戻れない道
黄昏どき、私は小さな布の店に足を踏み入れた。
戸枠は古び、塗りの剥げた木が風にきしむ。
けれど店の中は薄暗いながらもよく整えられていて、淡い色の反物が几帳面に積まれている。
皂莢の香り、古木の匂い、そしてほんのわずかな香の灰――まるで昔の時間を静かに水に浸しておいたようだった。
奥からやさしい顔しているお婆さんが現れた。
歩みはゆっくりだが、背筋は真っすぐ。
「お嬢さん、布をお探しですか? それとも仕立てでしょうか」
湯を注ぐ手つきは迷いがない。
私は茶碗を受け取り、掌の温もりを確かめた。
「どちらでもありません。……ひとりの昔話を聞きたいだけです」
お婆さんは一瞬だけ目を上げたが
「誰の話です?」
私は息を整え、静かに答えた。
「柳妃。――もう亡くなった人です」
その瞬間、急須が小さく震え、卓に触れて音を立てた。
湯面が揺れ、やがて静まる。
お婆さんは視線を落とし、かすれた声で言った。
「……そうですか。逝ってしまわれましたか」
彼女は深く息をつき、腰を下ろす。
灯芯がぱちりと鳴った。
「あの頃は、門前が本当に静かでね」
お婆さんはゆっくり語り始めた。
朝には鳥が屋根に降り、風が竹簀をさらりと鳴らす。
王爺はまだ即位しておらず、書房の灯は夜更けまで消えなかったが――
「張りつめた空気はなかった。ただ、学ぶ人が静かに灯の下に座っているだけ、という感じでした」
柳妃の話になると、お婆さんの声は自然に柔らかくなる。
「細い体つきでしたが、歩き方はきちんとしていて。口数は少ないのに、仕事は丁寧でね」
墨を磨くときは袖をきれいに巻き上げ、硯の中で墨が溶けていく速さまで穏やかだったという。
お婆さんはくすりと笑った。
「朝、戸を開けると、柳姑娘がひとり廊下に立っていることがありました」
霧に包まれ、誰を待つでもなく、景色を見るでもなく――ただ空気と話しているようだった、と。
黄昏には庭で落日を眺め、長いこと動かなかったとも言う。
王妃のこと
私はそっと尋ねた。
「……王妃と、柳妃は争ったことありますが?」
お婆さんは首を振る。
「外から見れば分かりやすい。でも内側はもっと複雑です。ただ、あの頃の府にはまだ“人の心が収まる場所”がありました」
少し間を置き、お婆さんは続けた。
「王妃さまは、書房に座って王爺のそばにいるのがお好きでね。墨をすり、茶を足し、絵を見る。絵は得意でなくとも、感想はいつも穏やかでした」
私はさらに問いかける。
「柳妃は、幸せでしたか?」
お婆さんは考え、静かに答えた。
「幸せとも、不幸とも言えない。水辺に立つ人のようでした。いつでも去れるのに、ひとまず足を止めている――そんな人でした」
お婆さんは茶を注ぎ足す。指先がかすかに震えていた。
「府は、ある日突然ではなく、少しずつ変わりました」
見知らぬ者の出入りが増え、黒い馬車が門前に止まる。
書房の灯はさらに遅くなり、王爺の眉間の皺は深くなる。
王妃は鏡の前に長く座るようになった。
すべては――丞相が訪ねてきた日から始まった、と。
王妃は泣きも怒りもしない。
ただ鏡の前に座り続けた。
やがて床に伏し、起き上がれなくなる。
「重い病だったのですか?」
「いいえ。太医は“心が塞いでいるだけ。静養を”と言っただけでした」
転機は、ある晴れた日。
王妃は久しぶりに外へ出て、柳姑娘を連れ出した。
「本当に明るく笑っておられました。長いこと見ていなかった顔でしたよ」
二人は芝居を見て、市を歩き、布を選び、小さな屋台で足を止めた。
主母と側室というより、普通の女同士のようだったという。
芝居の間、王妃はずっと柳姑娘の手を握っていた。
お婆さんは小さく息をつく。
「王妃さまは、こうおっしゃったそうです」
“もし、いつか――ここがあなたを受け入れなくなったら。
私の代わりに外へ出て、見ておいで”
店の空気が静まり、私は茶碗を見つめた。
帰府後、王妃は身近に仕えてきた召使いたちへ惜しみなく銀を分け与えた。
なかでも侍女たちには身分札を返し、「これからは自分の道を歩みなさい」と静かに告げた。
そして――
「王妃さまは私に、“薬房で烏頭を三両買ってきて”と仰いました」
補いの薬だと聞き、お婆さんは疑いもせずに買い求めたという。
私は思わず息を呑んだ。
三両の烏頭――もし一度に服せば、命を奪うに十分な量だ。
胸の奥が冷たくなる。やはり、これが王妃の死因だったのだろう。
ふと、柳妃が抱えていたあの薬罐が頭をよぎる。
彼女は多少なりとも医理を心得ていたはずだ。
――ならば、王妃の決意に気づいていたのではないか。
だからこそ、あの日、柳妃は部屋の外に立ち尽くしていた。
扉に手を伸ばしながら、踏み込めなかったのだろう。
押し開けるべきか、見送るべきか――その狭間で、足が動かなかったのだ。
「翌日、王妃は静かに亡くなった。」
お婆さんはうつむき、かすれた声でつぶやく。
「いまでも分からないんです。あんなに明るい方が……どうして、あんなふうに」
お婆さんは小さいく声で続けた。
「王妃さまの後、柳姑娘は京を出ようとしていました」
城門の刻を尋ね、荷をまとめ、門外に長く立っていたという。
「でも、翌日には戻ってきた」
私は問う。
「どうしてですか」
お婆さんは静かに首を振る。
「……忘れられなかったのでしょう。あの人を」
その一言が落ち、店の静けさが深くなった。
店を出ると夜風が吹いた。
口にはまだ茶の苦みが残っている。
街を歩きながら、私は思い出す。
「陛下は今日も朝堂で怒鳴ったらしい」
「丞相とまた衝突したとか」
旧王府に出入りした丞相。
鏡の前に座り続けた王妃。
門前で迷った柳妃。
そして――丞相の娘は帝に嫁ぎ、皇后の位にあること。
糸がゆっくり結ばれていく。
王妃の死は、ただの病ではなかったかもしれない。
柳妃の沈黙も、単なる従順ではなかったかもしれない。
私は気づいた。
私が追っているのは柳妃ひとりの過去ではない。
触れてしまったのは、皇権と丞相、そして朝堂そのものの亀裂だ。
城楼が闇に立つ。
私はその縁に立っている――もう戻れない場所に。




