最後の欠片
次の朝、父上(陛下)から召しが届いた。
石畳は夜露を含んでひんやりとしており、私の裾がその上を滑っても、ほとんど音は立たない。
内侍官が一歩先を歩いて案内する。その足取りは軽いのに、見えない時刻に急かされているかのようだった。
私はすぐには乾清宮へ向かわなかった。
もう一度だけ柳妃さまに手を合わせたいと願い出て、馬車を脇門から回し、先に柳妃さまの旧い偏殿へ立ち寄った。
建具は半ば開いたまま。調度もまだ片づけ切れていない。
化粧台には銅鏡が一つ残り、そこに人影は映らない。衣桁には淡い色の羽織が掛かったままで、今にも柳妃さまが戸を押して入ってきそうだった。
私は供を下がらせ、柳妃さまに仕えていた侍女だけを残した。
侍女は床に伏し、声を極めて低くして言った。
「娘娘がお生きだった頃……陛下は、ひと月に一、二度ほどお越しになりました」
少し言いよどみ、さらに付け足す。
「多くは……夜でございました」
私は何も言わず、ただ耳を傾けた。
侍女は静かに続ける。胸の奥に溜めていた言葉が、少しずつほどけていくようだった。
「陛下がおいでになるときは、たいがいお疲れのご様子でした。
娘娘は朝廷のことを深くお尋ねにはなりません。ただ、お茶を差し替え、香を整え、炭を足し……静かにお側におりました」
そこで一拍、呼吸を整えるように間を置く。
「けれど陛下のほうが、つい口にされるのです。
どの官が殿上で言い返したか、どの上奏が止められているか、どの政が滞っているか――」
そして、声を落として告げた。
「いちばん多く出たのは……丞相のことでした」
侍女は一瞬私を見上げ、すぐに目を伏せる。
「陛下が机を叩くほどお怒りになった夜もございます。
そのとき娘娘は、ただおだやかに――」
侍女は静かに言葉を紡ぐ。
『政は心を削ります。どうか御身を大切に』
「そうおっしゃって、陛下をなだめられました。
是非を論じることは一度もなく、ただ陛下の胸が少しでも軽くなるようにと……」
私は黙って聞き、袖の中で指をゆっくりと丸めた。
その瞬間、散らばっていた欠片が一本の線につながった気がした。
――母家の後ろ盾もなく、朝堂にも関わらない柳妃さまが、なぜ丞相の動きを「ちょうどよく」知り得たのか。
――なぜ、帝の力が増し、丞相が最も強いその時を選んで、あの火を選んだのか。
答えは、すでに喉元まで来ていた。
柳妃さまは、帝の心を読み切っていた。
そして自らを盤上の石とすることを選んだ――帝を成すために。
私は侍女に手で合図した。
侍女は赦されたように深く頭を下げ、静かに退がる。
扉が閉まると、斜めの陽が格子窓から差し込み、柳妃さまがよく座っていた寝台を照らした。
そこに人影はないのに、茶の香りだけがまだ温もりを残している気がした。
私はしばらく動けなかった。
やがて内侍官が再び促しに来て、ようやく身を翻す。
――乾清宮へ。




