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名もなき姫の手記  作者: sheryl00
宮の名もなき人
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宮の名もなき人

春の風が宮壁を越えて吹き込んでくると、どこかに鉄の匂いが混じっていた。

冷たいわけでも、暖かいわけでもない。季節の狭間に取り残されたような風だった。


私は御花園の回廊に立ち、静かな池を見下ろしていた。

錦鯉がゆるやかに尾を揺らし、水は澄んでいる。

けれど琉璃瓦の金色が映り込み、きらきらと眩しく揺れているのを見ると、胸の奥がひやりと冷えていく。


風が吹けば波紋が広がり、金の影は細かく砕ける。

それでも少しすれば、また元の形へ戻っていく。


――ここでは、いつもそうだ。

景色だけが動き、人の心は変わらない。


私は幼い頃から知っていた。

自分が皇帝の娘であること。

そして同時に、「覚えられていない公主」であることも。


あの日の大雨の記憶は、もうはっきりとは思い出せない。

残っているのは音だけだ。


瓦を打つ雨、軒から落ちる水、石を叩く水しぶき。

乳母は私を抱き、廊下を急いだ。

雨音と足音が重なり、息が詰まりそうだった。


襁褓の隙間から見えたのは、殿門に立つ母妃の姿だった。

髪は乱れ、衣は崩れ、顔色は青白い。

誰かが止めても、母妃はただ私だけを見ていた。


泣いているのか、怒っているのか分からない目――

ただ、こちらへ伸びようとする気配だけが、怖いほど強かった。


乳母が私を抱いて去るとき、母妃の声が聞こえた気がした。

けれど雨にかき消された。


後になって知った。

母妃は争いに敗れ、禁を犯したとされ、冷宮へ落とされたのだと。

それ以来、私は母妃にほとんど会っていない。


父皇の姿を見るのは、年に一度の宮宴だけだった。

遠くに見える龍袍の影。

群臣が伏し、空気が固くなる。


父皇の視線は人々を一通り巡るが、私の上で止まることはほとんどなかった。


私はそのたびに静かに礼をし、余計な動きはしない。

そして列の後ろへ下がる。


まるで、塵が元の場所へ戻るように。


宮の人間はすぐに覚える。

私との、ちょうどよい距離を。


侍女たちは厳しくはないが、気にも留めない。

内侍官たちは丁寧だが、親しみはない。

宮女は衣も炭もきちんと届けるが、私が寒いかどうかを気遣ってはくれない。


不足はない。けれど、特別もない。

「公主のところは気を配れ」――そんな言葉を、私は一度も聞いたことがなかった。


だから早くに悟った。

この宮では、目立たないことがいちばん安全なのだと。


私は静かに生きた。

盤の端に置かれた駒のように――動かされない代わりに、守られてもいない。


及笄の年、皇家学院の課程は滞りなく終えた。

書は読める。字も書ける。礼も、茶も、琴も、一通りは身につけた。

先生たちは「よくできている」と言った。


けれど学びが終わっても、私に用事が増えることはなかった。


縁談も来ない。

将来の話もない。

他の公主が「どこへ嫁ぐか」で忙しくなる頃、私はただ暇になっていった。


それで私は、宮の中を歩くようになった。


朝は皇祖母の宮へ行き、昔話を聞いて相槌を打つ。

昼は御花園で魚に餌をやる。

夕方には、あちこちの宮へ顔を出す。


寵を受ける宮も、冷えた宮も、区別はしない。

私は政の話はせず、秘密を探りもしない。

ただ茶を飲み、世間話をして帰るだけ。


その帰り道で、下人の小声が耳に入る。


「誰それが禁足になった」

「昨夜、陛下が誰を召した」

「丞相がまた朝堂で逆らった」


私はそれを外に出さない。

誰にも渡さない。

ただ胸の奥に、静かに積もらせていく。


いつの間にか私は、宮でいちばん“害のない人”になっていた。


見ているのに言わない。

聞いているのに広めない。

知っているのに顔に出さない。


それでいい、と私は思っていた。


宮壁は高く、権力は鋭い。

私はその刃に触れず、ただ隅で息をしていられればよかった。


回廊の端で夕陽が宮城を赤く染めるのを見るたび、同じことを思った。


――このまま、何事もなく終われたらいい。

静かなまま、誰にも踏まれずに。


その頃の私は、まだ知らなかった。

この平穏が、一夜の火で裂かれることを。

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