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名もなき姫の手記  作者: sheryl00
灰に埋もれた名
5/12

密やかな許し

内侍官が私を呼びに来たのは、翌朝のことだった。


宮門の外の石段には、夜の雨の跡がまだ残っている。

乾ききらない水の筋は、どこか涙の跡のように見えた。


遠くで鐘が鳴る。

低く、ゆっくりと――この宮城が今日も変わらず、自分の拍子で息をしていると告げるように。


「陛下がお目通りをお許しになりました」


そう告げたのは内侍官だった。

宦官として仕える男で、声は低い。冷たいわけでもないが、特別に丁寧でもない。

ただ“務め”として淡々と脇へ身を退き、道を開けた。


私はその後ろについて、脇殿へ続く長い回廊を歩く。


廊下の灯籠はまだ片づけられておらず、橙色の光が青い煉瓦の床に四角く落ちていた。

まるで時間を細かく切り分けたように、光が一枚ずつ並んでいる。


足音がやけに響く。

私の足音だけではない。胸の奥で速まる鼓動まで、回廊に反響している気がした。


奥へ進むほど、静けさが深まる。

宮城そのものが息を潜めているかのようだった。


御書房の扉は半分だけ開いている。


内侍官は扉の外で立ち止まり、低い声で取り次ぐと、すぐ一歩下がって影に退いた。

私は敷居の手前に立つ。手のひらにじわりと汗が滲む――それでも足は引かなかった。


扉が、ゆっくりと開く。


中は灯りが多いのに、あたたかくはない。

高い書棚が幾重にも並び、奏摺と典籍が隙間なく詰め込まれている。


机の上には、朱筆でまだ裁かれていない文書が広がり、赤い線が斜めに走っていた。

固まった血の筋のように見えて、私は視線をすぐにそらす。


陛下は窓辺に立っていた。


こちらに背を向け、灯りに長い影を引いている。

まっすぐな背なのに、どこかひどく孤独に見えた。


窓の外はまだ薄暗く、遠い宮壁の輪郭はぼやけている。

まるで声を持たない牢のようだった。


私は膝を折り、深く礼をする。


「児臣、陛下に拝謁いたします」


陛下はすぐには振り向かなかった。

少ししてから、低く嗄れた声が落ちてくる。


「……おまえが、阿照か」


初めて名を呼ばれた。

「公主」でも「どこの宮の娘」でもない――ただの二文字。

軽いはずなのに、胸の奥に深く沈む。


私は低く答える。


「はい」


陛下が振り向く。


灯りがその顔を照らした。

目元はまだ赤いが、表情はすでに冷えている。


帝王の悲しみは、誰にも見られない場所でしか許されない。

人前に出た瞬間、それは“威儀”の下へ押し込められる。


陛下は私をしばらく見つめた。

裁くようでもあり、思い出すようでもある視線だった。


「柳妃と……親しかったか」


咎める声ではない。

だが、探る鋭さがあった。


私は目をそらさずに答える。


「親しいと言えるほどではありません。ただ……よく伺っていました。柳妃さまは、私に良くしてくださいました」


陛下は一瞬、言葉を止めた。

指先が机の縁をゆっくり撫でる――感情を押さえる癖のように見える。


「良く……」

陛下がその言葉を繰り返す。ほんのわずかに、声音が変わった。

「この宮では、皆そう言う」


私は顔を上げる。


「陛下。『良いお方』という言葉は――あまりにも軽うございます」


口にした瞬間、自分でも息が止まった。

御書房の空気が、ぴんと張る。


内侍官が息を呑む気配がした。


――だが、陛下は怒らなかった。


ゆっくり目を細め、私を見る。

今になって初めて、私という人間を確かめるように。


「ならば、どう言えばよい」


私は小さく息を吸い直す。

怖さはある。それでも、抑えきれない衝動があった。


「私は柳妃さまと十余年、同じ宮におりました。けれど――私は、柳妃さまの“声”を思い出せないのです」


「炭は足りているかと問われ、点心を食べよと笑われ、茶はゆっくり飲めと諭されました。

それでも……声の形だけが、どうしても残っていない」


「もし柳妃さまが、ただの“良いお方”で終わるのなら――

あの方が何者で、何を背負い、なぜあれほど静かであったのか。私は何ひとつ知らぬままです」


灯芯が、かすかに鳴った。

陛下の表情が、ほんのわずかに揺れる。何かを突かれ、すぐに押し戻したような揺れ方だった。


「……何を調べたい」


その声から、試す色はほとんど消えていた。

代わりに残っているのは、冷静な計算だけだ。


私はさらに深く頭を垂れる。


「柳妃さまの身の上。入府なさる前の過去。そして――あの大火の夜、なぜ柳妃さまがそこにおられたのか」


陛下は答えない。

机へ戻り、朱筆を取る。だが筆先はしばらく紙の上に落ちない。灯りが横顔を揺らし、うっすらと疲れの影だけが浮かぶ。


長い沈黙ののち、低い声が落ちた。


「おまえ、自分が何をしているか分かっているのか」


私は跪いたまま、今度は顔を上げる。

声は先ほどより柔らかい――それでも揺らがない。


「この件が、朝堂にも権臣にも、古い因縁にも――そして陛下のお心にも触れ得ることは承知しております」

「柳妃さまの過去が、清らかでも体裁よくも、無辜でもない可能性があることも……理解しております」


袖の中で指先を握る。

そして、はっきりと言う。


「柳妃さまは、もう亡くなられました」


喉の奥が少し痛む。

それでも言葉を続ける。


「私は誰かを裁きたいのではございません。まして是非を論じるなど、身の程知らずも甚だしいことです」

「ただ――この宮で、柳妃さまの一生を『良いお方』の四文字だけで終わらせたくないのです」


声を落とし、静かに言い直す。


「誰かが、あの方の姿を覚えている。喜びも悲しみも、どう生き、なぜ黙し、なぜ火の中へ向かわれたのか――それを覚えている」

「それだけで、十分なのです」

「たとえその“誰か”が、私ひとりであっても」


針を落としても聞こえるほどの静寂が満ちた。

陛下の手が、朱筆の上で止まる。


陛下は私を見ない。

それでも――初めて、私の言葉を“聞いた”ように感じられた。


やがて朱筆が紙に落ち、深い赤が一本引かれる。

陛下は筆を置き、ゆっくりこちらを向いた。


「真実は、しばしば人の願いとは異なる姿をしているかもしれない。」


私はまぶたを伏せ、静かに答える。


「真相を暴きたいわけではありません。ただ……柳妃さまがどんな方だったのか、もっと知っておきたい。短い一生でも、きちんと覚えていたいのです。」


陛下はまた黙した。

窓の外が少しずつ明るくなる。薄い光が部屋の隅へ染み込み、灯りの影を押し退けていく。


そして、ようやく言葉が落ちた。


「許す。調べよ」


その一言は、暗い扉がひとつ開いたようだった。

胸が震える。けれど私は乱れずに頭を下げ、礼を尽くす。


立ち上がろうとしたとき、陛下がもう一つ付け加えた。


「ただし、覚えておけ」

「この宮には、ただの偶然などない。深く踏み込めば――二度と引き返せぬ」


私は少しだけ間を置き、答える。


「……もとより、引き返すつもりはございません」


陛下の目が一瞬だけ揺れた。

次の瞬間、ほんの短く――しかし確かに、笑った。


「行け」


内侍官が前へ進み、私を外へ導く。

扉が背後で閉まる瞬間、初めて気づいた。背中が冷たい汗で濡れている。


回廊に出ると、朝の光が床へ広がっていた。

宮壁の外から、鳥の声がかすかに届く。まるで別の世界の音だ。


私はその場で小さく息を整えた。


――もう、ただの傍観者ではいられない。

私は宮城のいちばん深い影へ、足を踏み入れてしまった。


そして柳妃の名は、その影の奥で静かに待っている。

私が拾い上げるのを。

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