幸せのパラメーター
世の中には、不思議なほど「幸せ」を感じ取る力が鈍ってしまった人たちがいる。
何を見ても悪意に変換し、誰かの喜びを必ず一度くしゃくしゃに丸めてから返すような人たちだ。
まるで世界の輪郭がすべて灰色のフィルターを通して見えているかのように、何に対してもまず否定が口をつく。
理由は簡単だ、と言う人もいる。
「自分が幸せを受け取れないから」
「小さな光すら拾えないから」
けれど、もっと複雑で、もっと根が深いのだと思う。
人は、長いあいだ不満と疲労に晒されると、“幸せの感度”が少しずつ狂っていく。
本来なら嬉しいはずの出来事が、もう嬉しいと認識できない。
誰かの「よかったね」という言葉が、自分への当てつけのように聞こえてしまう。
祝福を受け取る回路が錆びつき、褒め言葉すら警戒するようになる。
そうなると、気づかないうちに言葉が変質していく。
世界そのものではなく、世界を見る“窓”が曇るのだ。
職場で誰かが褒められても、心のなかで理由を探してしまう。
「自分だって努力しているのに」「なんであの人だけ」
他人の成果を認めることが、自分の価値を脅かすように感じられる。
だから反射的に、相手を下に置くための言葉が出る。
SNSで人の喜びが流れてくるたび、
「どうせ裏がある」
「調子に乗るな」
「環境がいいだけだ」
自分でも理由が分からないまま、否定のほうが先に走る。
本当はそんなことを言いたいわけじゃないのに、
そう言っていないと自分が崩れてしまいそうだから。
しかし、そのたびに誰より苦しむのは、ほかでもない本人だ。
幸せを信じられないということは、
どんな良いものに触れても喜べないということだから。
まるで、花が咲いているのにそれを「雑草」にしか見えないようなものだ。
本当は柔らかい黄色なのに、目にはくすんだ茶色に映る。
本来なら春の香りがするのに、鼻には土埃の匂いしか届かない。
そんな感覚で世界を眺めていれば、
どんな一日も、どんな出来事も、
自分の人生そのものさえ、くしゃくしゃに見えてしまう。
働く理由も、歩く理由も、夢を持つ理由も、
すべてどこかで「どうせ自分なんて」という声に飲まれる。
それが積み重なったとき、人の言葉は否定しか出てこなくなる。
でも、本当は違う。
その人たちは、世界を呪いたいわけじゃない。
誰かを傷つけたいわけじゃない。
ただ、自分の心がもう、嬉しいという感情を扱いきれなくなっているだけだ。
心の底から疲れてしまった人は、
「幸せ」を受け取る器が割れてしまう。
水を注いでも溢れてしまい、手元には何も残らない。
それがどれほどしんどいことなのか、
どれほど孤独な状態なのか、
誰かが想像してあげなければ、ますます深みに沈んでいく。
だから、表面だけを見て「嫌な人だ」と切ってしまうのは簡単だ。
けれど、それはきっと本質ではない。
本当はただ、心のどこかで助けを求めているのかもしれない。
「誰かの幸せを素直に見られる自分に戻りたい」と。
自分では戻り方が分からなくなってしまっているだけだ。
世界にはたくさんの色があるのに、
曇った心だけがそれを受け取れず、
灰色のまま固まってしまっただけなのだ。
それでも、もしどこかでほんの少し、
たった一瞬だけでも誰かの優しさに触れられたなら。
もし、自分を責める気持ちがふと緩む瞬間があったなら。
そのひび割れた器は、ゆっくり、ゆっくりと修復されるかもしれない。
そしてある日、何気ない光がふと胸に入ってきて、
「あ、今ちょっとだけ嬉しい」と思えるのかもしれない。
その一歩だけで、人は戻れる。
曇った窓だって、時間をかければ透明になる。
閉ざされた心だって、誰かの声でそっと動き出す。
人は変われる。
ほんの少しの優しさと、ほんのすこしの余白さえあれば。
その可能性がある限り、
どんな人の心も、まだ終わってはいない。




