燃える宮廷
その夜の風は、やけに速かった。
更けゆく宮城は、本来なら静けさを取り戻すはずだった。
灯はひとつ、またひとつと落ち、巡夜の兵の足音だけが一定の間隔で石を打つ。
遠くでは更漏の音が、かすかに響いていた。
私は自室の窓辺に座り、古い詩集を開いていた。
だが文字は目の上を滑るばかりで、心がどうしても追いつかない。
――そのとき、風がひときわ強まった。
庭の海棠がざわめき、次の瞬間、見知らぬ匂いが混じる。
花の香でも、雨気でもない。
乾いて熱を孕んだ、胸の奥を硬くする匂いだった。
私は思わず窓を押し開けた。
夜の闇が、いつもより重くのしかかるように見える。
遠くで、短い叫びがひとつ。
風に裂かれるように消え、間を置かず二つ、三つと重なった。
乱れた足音、金属が石にぶつかる甲高い音が夜気を切り裂く。
そして――空の一角が赤く染まった。
それは灯火の赤ではない。
跳ね上がるような、獣の息のような赤だった。
宮が一瞬で目を覚ます。
内侍が走りながら叫んだ。
「火事だ!」
水桶が石段にぶつかり、宮女たちは裾をたくし上げて駆けていく。
泣き声、名を呼ぶ声、押し殺した指示の声――すべてが炎に追われ、統制を失っていた。
私は廊下に飛び出した瞬間、掌がひやりと冷えた。
赤い光の向こう、その方角だけで分かる。
柳妃の宮だった。
私は誰の許しも待たず、ただ走った。
風が耳元で唸り、長い回廊が異様に遠い。
それでも胸の内だけが、先に燃え始めている。
近づくほど、熱が重くなる。
梁の焦げる匂い、布の焼ける匂い、香の灰の匂いが喉を刺した。
炎は軒先を舐め、瓦がはぜ、火の粉が散り、空気そのものが赤くざらついていく。
柳妃の宮の前は、人の波で塞がれていた。
宮人たちは列を作り水を回す。
だが水は炎に触れた瞬間、白い湯気となって消えた。
屋根の落ちる音が胸まで震わせ、燃えた梁が今にも崩れそうに揺れている。
熱に押され、私は半歩退いた。
それでも目だけは、炎から離せない。
――その中で、人影が揺れていた。
見間違いではない。
侍衛が声を張り上げる。
「中にまだ人がいる!」
次の瞬間、轟音とともに壁が崩れ、炎が波のように巻き上がった。
息が詰まり、身体が固まる。
そこへ、皇帝が現れた。
黒い外袍をまとい、髪はわずかに乱れている。
顔色は冷え切っていたが、その眼だけが鋭く炎を睨んでいた。
周囲の者は一斉にひざまずき、ざわめきが低く沈む。
「消せ」
皇帝は短く命じた。
「代償を惜しむな」
だが火は命令を聞かない。
風が強まるほど、炎もまた勢いを増す。
遠くの鐘がせき立てるように鳴り、宮城全体がざわりと揺れた。
私は炎の前に立つ皇帝を見つめた。
拳を握り、ほどき、また握る――その仕草だけが、ひどく人間らしかった。
どれほどの時が過ぎただろう。
やがて炎が弱まり、瓦礫の奥から二つの体が運び出されたとき、場の空気は目に見えるほど冷えた。
ひとつ目は、柳妃。
焼け残った布が袖に絡み、髪が頬に貼りついている。
あの静かな微笑みはなく、灰色の沈黙だけがそこにあった。
指先はわずかに丸まり、何かを掴もうとしたまま、結局なにも掴めずにいる。
ふたつ目は――丞相。
権を握る者の姿とは思えないほど衣は乱れ、顔も判然としない。
その体が、柳妃と並んで炎の中にあった。
誰もが息を呑み、声を失う。
すすり泣きがどこかで起こり、すぐに飲み込まれた。
誰もが目を伏せ、見てはならないものを見たかのように沈黙する。
皇帝はゆっくり歩み寄った。
遅いのに、揺れない。
二つの体の前で、何も言わず、ただ見つめ続ける。
まるで、その光景を心に刻みつけるかのように。
私は人垣の最後尾で、胸の奥が締めつけられていくのを感じた。
これは、ただの火事ではない。
この宮で生きるすべての人の何かが、確実に変わる――そう思った。




