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名もなき姫の手記  作者: sheryl00
灰に埋もれた名
9/12

別院の残り火

那別院は、もう長く捨て置かれていた。

門は半ば崩れ、塀はまだらに剥げ、草が勝手に伸び放題だ。屋根のあたりには焦げた梁が残り、あの夜の火がいまもそこに居座っているように見えた。


私は院へ足を踏み入れた。

地面には黒い焼け跡がまだ残っている。年を越しても消えない火の舐めた痕。折れた梁が横たわり、石段は崩れ、庭だった場所はただの荒れ地になっていた。


――柳妃さまの宮苑の焼け跡と、よく似ている。

胸の奥が、静かに痛んだ。


院をひと通り歩いたあと、私は近くの家の戸を叩いた。

出てきたのは年配の女だった。最初は警戒していたが、私が身分を伏せつつ丁寧に名乗ると、ようやく口を開いた。


「ここには昔、ある高官の“お手付き”が住んでいましたよ。子どもが二人。男の子と女の子。衣食に困ることもなく、先生まで付けられて、読み書きも習っていました」


「その方は……どんなお姿でしたか」


女は少し考えてから、ゆっくり語り始めた。


「背は高すぎないけど、すらりとして、肩がまっすぐ。

目つきは冷たくて、奥が深い。

鼻筋が通っていて、口元は薄い。

多くは話さないけれど、いるだけで空気が変わる人でした。黒い馬車で来ることが多かったね」


一つ言われるごとに、胸の底が少しずつ沈んでいく。

その輪郭は――数日前、火の中で命を落とした丞相と重なっていた。


女は続ける。


「あの火事は、静かに始まったわけじゃない。前の晩から院の中は騒がしかった。物を投げる音みたいなものもしたし、見慣れない人の出入りもあった。……でも怖くてね、深くは関わらなかったよ」


声をさらに落として、女は言った。


「火が出たときも、院の外をうろうろしている影が見えた。何かを確かめているみたいに」


「その話は、当時お役所へ?」


私が問うと、女は苦く笑った。


「話したさ。全部ね。――でも最後は“ただの失火”で片づけられた。あっけないもんだよ」


部屋に短い沈黙が落ちる。

私は窓の向こうの荒れた院を見た。あの夜の火の色が、いまも目の裏に残っている気がした。


八歳の柳絮は、瓦礫の外に立ち尽くし、母と兄を失った。

誰にも守られず――人さらいに連れられ、牙行へ、そして花街へ。


運命の糸は、音もなく一本につながっていた。


外へ出ると、日が落ちきらぬうちに宮道の灯がともり始めていた。

風が吹くたび、灯火が揺れる。弱いのに消えない。まるで細い呼吸のようだった。


私はそのまま案牘庫へ向かった。


あそこはいつも冷える。夏でも肌にひやりと触れ、古い紙と墨の匂いが染みついている。高い書架が幾重にも並び、静かな壁のように立っていた。巻宗の山は、この王朝の秘密と争いと血の痕を、一つずつ閉じ込めている。


番をしている内侍官が私の顔を見て一瞬ためらう。

それでも鍵を外し、静かに問うた。


「殿下……どの巻宗を」


私は灯の下で、短く言った。


「丞相の件を」


内侍官は小さく息をのんだが、何も聞き返さず奥へ消えた。


本来なら、こうした大事は何か月もかかる。

朝堂を揺らし、家々を巻き込み、取り調べが続く――はずだった。


なのに今回は。

――たった二日。


重い木匣が机に置かれたとき、灯に舞う埃を見ながら、私は妙に冷静だった。


権力の歯車の中では、ある種の“真実”は時間を必要としない。

必要なのは――時機だけだ。


私はゆっくり匣の蓋を上げた。

黄ばんだ紙の匂いが、ふっと立ちのぼる。


最初の頁には、罪状が整然と並んでいた。


党を結ぶ。官を売る。賄賂を受ける。君を欺く。後宮と通じる――。


どれも立派な言葉で、どれも一族を滅ぼすには十分だった。

けれど私は、その字面に“人の息”を感じなかった。


――これは勝った側の言葉だ。

真相ではない。


私は前半を手早くめくった。

冷たい文面は、柳妃さまにも、あの大火にも、旧王府の温度にも触れていない。


さらに頁を送る。


丞相の生涯が続く。

若き日の出仕、科挙、昇進、入閣、権勢――

墨の線が、滑らかな栄達の道を描いていた。


そして。


私の視線が、ある一行で止まった。

灯がかすかに跳ねた気がした。


――承明二十七年 五月初八。

丞相、礼部尚書の娘を正妻として迎う。


私はそっと指先を置く。

紙の下で、年月が暗くうねっているように思えた。


承明二十七年。


別院が燃えた年。

柳絮が孤児になった年。

母と兄を失い、人さらいに連れ去られ、牙行へ落ちた年。


胸が、ぎゅっと重くなる。


――時間そのものが答えを書いている。


私はさらに読み進めた。

だが巻宗には、別院の火も、外室も、子どもたちも一言もない。


まるで最初から“いなかった”かのように。


それでも私は知っている。

牙行の古い帳面。近所の女のため息。焼け跡の苦い匂い。

それらはすべて、この一行と重なっていた。


私は巻宗を閉じた。

灯の影が長く伸び、顔を横切る。


その瞬間、はっきり分かった。


史は丞相の婚礼を記す。

だが別院の火は記さない。


王朝の栄えは記す。

だが一人の女の壊れ方は記さない。


私はいま、

書かれる側と、忘れられる側の境目に立っている。


窓の外で風が低く鳴った。

潮のような音だった。


私は小さく息を吐き、ひとりで呟く。


「……そういうことか」


謎はまだ揃っていない。

けれど形は見えている。


旧王府、火事、牙行、花街、柳妃、丞相、王妃、帝位。


欠片が、静かに噛み合っていく。


あの火は事故ではなかったのかもしれない。

――遅れてきた清算だったのかもしれない。


私は巻宗を抱えるように閉じた。


だが、答えが見えかけたところで、より大きな疑問が残る。


もし柳妃さまが真相を知っていたのなら。

もし胸に恨みを抱いていたのなら――


なぜ“今”なのか。


入内してから何年も経っている。

機会なら、いくらでもあったはずだ。


それなのに、帝の羽が育ち、丞相の権勢がなお強いこの時に、

火を選び、仇と共に燃えた。


帝がもう丞相を要さなくなった、その時を待っていたのか。

それとも――ずっと“合図”を待っていたのか。


風が入り、巻宗の端がわずかにめくれる。


私は灯の下で静かに悟った。


私はもう、真相の門の前にいる。


足りないのは、最後の一片。

そしてそれはきっと――帝の沈黙の中にある。

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