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名もなき姫の手記  作者: sheryl00
灰に埋もれた名
8/12

柳絮の面影

柳妃の選択も、王府の昔語りも――私はもう輪郭くらいはつかんだつもりでいた。

けれど、見えたはずの線がそろうほど、かえって彼女がわからなくなる。


王府に入ったころから、あの人は淡々としていたという。

絵を描き、詩も作る――そんな教養は、ふつうの家では身につかない。


なのに宮中の噂はこう言う。

「花街の出」――路上でいたぶられていたところを王爺に助けられ、そのまま王府に入った、と。


もし本当にそうなら。

彼女の過去は、もっと曲がり、もっと黙り、もっと重い。


灯の下で長く座りつづけ、私は翌日、花街へ行くと決めた。


女の身で出入りするのは都合が悪い。

だから男装を用意した。


最初は護衛の衣を借りたが、着てみればひどくおかしい。

袖は余り、肩は落ち、帯を締めても体が薄く見える。

まるで子どもが大人の服を盗み着たようだった。


仕方なく、内侍官の服に替える。


布は柔らかく、寸法も合った。

鏡の中の私は髪を束ね、目を伏せている。公主には見えない。

――宮城に入ったばかりの若い内侍官。

身分をにおわせれば、問いただすにも都合がいい。そう考えて、そのまま行くことにした。


翌朝、馬車は隣の通りで止めさせた。

そこからは一人で歩く。


花街は昼の顔になると、どこか疲れて見えた。

赤い提灯はまだ灯っていない。

門の塗りははげ、脂粉のにおいが古い木の気配と混じって風に流れる。


門口に寄りかかって欠伸をする女がいて、私を一瞥し、すぐ視線を戻した。


屋敷の者が語っていた場所をたどり、私は小さな青楼の前で足を止めた。

門は半分だけ開き、格子は色あせている。年季の入った建物だ。


戸を押すと、中は薄暗いのに油灯が一つ点いていた。

鴇が帳台に寄り、算盤をはじいている。

私を見ると一瞬だけ目を見開き、すぐ笑みを作った。


「公公、昼間に珍しい。どなたかのおことづてで?」


私はすぐには用件を言わず、ゆっくり室内を見回した。

壁に古琴、隅に刺繍の屏風。古びてはいるが、妙に品が残っている。


それから静かに言った。


「宮中では近ごろ、人さらいの取り締まりが厳しい。

 ここにいる女は皆、名簿に載っているな?」


鴇の顔色がわずかに揺れたが、すぐに笑みを厚くした。

「もちろんでございます。少しお待ちを。すぐ帳面を――」


ほどなく、黄ばんだ厚い名冊が出てきた。

私は頁を繰り、指先で名前を追う。


そして、そこで止まる。


――「柳絮」。


墨は古いのに、文字だけははっきりしていた。


私は鴇を見上げた。

「この者を覚えているか」


鴇は目を細め、記憶を探る。やがて小さく頷いた。

「ええ。忘れようがありません」


柳絮は入楼したころまだ幼かったが、文字が読めた。

顔立ちは清らかで、身のこなしも崩れない。

目をつける客は多かったが、彼女は冷たく退けたという。


「気性が強うございました」

鴇はため息をつく。

「十五の年、客を取れと言えば死んでもいやだと。夜に逃げました」


私の指が、帳面の端で止まる。

「……そのあとは」


鴇は笑ったが、そこに侮りは少なかった。

「運のある子です。逃げた先で貴人に拾われ、その場で身請けされました。それきり戻りません」


私は帳面を閉じ、なお「柳絮」の二字から目を離せなかった。

「自分からここへ来たのか?」


鴇は首を振り、机の下から古い証文を引きずり出した。

「いいえ。牙行から買った子です」


紙はざらつき、墨はくすんでいる。牙行の名と、取引の日付。


牙行――奴婢の売買と契約を扱う場所。

追い詰められた家が子を売ることもある。

だが人さらいが連れ去った女や子を、帳面の上だけ「契」として流すこともある。

禁ずるほど、手口は巧くなる。そこはいつも灰色だ。


私は証文を袖に入れ、短く頭を下げた。

「礼を言う」


鴇は笑顔を崩さず、私を門まで送った。

外へ出ると、日の光がやけに眩しい。

通りはいつも通り騒がしいのに、胸の奥だけが重く沈む。


柳妃は、花街で生まれたのではない。

牙行から流れてきた。


私は迷わず踵を返し、牙行へ向かった。


牙行の構えは立派ではない。

戸口に古い札がぶら下がり、「雇」「売」「契」と雑に書かれている。

出入りする人の顔はさまざまだ。布の擦れた農夫、目の利きそうな仲買。


敷居をまたぐと、紙と墨の古いにおいが鼻を刺した。


帳台の向こうに座る男が、私を一度見て笑った。

「公公、旧帳の照会ですか。新しい契ですか」


私は柳絮の証文を、卓にそっと置く。

「これを」


男は目を細め、分厚い帳面を引き寄せた。

頁をめくる音が、室内に湿ったように響く。

紙をめくっているというより、誰かの一生をめくっているようだった。


長い沈黙のあと、男は手を止め、帳面の一行を指した。


「この子は……少しばかり、筋が変わっている。

 親が直に売りに来たわけでもない。飢えに負けた家の“身売り”でもない」


彼は少し声を落とした。


「当時、ある者が『行き場のない孤児だ』と言って預けてきました。

 どうにか口を与えてやれ、と」


言葉は柔らかいが、それが清い話ではないことくらい、わかる。


男はさらに続けた。


「そのころ、城外の別院で火事がありましてね。

 女と幼い子が死んだ。


 騒ぎのあとで、焼け跡のそばに泣いている小娘を見つけた者がいた――

 そして、そのまま連れて行った。牙行に流れてきたのは、そういう話です」


八歳

その年齢が、胸の奥に重く落ちた。


私は何も言わないまま、証文を取り、牙行を出た。

風が頬に当たる。なぜか冷たい。


宮へは戻らなかった。

馬車に道を変えさせ、私はその「別院」の跡へ向かわせた。

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