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名もなき姫の手記  作者: sheryl00
灰に埋もれた名
7/12

戻れない道

黄昏どき、私は小さな布の店に足を踏み入れた。


戸枠は古び、塗りの剥げた木が風にきしむ。

けれど店の中は薄暗いながらもよく整えられていて、淡い色の反物が几帳面に積まれている。

皂莢の香り、古木の匂い、そしてほんのわずかな香の灰――まるで昔の時間を静かに水に浸しておいたようだった。


奥からやさしい顔しているお婆さんが現れた。

歩みはゆっくりだが、背筋は真っすぐ。


「お嬢さん、布をお探しですか? それとも仕立てでしょうか」


湯を注ぐ手つきは迷いがない。

私は茶碗を受け取り、掌の温もりを確かめた。


「どちらでもありません。……ひとりの昔話を聞きたいだけです」


お婆さんは一瞬だけ目を上げたが


「誰の話です?」


私は息を整え、静かに答えた。


「柳妃。――もう亡くなった人です」


その瞬間、急須が小さく震え、卓に触れて音を立てた。

湯面が揺れ、やがて静まる。


お婆さんは視線を落とし、かすれた声で言った。


「……そうですか。逝ってしまわれましたか」


彼女は深く息をつき、腰を下ろす。

灯芯がぱちりと鳴った。


「あの頃は、門前が本当に静かでね」


お婆さんはゆっくり語り始めた。


朝には鳥が屋根に降り、風が竹簀をさらりと鳴らす。

王爺はまだ即位しておらず、書房の灯は夜更けまで消えなかったが――


「張りつめた空気はなかった。ただ、学ぶ人が静かに灯の下に座っているだけ、という感じでした」


柳妃の話になると、お婆さんの声は自然に柔らかくなる。


「細い体つきでしたが、歩き方はきちんとしていて。口数は少ないのに、仕事は丁寧でね」


墨を磨くときは袖をきれいに巻き上げ、硯の中で墨が溶けていく速さまで穏やかだったという。


お婆さんはくすりと笑った。


「朝、戸を開けると、柳姑娘がひとり廊下に立っていることがありました」


霧に包まれ、誰を待つでもなく、景色を見るでもなく――ただ空気と話しているようだった、と。


黄昏には庭で落日を眺め、長いこと動かなかったとも言う。


王妃のこと


私はそっと尋ねた。


「……王妃と、柳妃は争ったことありますが?」


お婆さんは首を振る。


「外から見れば分かりやすい。でも内側はもっと複雑です。ただ、あの頃の府にはまだ“人の心が収まる場所”がありました」


少し間を置き、お婆さんは続けた。


「王妃さまは、書房に座って王爺のそばにいるのがお好きでね。墨をすり、茶を足し、絵を見る。絵は得意でなくとも、感想はいつも穏やかでした」


私はさらに問いかける。


「柳妃は、幸せでしたか?」


お婆さんは考え、静かに答えた。


「幸せとも、不幸とも言えない。水辺に立つ人のようでした。いつでも去れるのに、ひとまず足を止めている――そんな人でした」


お婆さんは茶を注ぎ足す。指先がかすかに震えていた。


「府は、ある日突然ではなく、少しずつ変わりました」


見知らぬ者の出入りが増え、黒い馬車が門前に止まる。

書房の灯はさらに遅くなり、王爺の眉間の皺は深くなる。

王妃は鏡の前に長く座るようになった。


すべては――丞相が訪ねてきた日から始まった、と。


王妃は泣きも怒りもしない。

ただ鏡の前に座り続けた。


やがて床に伏し、起き上がれなくなる。


「重い病だったのですか?」


「いいえ。太医は“心が塞いでいるだけ。静養を”と言っただけでした」



転機は、ある晴れた日。


王妃は久しぶりに外へ出て、柳姑娘を連れ出した。


「本当に明るく笑っておられました。長いこと見ていなかった顔でしたよ」


二人は芝居を見て、市を歩き、布を選び、小さな屋台で足を止めた。

主母と側室というより、普通の女同士のようだったという。


芝居の間、王妃はずっと柳姑娘の手を握っていた。


お婆さんは小さく息をつく。


「王妃さまは、こうおっしゃったそうです」


“もし、いつか――ここがあなたを受け入れなくなったら。

私の代わりに外へ出て、見ておいで”


店の空気が静まり、私は茶碗を見つめた。


帰府後、王妃は身近に仕えてきた召使いたちへ惜しみなく銀を分け与えた。

なかでも侍女たちには身分札を返し、「これからは自分の道を歩みなさい」と静かに告げた。


そして――


「王妃さまは私に、“薬房で烏頭を三両買ってきて”と仰いました」


補いの薬だと聞き、お婆さんは疑いもせずに買い求めたという。


私は思わず息を呑んだ。

三両の烏頭――もし一度に服せば、命を奪うに十分な量だ。

胸の奥が冷たくなる。やはり、これが王妃の死因だったのだろう。


ふと、柳妃が抱えていたあの薬罐が頭をよぎる。

彼女は多少なりとも医理を心得ていたはずだ。

――ならば、王妃の決意に気づいていたのではないか。


だからこそ、あの日、柳妃は部屋の外に立ち尽くしていた。

扉に手を伸ばしながら、踏み込めなかったのだろう。

押し開けるべきか、見送るべきか――その狭間で、足が動かなかったのだ。


「翌日、王妃は静かに亡くなった。」


お婆さんはうつむき、かすれた声でつぶやく。


「いまでも分からないんです。あんなに明るい方が……どうして、あんなふうに」


お婆さんは小さいく声で続けた。


「王妃さまの後、柳姑娘は京を出ようとしていました」


城門の刻を尋ね、荷をまとめ、門外に長く立っていたという。


「でも、翌日には戻ってきた」


私は問う。


「どうしてですか」


お婆さんは静かに首を振る。


「……忘れられなかったのでしょう。あの人を」


その一言が落ち、店の静けさが深くなった。



店を出ると夜風が吹いた。

口にはまだ茶の苦みが残っている。


街を歩きながら、私は思い出す。


「陛下は今日も朝堂で怒鳴ったらしい」

「丞相とまた衝突したとか」


旧王府に出入りした丞相。

鏡の前に座り続けた王妃。

門前で迷った柳妃。

そして――丞相の娘は帝に嫁ぎ、皇后の位にあること。


糸がゆっくり結ばれていく。


王妃の死は、ただの病ではなかったかもしれない。

柳妃の沈黙も、単なる従順ではなかったかもしれない。


私は気づいた。


私が追っているのは柳妃ひとりの過去ではない。

触れてしまったのは、皇権と丞相、そして朝堂そのものの亀裂だ。


城楼が闇に立つ。

私はその縁に立っている――もう戻れない場所に。

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