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名もなき姫の手記  作者: sheryl00
灰に埋もれた名
11/12

火に捧げた心

乾清宮の石段は高い。

一段、また一段と上るたびに、見えない権力の影を踏みしめていくようだった。


殿門が静かに開くと、沈香の匂いがふわりと流れ出る。

高い金柱、冷ややかに光る龍椅――すべてが重く、遠い。


陛下は玉座に座していた。

葬礼の日より老いたように見えるのに、どこか深く静まってもいた。


「入れ」


低い声に怒りはない。

私は礼に従い、冷たい床に額をつけた。


「……上がれ」


ゆるやかに身を起こす。だが私はすぐには目を上げなかった。


殿内は息が詰まるほど静かで、香炉の煙だけが細く立ちのぼっている。

やがて陛下が問うた。


「何を掴んだ」


責める響きではない。確かめるような声音だった。


私はすぐには答えない。

胸の奥で、いくつもの思いが揺れた。


真実をそのまま差し出せば、刃となって陛下を傷つける。

取り繕えば、柳妃さまを裏切る。

黙れば、私は永遠に盤上の駒のままだ。


――陛下が欲しているのは、事実そのものではない。

帝としての体面を保ちつつ、良心の置きどころを見つける道なのだ。


私はゆっくり顔を上げ、初めて正面から陛下の目を見た。

そこに冷酷さはなかった。あるのは深い疲れと、長く抑え込まれた痛みだけ。


静かに言う。


「朝政を論じる胆力はございません。ただ――柳妃さまの生を辿りました」


陛下は何も言わない。


私は続ける。


「身分は低くとも、文字を知り、絵を描けたこと。

王府の頃、先王妃と深く心を通わせていたこと。

入内してからも寵を競わず、最後まで穏やかであられたこと――」


陛下の指が、わずかに動いた。

――このまま進めばよい、と直感する。


私はあえて丞相の名を出さなかった。

策も、陰謀も口にしない。

ただ、人の心だけを語る。


「王府の古い屋敷の者にも、老いた乳母にも会いました」


そして、言葉を選びながら一つの言葉を差し出す。


「先王妃は病に伏す前、柳妃さまの手を握り――こう言ったそうです。

『いつかここに居場所がなくなるなら、代わりに外へ出て、見てきて』と」


陛下の呼吸が、わずかに止まった。


私は声を落とす。


「恐れながら――柳妃さまを縛っていたのは、憎しみではなく、情であったのではと存じます」


陛下の視線が、初めて私に深く落ちた。

それは裁く眼ではなく、見極める眼だった。


私は静かに、しかしはっきりと言い切る。


「柳妃さまは、陛下のお心を最初から見抜いておられた。

それでもなお――陛下を成すために、ご自身を火へ差し出されたのです」


殿内の空気が凍った。

香炉の煙が、宙に止まったように見えた。


陛下の拳がわずかに震える。

やがて目を閉じ、そして開いたとき――そこにいたのは帝ではなく、ただ一人の人だった。


私はそれ以上、言葉を重ねない。


袖から古い絵巻を取り出し、両手で捧げる。

内侍官が受け取り、静かに広げた。


描かれているのは、柳の枝と小舟、かすかな波。

傍らには柔らかな筆跡が添えられている。


「浮生は夢のごとし

 一葉一柳 一人の心」


――若き日の柳妃さまの筆だ。


陛下は長く見つめた。

喉が小さく動く。涙は落ちない。


やがて、かすれた声で呟く。


「……あれほど近くにいながら、朕には一度も言わなかったのか」


私は伏したまま答えない。

柳妃さまが語らなかったことこそが、最大の成全だったからだ。


帝に罪悪感を負わせるより、ただ玉座に座らせる――それを選んだ人だった。


鐘が鳴る。

長く、空虚に響く音が、ひとつの時代の終わりを告げていた。


陛下は絵巻を静かに畳む。


「下がれ」


私は叩頭し、立ち上がり、扉へ向かう。


そのとき背後から声が落ちた。


「……なぜ、そこまでして調べた」


足を止め、少しだけ振り返る。


低く、しかし揺るぎなく答える。


「ただ――あの方が、無名にならぬように」


陛下は何も言わなかった。

だがその沈黙が、すべてを物語っていた。

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