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名もなき姫の手記  作者: sheryl00
灰に埋もれた名
3/12

灰の上に残る温もり

火は、夜の半ばを越えても燃え続けた。


翌朝。

風の中に、まだ灰がくるくると舞っている。


柳妃の宮は、崩れた壁と柱だけを残し、ところどころから薄い青煙を吐いていた。

濡れた地面は人の足で踏み荒らされ、泥に変わっている。


宮人たちは頭を低くしたまま行き来し、焼け焦げた梁や砕けた瓦を、ひとつずつ運び出していく。

誰ひとり声を張る者はいなかった。


私は瓦礫の縁に立ったまま、近づきもせず、離れもせずにいた。


炭色に変わった窓の格子が目に入る。

そこは、柳妃が雨を眺めていた場所だった。


雨の日には窓を少しだけ開け、湿った空気を部屋に招き入れる。

低い卓に湯の入った急須を置けば、白い湯気が細く立ち上り、外の雨霧と溶け合っていく――そんな光景を、私は何度も見てきた。


いま残っているのは、空っぽの枠だけだ。


断壁のあいだを風が抜け、低く唸る。

誰かが喉の奥に押し込めたため息のように。


灰が袖に落ちた。

軽く払ってみたが、きれいには落ちない。


その瞬間、はっきりと思い出した。

私が初めて、自分から柳妃の宮へ足を向けた日のことを。


――初夏の午後だった。


御花園では石榴の花が赤く咲き始め、空気は雨を含んだように重い。

回廊に立ち尽くすうち、理由のない苛立ちが胸に溜まり、私は小径を気の向くまま歩いた。


気づけば、柳妃の宮の門前に立っていた。


門は半分だけ閉じていて、中はひどく静かだ。


引き返そうとした、そのとき――

奥から琴の音が流れてきた。


宮宴で聞くような整いすぎた曲ではない。

とても軽く、ゆっくりした旋律で、

水が石の間をすり抜けるようでもあり、柳の梢を風が撫でるようでもある。


私は門の外で立ち止まり、音が途切れるまで動けなかった。


やがて扉が静かに開く。


柳妃が内側に立っていた。

素朴な袖、髪には銀の簪が一本だけ。


私を見ても驚かず、ただ微笑んで言う。


「殿下、どれくらい立っていらしたの?」


私は答えに詰まり、小さく言った。

「……通りかかっただけです」


柳妃は身を引き、静かに中へ促した。


部屋には、ほのかな桂花の香り。

卓の上には、まだ温かい杏仁の菓子が一皿。


柳妃は来意を問わず、ただ茶を注いでくれた。

杯の縁が、少し熱い。


「お菓子は、お好きですか」


その言い方は、驚くほどさらりとしていた。


後で知ったことだが、その菓子は皇后から賜ったものだった。

柳妃は甘いものを好まないのに、私のためにいつも少しだけ残していたという。


焼け跡に立ついま、私はまたあの桂花の香りを嗅いだ気がした。

けれど周りにあるのは、焦げた木と湿った土だけだ。


数歩、前へ出る。

砕けた瓦を踏むと、乾いた音がした。

足元の泥は柔らかく、靴底を吸い寄せるように重い。


風が再び断壁を抜け、低く唸る。

灰は舞い上がっては落ち、落ちてはまた舞う。

まるで、この場所から離れたがらないかのように。


掌からじわりと冷えがのぼってくる。


そのとき――

焦げた匂いとは違う香りが、ふいに混じった。


冬の夜、炭が赤くなり、松脂が小さく鳴る――

あの、静かな温もりの匂い。


記憶は、戸を叩かずに入り込んできた。


大雪の日だった。


私の小さな院は炭が足りず、指先が痺れるほど冷えていた。

手炉を抱えたまま窓辺に座り、庭に静かに積もっていく雪を眺めながら、誰にも言い出せずにいた。


しばらくして、柳妃の宮から人が来た。

炭が二籠、厚い外套が数枚、それから温められた銅の壺。


その日、私は礼を言いに行かなかった。

けれど翌日、結局私は柳妃の宮へ向かった。


柳妃は茶盃を静かに私の前へ寄せ、やわらかく尋ねた。


「昨夜は、少しでも暖かく過ごせましたか」


恩着せがましい声でも、憐れむ目でもない。

ただ、姉が妹に「寒くなかった?」と問うような調子だった。


――火が空を赤く染めた夜。

私は炎の前で、帝の手が握られてはほどかれるのを見ていた。

柳妃の顔は、見えなかった。


けれど今、灰の中に立っていると、はっきり見えてしまう。

柳妃がいつも纏っていた表情――静かで崩れず、深い水の色を湛えた何か。


風がもう一度、瓦礫を撫で、折れた梁が空洞の音を返した。


私は顔を上げる。

宮墻に切り取られた空が、細い裂け目のように見える。

そこに夕映えが残り、赤と金が重なって、皇城全体が血と火に染まったようだった。


その空が、いつかの黄昏と重なる。


――あの日も、こんな落日だった。


柳妃は回廊に立ち、袖を垂らして空を見ていた。

影は長く伸び、身体はひどく細く見えた。

喜びも悲しみも浮かべず、ただ言葉にしがたいほど澄んだ目で。


私は迷ってから、小さく尋ねた。


「もし宮城を出られるなら……柳妃は、出ますか」


柳妃は振り返らず、淡々と言った。


「殿下。行きたいと思うだけで行ける道ばかりではありません」


あの時の私は分からなかった。

いまなら、少しだけ分かる気がした。


柳妃と帝の若い頃のことを、私は詳しく知らない。

けれど宮の中では、途切れ途切れの噂がいつも、ひどく小さな声で流れていた。


――昔、王府で目立たない侍女だった。

――街で助けられ、殿下のそばに置かれた。

――苦しい時期、読書や絵や茶で殿下の時間を支えた。


噂は噂のまま軽く語られ、すぐに消されていく。


いま、その欠片が火光と灰と折れた梁に重なり、やけに鋭く胸に刺さった。


風が灰を運び、私は思わず瞬きをする。

瞼が熱くなる。


私は気づいてしまった。

私が見ていた柳妃は、表面に過ぎなかったのだと。

私が「淡い」「静か」と呼んでいたものは、長い時間をかけて押し込めてきたものの形だったのかもしれない。


そして、この火は――


突然の出来事ではなかったのかもしれない。

柳妃がずっと前から見据えていた結末だったのかもしれない。


私はゆっくりしゃがみ込み、焦げた木片を拾った。

木というより、燃え尽きた記憶のように軽い。


私は小さくつぶやく。

空の庭に向けて――あるいは、自分自身に向けて。


「……あなたは、何を見ていたの?」


返事はない。

ただ壊れた門枠を風が抜け、灰と煙を連れて私の頬を撫でた。


もう一度、さらに小さな声で問う。


「……誰のために、これを背負ったの?」


遠くで宮人たちが残骸を運び続ける。

鉄がぶつかる耳障りな音。

天の向こうでは城の鐘がゆっくり鳴り、新しい一日を告げていた。


けれど私は、過去と現在の境目に立ったままだった。


柳妃の沈黙も、優しさも、淡さも、弱さではなかった。

それは胸の底に沈めてきた決断だった。


そして私は――

ただ平穏に、目立たずに生きたいだけだった私が、もう岸辺から水の流れを眺めていられないことを知る。


灰がまた舞い上がり、掌に数粒落ちた。

重さなんてほとんどない。

それなのに、手放せないほど重い。


私はゆっくり指を握りしめた。


泣かなかった。

けれど胸の奥で何かが割れ、静かに芽を出し始めるのが分かった。


宮城は変わらず高い。

それでも私は、もう壁だけを見てはいない。

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