亡き夫の親友に求婚されたので、まずは夫の悪口を聞かせてもらいました
「僕と結婚してほしい」
亡き夫の肖像画の前でそう言ってから、エリアスは逃げ道を探すように絵を見たりはしなかった。まっすぐ私を見て、返事を待っていた。
私は膝の上で左手を包んだ。三年前から一度も外していない結婚指輪が、右の手のひらに当たった。
「その前に、レオンの悪口を聞かせてくださる?」
「……彼の?」
「ええ。できれば、あなたが本当に腹を立てた話を」
紅茶を注ぎ終えた侍女のマルタが、戸口で一度だけ足を止めた。私が頷くと、何も言わずに扉を閉めてくれた。
エリアス・ローウェンは夫の幼馴染だった。二十九歳になる今も、考え込むと眉間に深い皺ができる。そのせいで初対面の人には怖がられるけれど、答えたくないことを曖昧に笑って済ませない人だと、私は知っている。
「君は、彼を嫌いになりたいのか」
「いいえ。大好きだったわ。今もよ。だから困っているの」
居間の壁には、青い上着を着たレオンがいる。二十六歳で病に倒れるより二年も前に描かれた絵なのに、弔問に来た人たちは、あれを見ると決まって言った。
立派な方だった。優しく、寛大で、誰からも慕われていた。
どれも嘘ではない。でも、一つ言われるたびに、私の知っている夫が少しずつ遠くなっていった。
「みんな、あの人がどんなに素晴らしかったか、私に教えてくださるでしょう。私も頷くしかなくて。違うわって言うと、寂しさのせいで混乱していると思われるの」
「何を、違うと言った?」
「寛大だったかしら、って。だってレオン、チェスに負けたら……」
そこでエリアスが、ひどく嫌そうな顔をした。
「盤が傾いていると言いだす」
「そう! それよ!」
私は思わず膝を打った。
子爵家の次男に生まれ、穏やかな人柄で愛された夫は、勝負事になると別人だった。とりわけ私に負けたときには、椅子の高さや窓から入る光にまで異議を申し立てた。
「一度、僕の家で負けたとき、テーブルの脚を四本とも測ったことがある」
「うちでは下に紙を挟んだわ。それでも負けたのよ」
「知っている。その翌日、僕に『妻が強すぎるのは夫婦円満によくない』と相談しに来た」
「あの人、そんなことを言ったの?」
夫の声が、あまりにはっきりと耳に甦った。
負けたあとで口を尖らせ、夕食の席まで引きずっていたくせに、私の好きな菓子が運ばれると、すぐに機嫌を直した人。自分は我慢したのだと大げさに主張して、私に笑われていた人。
笑いながら息を吸ったら、涙が出た。
「……私、そういうところも好きだったの」
エリアスが差し出してくれたハンカチを受け取った。泣いたら話はおしまいになってしまうと思い、急いで目元を押さえた。
「もっと聞かせて。あなたが困らされた話。慰めるための、優しい話じゃなくて」
彼は少し黙ったあと、私たちの結婚式でレオンに伴奏を頼まれたときの話をした。
花婿が花嫁に歌を贈るのだと言い張り、前の晩まで練習したくせに、当日は途中から違う歌になったこと。合わせようとしたエリアスのほうが、親戚たちに下手な奏者だと思われたこと。
私は途中で笑い声を抑えられなくなった。あの歌は私にしか聞こえないほど小さな声で始まり、最後だけ見事に大きかったのだ。
「でも君は泣いた。だからあいつは、一生、成功したつもりだった」
「嬉しかったのよ。下手でも。……本当に、嬉しかったの」
とうとうハンカチでは足りなくなった。エリアスがマルタを呼ぼうとしたので、私は首を振った。今は、この話を二人で続けていたかった。
笑って、泣いて、また笑った。
三年間、夫を思い出すたびにお行儀よく悲しんでいた。こんなふうに騒いだら、きっと夫も混ざりたがる。そう思えたのが、悲しくて嬉しかった。
ひとしきり泣いたあと、私は冷めた紅茶を飲んだ。
私は彼の親切を、ずっと夫への友情だと思ってきた。今まで聞けなかったことを、ここで確かめておきたかった。
「あなたは、レオンに私を頼まれたの?」
「いいや」
「本当に? あの人なら言いそうだわ。私が一人になったら困るだろうって」
「言われていない。もし言われていたとしても、結婚を引き受けるような約束はしない」
きっぱりした返事に、私は少し驚いた。
夫の望みなら何でも叶えようとする人だと思っていた。葬儀のときから、屋敷の用事や慣れない手続きを、何度も助けてもらっていたから。
「初めは、僕も彼の話がしたくて来ていた。僕の知らないあいつの話を、君がしてくれたから」
「今は違うの?」
「今は水曜日が待ち遠しい。君が何を読んだか、どこへ行ったか、知りたい。帰る時刻になると、次の水曜日まで来る理由がないのが腹立たしい」
いつも彼が帰ったあと、私は居間の時計を見た。
もっと遅い時刻ならよかったのにと思いながら、あんなに長居をしてくれた人に欲張ってはいけないと、自分をたしなめていた。
それは寂しい未亡人のわがままだと考えていたけれど、エリアスも同じ時計を気にしていたのだろうか。
「いつから?」
「今年の春、君が僕の誕生日を間違えたあたりから」
私は顔を上げた。
「そこは忘れてくださらない?」
「ひと月早く祝いに来て、間違いだとわかったら、来月も食事に付き合ってくれと言った」
「せっかくお店を選んだんだもの」
「ああ。それで僕は、二か月続けて君と食事ができると思った。友人の奥さんにする親切のつもりなら、そんな喜び方はしない」
頬が熱かった。
レオンが亡くなってから、私に優しくしてくれる人はたくさんいた。でも、私と一緒にいることをこんなふうに喜ぶ人がいるとは、思ってもみなかった。
「すぐには、お返事できないわ」
「わかっている」
「でも、水曜日まで来る理由がないのは、私も困る」
彼が身を乗り出したので、私は自分の言葉を飲み込まずに済んだ。
「庭園の秋祭りへ行きたいの。今度の日曜日。一緒に来てくださる?」
エリアスは頷いてから、何かを言おうとして一度口を閉じた。その不器用な喜び方を見て、私まで嬉しくなった。
「喜んで。……君と出かけるための服を、一着買わないと」
* * *
庭園の門の前にいたエリアスは、濃い緑の上着を着ていた。
いつもの灰色よりずっと若く見えると伝えると、彼は褒められたのか確かめるように私を見た。それがおかしくて、私はもう一度、よく似合うと言った。
私は淡い黄色のドレスを選んでいた。鏡の前で何度も着替えたことは、今のところ秘密にしておくつもりだった。
秋の庭園では、楽師たちが噴水のそばで演奏していた。露店の大きな鉄鍋から焼き栗の匂いが漂い、子どもたちが生垣の迷路の入口へ駆けていく。
私は自然とそちらを見ていたらしい。エリアスが入ってみようかと言ったとき、すぐに頷いてしまった。
「ここ、ずっと入りたかったの。レオンは道に迷うのが嫌いだったでしょう」
「嫌いなのに、道を確かめるのも嫌いだった」
「自分が間違えていると認めたくなかったのよね」
また夫の話をしてしまった、と気づいた。
求婚してくれた人と出かけてきたのに、私はいつまでレオンの妻のつもりなのだろう。
足を止めかけた私に、エリアスが肘を差し出した。
「僕は迷ったら、迷ったと言うよ。そこは期待してくれていい」
「頼もしいのかしら、それ」
彼が真剣に頷くので、私は笑ってその腕を取った。
十五分後、私たちは同じ白い女神像の前に戻ってきた。
女神は二度目も変わらず微笑んでいたけれど、私たちはそうはいかなかった。右へ行ったはずが左から出てきて、案内板も出口も見当たらない。
「エリアス。いつからわからなくなっていたの?」
「最初の分かれ道から」
「すぐに言ってくださればよかったのに」
「君が楽しそうだったから、先へ行ってみたかった」
呆れて見上げたら、本当に悪びれていなかった。
私を連れ出すために、何もかもうまく運ぼうとはしていない。道に迷っている自分も楽しんでいるのだとわかり、文句を言うつもりだったのに笑ってしまった。
「では、今度は私が選んでいい?」
「もちろん。どっちへ行く?」
「左。さっき右を選んで間違えたから」
「それは有力な根拠だ」
子どもじみた相談を大真面目にして、私たちは左へ曲がった。
出口へ辿り着くころには音楽が別の曲に変わり、私は歩き疲れていた。でも、帰りたいとは少しも思わなかった。
エリアスが買ってくれた焼き栗を二人で食べながら、また来たときに迷わず出られるか賭けようと持ちかけた。
「負けたほうが夕食をご馳走するの」
「君は、どうやって勝敗を決めるつもりだ?」
「二人で別々に入れば……」
そこまで言って、私は黙った。
彼と別々に歩いて、先に出口へ着く。待っている間、今日のような話はできない。それを想像したら、せっかく考えた遊びが急につまらなくなった。
「やめましょう。夕食は普通に一緒に食べたいわ」
エリアスは手の中の栗を見たまま、しばらく動かなかった。
私が何かおかしなことを言ったのかと思っていると、彼は自分の頬を指して、困ったように笑った。
「今、ひどい顔をしている?」
「いいえ。嬉しそうだわ」
「そうか。なら、いい」
私は残りの栗を口へ運びながら、同じような顔をしていないか心配になった。
夕食の席で、初めて彼の好きな食べ物をきちんと聞いた。
レオンと三人で食事をしていたころは、夫が好きな店へ行き、夫の好きなものを頼んでいた。エリアスもそれでいいと思っていると、疑いもしなかった。
エリアスが魚料理を好きだと知ったとき、私は自分のことが少し恥ずかしくなった。
「いつも、お肉のお店に誘ってしまったわ」
「肉も食べる。あいつが魚を嫌いだっただけだ」
「どうして言わなかったの?」
「君だって、胡桃の菓子が一番好きだとは、春まで教えてくれなかった」
私は言い返せなかった。レオンは木苺が好きだったから、私たちの家では食後に赤い菓子が出ることが多かったのだ。
私も木苺が好きだったし、夫は胡桃の菓子を頼んだ私を咎めたりはしなかった。ただ、好きな人に合わせるのが楽しくて、自分の好みを話しそびれたこともあった。
「では次は、魚がおいしいお店にしましょう」
「そのあと、胡桃の菓子を出す店へ?」
「そこまでお付き合いくださるなら」
エリアスは、今度は隠そうとせずに笑った。
私が知りたくなったのは、こういう顔をする人のことだった。レオンの思い出を、いつまで一緒に話せるかだけではなかった。
* * *
その後の三週間で、私たちは二度食事をして、一度、小さな音楽会へ出かけた。
彼は演奏しているときと同じ真剣な顔で曲を聞くのに、休憩になると、奏者の窮屈そうな襟を心配した。私もあの襟では高い音を出せないと思うと言ったら、君の歌はまだ聞いたことがないなと、急に話が私へ向いた。
大勢の前では恥ずかしいので、帰りの馬車で少しだけ歌った。エリアスが隣で小さく拍子を取ってくれて、私は初めの一曲だけではやめられなくなった。
屋敷の門に着いても、その晩はすぐに降りたくなかった。
けれど御者を待たせるわけにはいかない。私は馬車を降り、玄関まで送ってくれたエリアスと向かい合った。
「今日はありがとう。楽しかったわ」
「僕も。次は君の歌を、もっと聞きたい」
次がある。その約束だけで、胸がいっぱいになった。
おやすみと言えば彼は帰ってしまう。私が黙っていると、エリアスは困ったように、けれど目を逸らさずに尋ねた。
「口づけても、いいだろうか」
首を横に振る理由なら、いくつも思いついた。
求婚に返事もしていない。まだ早い。こんな玄関先で。
でも、したくないとは思わなかった。
「ええ。私も、そうしてほしかったの」
彼の手が頬に触れた。目を閉じたとき、ほんの少し指が震えているのがわかった。
短い口づけのあと、エリアスは私の顔を確かめた。私が笑うと、彼もようやく息をついて笑った。その顔が好きだと思い、私は彼の上着に手を添えた。
もう一度してほしいとは言えなかったけれど、彼はわかってくれた。
部屋へ戻り、手袋を外したところで、指輪が目に入った。
その日、音楽会へ出かけてから家に着くまで、私は一度もレオンを思い出していなかった。
笑って、歌って、別の男の人にもっと触れてほしいと思った。
幸せだった。
その事実をどうにか言い換えようとしても、できなかった。
寝台に腰を下ろしたまま、私は左手を握った。レオンの顔なら今も思い浮かぶ。声も、笑い方も、きちんと覚えている。
それでも今日、彼がいないことを忘れていた。
こんな日が増えたら、いつか私の中から本当にいなくなってしまうのではないだろうか。楽しかった一日を取り消したくなり、同じくらい強く、取り消したくないと思った。
翌日届いたエリアスの手紙を、私は何度も読んだ。
来週、姉の家で小さな舞踏会がある。君と行きたい。
嬉しくて、返事を書きかけた。でも、彼の家族や知人の前で手を取る自分を想像した途端、ペンが止まった。
まだレオンを大切に思っているのね。あなたのような奥様を持てて、あの子は幸せだったわ。
先月会った夫の叔母の声が聞こえた。善意しかない、優しい声だった。
私は、そうですねと答えた自分を覚えている。あの人のことを思い続ける以外に、夫へしてあげられることは、もう何もない気がしていた。
結局、舞踏会には行けないと書いた。
体調のせいにはしなかった。嘘をつけば、エリアスは心配してくれる。その優しさまで欲しがる自分が嫌だった。
話したいことがあるので、土曜日に来てほしいとだけ付け加えた。
* * *
土曜日の朝、私は結婚指輪を外した。
こんなものをつけているからいけないのだと思った。指には白い跡が残り、思っていたよりも裸に見えた。
化粧台の小皿へ指輪を置くと、今度は居間の肖像画が気になった。
脚立を持ってこようと廊下へ出たところで、足が止まった。
絵を片づけ、指輪をしまい、二度とレオンの話をしない。そうすれば、私はエリアスのお嫁さんになれるのだろうか。
彼が笑っていても、指の跡を隠して、何も思い出していないふりをするのだろうか。
私は部屋へ引き返して、指輪をはめ直した。
情けなくて涙が出た。結婚したい気持ちまで消えてしまえばいいのに、そこだけは少しも小さくならなかった。
午後、居間へ通されたエリアスは、いつもの椅子に座った。
マルタが紅茶を置いて下がると、私は練習した言葉を口にした。
「お受けできないと思うの。あなたとの結婚」
「理由を聞いてもいい?」
「レオンを忘れられない。あなたにひどいことをしていると、わかっているけれど」
エリアスは紅茶に手を伸ばさなかった。
「僕は、彼を忘れてくれと言っただろうか」
「言っていないわ。でも、あなたと口づけたあとで夫を思い出すなんて……そんな人、嫌でしょう」
彼がすぐに否定してくれることを、私はどこかで待っていた。
君なら何をしてもいい。全部わかっている。そう言ってもらえば、また甘えていられる。
けれど、エリアスは長いこと考えてから答えた。
「嫌だと思うことは、ある」
私は息を止めた。
聞きたかったはずの本音なのに、胸がひどく痛んだ。
「僕といる間、ずっと彼に謝っているなら、つらい。僕が君に会いたいと思うことまで、悪いことになるような気がする」
「……ごめんなさい」
「責めたいんじゃない。君が僕の気持ちを知りたいと言うから、話している」
彼はそこで言葉を切り、やっと紅茶を一口飲んだ。
きちんとした上着の下で、肩が強張っている。私に嫌われない答えを選ぶのをやめてくれたのだとわかった。
「君が笑ったら嬉しい。僕といて、まだ帰りたくないと思ってくれたなら、もっと嬉しい。彼のことを思い出しても、その一日まで悪かったと思わないでほしい」
「悪かったなんて……」
言いかけて、口を閉じた。
あの夜、私は本当に取り消そうとしていた。彼の震える指も、二度目の口づけも、翌朝に届いた手紙を喜んだことまで。
「僕だって、あいつの話をしたくなる。毎年、初雪が降るころになると、あいつとつまらないことで喧嘩した日を思い出す」
「初雪?」
「二人で遠乗りをする約束だった。あいつは寝坊して、昼になってから、寒いからやめようと言った。僕は朝から待っていたんだ」
知らないレオンだった。
私は膝の上で手をほどいた。
「腹が立った。でも次の年は、遠乗りの約束をする相手がいなかった」
エリアスの声が掠れた。彼は一度目を伏せ、思うように笑えないまま私を見た。
「今でも、あの年は無理に連れ出せばよかったと思う。そう思いながら、寝坊したのはあいつだろうとも思う」
私は唇を噛んだ。
夫の死を受け入れて、私だけが悲しみから出てくるのを待っている人ではなかった。エリアスも、腹立たしいくらい普通の日を、失くしていた。
「私にもあるわ。……怒っていること」
「あいつに?」
「ええ」
私は肖像画を見た。
絵の中のレオンは、若く、元気で、私が好きだった笑い方をしていた。
「五十になったら、私の白髪を数えて笑うって言ったの。だから、あなたのお腹が先に大きくなるわって、言い返したのよ」
エリアスは黙って聞いていた。
初めの一言を口にできたら、ずっと喉の奥に押し込めていたものが、もう戻らなくなった。
「置いていったくせに。私だけ年を取って、あの人はずっと若いままで。私が笑うと、薄情になった気がして……そんなの、ずるいわ」
病になりたくてなったのではない。私を残していきたかったはずもない。そんなことはわかっていた。
それでも寂しかった。誰にも責められない夫に、私まで何も言えないのが、たまらなく寂しかった。
「言ってはいけないと思っていたの」
「僕も、君には言えなかった」
エリアスが席を立ち、私のそばに膝をついた。
抱きしめていいかとは聞かず、両手を差し出して待った。私は自分からその手を取った。
「今度は、君に会えなくなるのが怖い」
その言葉に、私は顔を上げた。
夫の親友の顔ではなかった。私の答えを怖がっている、好きな人の顔だった。
「悲しい日に、彼を思い出して泣くなとは言わない。でも楽しかった日は、僕と楽しかったと言ってほしい。それを欲しがるのも、いけないだろうか」
私は首を振った。何度も振った。
欲しがってくれたことが嬉しかった。優しい思い出のそばへ置いておける人ではなく、私に好きだと言われたくて、ここに来ている人なのだ。
「少し、待ってくださる?」
「待つよ」
「今度は、どうしたらお断りできるかを考えるためじゃないの」
エリアスの手に、やっと力が戻った。
私はその手をしばらく離さなかった。彼が立ち上がったあとも、今日は来てくれてよかったと、声に出して伝えた。
* * *
一週間後、私はエリアスを夕食へ招いた。
魚料理は料理人に頼んだ。自分で作れれば格好がついたかもしれないけれど、大事な夕食で失敗した魚を食べさせる勇気はなかった。
肖像画は、元の場所に掛かっている。
指輪は朝、自分で外し、化粧台の小皿から、柔らかい布を敷いた宝石箱へ移した。はめたくなる日が来るかもしれないと思ったけれど、だから今日外してはいけないとは、もう思わなかった。
レオンのことを思い出さなくなったわけではない。それでも今夜は、エリアスが来るのを楽しみにしていた。
食事を終えて居間へ移り、お茶は私が淹れた。彼の好みの濃さを聞き直し、胡桃の菓子を二つの皿に取り分けると、隣に座った。
「この前の続き、聞いてくださる?」
彼がカップを置くのを待って、私は逃げ出したくなる前に話し始めた。
「あなたと庭園の迷路に入ったとき、もう一度来たいと思ったわ。あの迷路が好きだっただけじゃないの。道がわからなくても、私と一緒なら楽しいって顔をしているあなたが、好きだった」
エリアスが息を吸った。
私はその反応を見て、言葉を選び直したりはしなかった。
「音楽会の帰りに、もっと歌いたいと思った。私の歌で、あなたが嬉しそうに拍子を取ってくれたから。口づけてくれたときも、もっとしてほしいと思ったの。レオンに似ていたからではないわ。あなたに、そうしてほしかった」
ひどく恥ずかしかった。二十七にもなって、こんなに顔が熱くなるとは思わなかった。
でも、目の前の人も同じように耳を赤くしていたから、私は笑うことができた。
「エリアス。あなたが好きよ。あなたと結婚したい」
彼はすぐには動かなかった。
聞き違いを恐れているような顔をしたあと、私の左手を見た。私はその手を隠さず、彼の手の上へ重ねた。
「これからも、悲しくなると思うの。今日、全部終わったとは言えない」
「僕もだ」
「でも、次の初雪の日は私と出かけてくださる? 遠乗りは少し怖いから、馬車がいいわ。帰りに、温かいものを食べたい」
「君が寝坊しても、迎えに来る」
「私も、あなたが寝坊したら起こしに行くわ」
エリアスが笑った。笑いながら私を抱き寄せ、途中で一度、強く抱きすぎていないか確かめるように腕を緩めた。
私はその背中に腕を回した。
会いたかった。この一週間、ずっと。お断りする理由を用意しなくていいと思ったら、言いたいことはいくらでもあった。
「もう少し、抱いていて」
彼は返事の代わりに私を抱き直した。耳のそばで、何度も名前を呼ばれた。
求婚された日の冷めた紅茶とは違って、今夜のお茶は、私たちが放っておいたせいで冷めていった。
しばらくして、エリアスがそっと離れた。
「一つだけ、訂正してもいいだろうか」
「何を?」
「迷路でずっと余裕があったわけではない。出口を見つけたとき、本気でほっとした」
私は彼の胸に額を押しつけて笑った。
格好をつけていたのだ。この人なりに。あのときの真面目な横顔を思い出すと、ますます好きになった。
「それなら、次は私が先に歩くわ」
「頼む。格好のいいところは、ほかで見せる」
私は顔を上げ、今度は自分から口づけた。
* * *
結婚式は、翌年の春に挙げた。
最初の結婚で歌ってくれた人は、居間の肖像画の中にいる。二度目の結婚で私の手を取った人は、誓いの言葉を一か所間違え、私より先に赤くなった。
式のあと、私たちは親しい人たちと食事をした。
レオンの叔母も来てくれた。招待状を渡すときは怖かったけれど、私はエリアスが好きだと自分で伝えた。叔母はしばらく黙ってから、そう、と言って私を抱きしめた。
食事の間、私はエリアスの隣に座って、皆と一緒に笑った。
食後に音楽が始まると、エリアスが手を差し出した。
彼の指には私と同じ、新しい指輪がある。
踊りながら、その手を握り直したとき、ふとレオンが私の足を踏んだ夜を思い出した。寂しさは確かに胸へ来たけれど、今、握っている手まで離したくはならなかった。
「疲れた?」
エリアスが顔を覗き込んだ。
私は首を振り、彼の肩へもう少し身を寄せた。
「いいえ。もう一曲、あなたと踊りたいわ」
彼は嬉しそうに笑って、楽師たちのほうを見た。
私はその横顔を見つめながら、次の曲が始まるのを待った。




