない。
ゆらりと揺れる水面を見ながら、入社から半年ほど経ったあの時を思い出す。
――そういえば、お前先月彼女と別れたよな?
私の後ろは給湯室だ。
各自飲み物は自分で淹れるというルールのもと、彼とその同期はそれぞれ専用のマグカップに共有のコーヒーを淹れに来た。
漏れ聞こえる声に私はひっそりと息を殺し、耳をそばだてる。
――ん? なんで知ってんだよ。
――だって、お前が土曜の夜空いてるだなんてありえないし。それも丁度先月から。それとその携帯のストラップ。彼女とお揃いなのを無理矢理付けられたって言ってたのに、外してるだろ?
――目ざといな。
――ははっ。ひょっとして振られたのか?
――いや……。別れてもらった。
――へー! 何お前の心変わり? 他に好きな相手ができたとか?
――それ……
そこから先は二人が移動してしまった為聞こえなかった。だけど……拾えた情報としては、彼は今フリーだという事。
でも、好きな相手がいるかどうかの所で切れてしまったので、確証は無い。
あの「次に活かせ」と肩を叩かれて以来、気になる彼の存在。
私が入り込む隙間、あるだろうか。
……あれから二年は経つ。
私はカップの取っ手に指を掛けたまま、親指は縁をなぞる。水面を中心へ向かうように円いさざなみが起こる。
顔を合わせば、挨拶は出来る。
立ち話は出来る。
それだけだ。
異なる部署の、単なる同僚に過ぎない。
変化が無いのは、お互いに独身なだけで。
手にしたこの番号。
電話をかけたら、何か変化が起こるだろうか。
彼の最寄の駅は、偶然にも私と同じだった。
ただし彼は駅南方面、私は駅南に一旦出て高架を渡った駅北にアパートがある。
駅南のみ栄えたこの場所。私はコーヒーショップで一人、携帯を見つめた。
彼は今日職場に復帰の挨拶に来た。一人暮らしをしていて、風邪をこじらせて肺炎になり入院していたのだ。
風邪で休むと一報が入ったときにはすぐにでも駆けつけたい気持ちだったけど、ただの同僚、しかも会えば話をする程度の私が行った所で、優しく追い返されるのがオチだ。
入院と聞いて、激しく後悔した。やっぱり行けば何か役に立てたかも、と。
挨拶に来たのは終業時間が来てから。
業務に支障が無い時間を選ぶのは彼らしいな、と久し振りに姿が見れて安心した。
いくらか痩せたかな?
お世話……する彼女、いたのかな。
そんな事まで考えてしまう自分。
今日は定時に上がれ、ロッカーで荷物を取ってビルのエントランスに向かって歩いていると、前方に彼が見えた。同じ駅だから、帰る方面も同じ。
でも、声がかけられない。
その背中に、喉まで出かかるセリフ。
――お久し振りですね
――体調は如何ですか?
――明日から復帰ですか?
――……彼女、いるんですか?
最後のは願望だ。一番聞きたいけれど、一番聞くことの出来ないセリフ。
携帯を再び手に取る。
左手で取って、右手でカチリと音を立てながら開いた。
0・9・0……
――もう、家に帰っただろうか。
カコ・カコ・カコ・カコ……
――もう、ご飯食べ始めただろうか。
カコ・カコ・カコ……
――私の電話、出てくれるだろうか。
……カコッ。
最後の一押しは、電源キー。
やっぱり、かけられない。何話したら言いか分からないし。
番号最後の1桁は『3』。その数字に指を置くけれど、押せない。3回分の呼吸の後、指はその上の電源キーに滑り込んだ。
もういいや。自分の勇気のなさを情けなく思いながら、すっかり冷めたコーヒーを飲もうと把手に手を掛けたら自分の携帯から着信音が聞こえた。
お店の中だからマナーモードにしたつもりだったのに! と、慌てて通話ボタンを押す。
「は、はい!」
小声で応答しながら、そういえば着信の相手を見ていない事に気がついた。
『あ、俺だけど……』
えっ。
鼓動がどくりと一回大きく高鳴った。
この声は。
『俺。わかる?』
「は、はい!」
『あのさ……』
最近慣れてきた取引先との電話よりも激しく緊張しながら、次の言葉を待った。
「うしろ」
え? 声近くない?
顔だけ振り向くと、そこには彼が私を微笑みを持って見下ろし、ぽん、と肩を叩かれた。
「え、ええ!? どうしてっ!」
「どうしてって何? 俺ここでコーヒー飲んでたの。そしたら君が入ってきて……。何か思い悩んでる様子だったし、声をかけずにいたって所だ」
空になったカップを手にして微笑む彼。
「え、やだっ! 一部始終見られてま……したね」
羞恥に顔が火照る。今まさに電話をかけようとしていた相手が、その様子を見ていたんだ。
彼は私の隣に空のカップを置き、椅子に座る。
「なあ、何か悩みでもあるのか? 俺で良かったら聞くよ?」
あなたが私の悩み事そのものです、なんて言えるわけなく。
目を合わす事すら恥ずかしくて視線をずらし、冷めたコーヒーの入ったカップをもてあそぶ。
「――というか」
不意に、視界の照明が翳る。
口を私の耳に寄せ、囁くその声は。
「どうして俺の番号、最後まで押さないの?」
驚き顔を向ければ悪戯の様に目を細めて私を見つめる彼がいた。
「どう……して?」
やっとのことで搾り出す私の声は、まるで自分ではない声色だ。
「それは」
「それは?」
「俺が声を掛けようと傍に来たら、君が押す番号がその画面に出てたから」
「えっ! ……あ、きゃっ!」
真剣な眼差しに動揺した私は、思わずカップを倒して私の服にびしゃりとかかった。
「や、やだっ!」
コーヒー色に染まったブラウス。
春めいてきた今日この頃。室内は暖かく、むしろ暑いくらいだったので、薄手のブラウスの下はキャミソールすら着けておらず……透けてしまって酷い有様だ。
スプリングコートを椅子の背に掛けていたから、急いでそれを纏おうと手を伸ばす。
しかしその前に、ばさりと黒い大きな上着がかけられた。
「これ着てろ」
「えっ! でも」
「いいから!」
「いえ、私の家近いですから、すぐですから」
「いや、俺の家の方が近い」
「え?」
訳が分からずキョトンと聞き返したら、彼が拳で口元を隠しながら言った。
「俺以外にその姿見られたくない」
ますます意味が分からない。
小首を傾げ、掛かったコーヒーが冷えて寒くなった私は小さくぶるっと震えた。
「ああ! もういい、色々すっ飛ばす! 君、彼氏いる?」
「えっ? いません」
「この後の予定は?」
「ありません」
「本題。俺は君の事好きだけど、君は?」
矢継ぎ早に放たれる質問に、思考が追いつかなくて条件反射で答えたけれど、最後の質問は流石に口が開かなかった。
息ができない。
意味が飲み込めない。
彼は、あの微笑をもって私に更に畳み掛けた。
「俺の自惚れじゃなかったら、君……」
――俺の事、好きだろ?
私の耳に直接囁かれたその言葉は、耳から脳に達するまでかなりの時間を要した。
「どう……どうし、て?」
もう何度目かになる『どうして』。
彼は頬杖をつきながら、窓の外へと視線をやる。
「それだけ、俺も君の事を見ていたんだ。ごめん、色々調べた。この駅の傍に引っ越したのも、彼氏がいない事知っているのも、アイツに連絡係頼むよう仕向けたのも、俺だ」
そういえば、彼が引っ越したのは1年前だ。
「いきなり君に好きだと言った所で、その気がなくて俺に断ったら……そのあと辞めちゃう気がして」
うん、多分そうなると思う。会社で重要なポジションの彼が辞めるメリットは一つも無い。私が消えた方が早いと思うから。
「君、気が利く人だからさ……。給湯室の掃除、いつもやってくれるだろ? 俺はそれを知ってる。誰に言われたわけでもないのに、朝一番でやっているの知ってる。きっと、俺の事気遣って黙って辞めるだろうから、それだけは出来なかった」
彼は、どこまで私の事を知っているんだろう。分かってくれているんだろう。
「入社してすぐ……君、上司に説教されただろ? その時の君の顔が忘れられなくて。泣かないように堪えたその瞳が潤んでて……キレイだって思ったんだ。それで気付いたら落ちてた」
再び私に視線を戻し、体ごと向き直る。そしてガバッと頭を下げ、手を差し出した。
「望月美穂さん、俺とお付き合いしてください!」
夢みたい。
いいの?
舞い上がる気持ちのまま、私は差し出された手を両手で挟んだ。
「清水……博之さん。こちらこそお願いします」
心臓が破裂しそうになりながらも、搾り出した声に、彼は私の手をもう一方の手で重ねた。
「やった! 俺……嬉しい」
よく見れば、彼の耳は赤く染まっていた。彼も私と同じ様に緊張していたのだと思うと少し可笑しくなった。
「さ、行こ?」
ガタリと立ち上がり、彼は空のカップを手にする。
「えっ? どこへ?」
「俺んち。君……美穂の服、そのままじゃいけないだろ?」
「だ、だから私の家に……」
「駄目。俺んち来て」
彼が手早く私の分のカップも片付け、そして戻ってそのまま私の手を掴み店を出る。
「え、ちょ、ちょっと……!」
「俺、もう2年待った。これ以上待てない」
彼のコンパスは長く足早な為に、私は小走りになりながらもやっと付いていく。だけど反対の手でバッグとコートの前を押さえている為に、堪らず声を上げた。
「清水さん、ちょっと、もうちょっとゆっくりっ!」
「そうだ、それ。名前で呼んでね? 後……」
「博之、さん?」
ピタリと立ち止まり、バッグに放り込んだ私の携帯電話を取り出す。そして、私に差し出した。
「番号」
「?」
「俺の名前で登録して?」
「……はいっ」
やっとアドレス帳に登録できた番号は、特別な番号になった。