『君を愛することは無い』そう言われた理由は予想の斜め上だった
ちょっと難しい題材で描いてみました。
「話しておきたい事がある」
結婚式の夜。
日もすっかり沈み、身体を磨き上げられ、初夜を迎えるのを待つばかりであった私に、夫が静かに告げた。
「私が君を愛することは無い」
その言葉は静かで、冷たく、それでいてまるで今朝聴いた誓いの言葉のように凛とした物だった。
政略結婚――王家と王家に連なる公爵家の均衡を保つために、私ーーヴァレンティーナ・ド・フォンテーヌは新たな公爵となった彼に嫁いだ。ただそれだけのはずだった。
初めから期待などしていなかったし、当然この目の前の男について腫れただの惚れただのと思ったことは露ほどもない。しかし、彼にそう言われた瞬間、私は胸の奥で静かに軋むような痛みを覚えた。
「そう、ですか」
私は笑った。笑ったつもりだった。しかし、私の言葉に対して、彼は僅かに動揺を見せた。
まるで、掛ける言葉が見当たらないとでもいうような、何かを探しているような。
なんだその態度は、と気が付けば内心カチンと来ている自分があった。哀れみでも掛けているつもりなのか、と。
しかしその後に続いた言葉が予想の斜め上を行っていて、思わず私は言葉を失った。
「白い結婚ののちに離縁したいと言うならそれでも構わないし、愛がなくとも抱いて欲しいというのであれば、何分此方としても跡継ぎは必要だから抱くよ。だが白い結婚であっても養子を取るという選択肢もある事だし、愛することは無いなんて言っておきながらぶん投げるようで悪いとは思うけれども、これから君がどうするか考えてくれ。少なくともそれまでは手を出すつもりは無いから。じゃ、そういうわけでとりあえず今日は寝るから、おやすみ」
「……は???」
えっ今なんて??
思わず聞き返そうとした所で聞こえてきたのは寝室の扉が閉まる音。
白い結婚をし……え、抱いて欲しいなら抱く? 何それ?? ごめんちょっとアンタ何様?? あ、王子様か……
……いや、そういう事じゃなくて。
悲しいとか頭にくるとか以前に、ちょっと何を言っているのか理解できなかった。
えっ今朝の結婚式での誓いの言葉は何だったの? とか、愛人でも居たの? とか、いやそもそも、愛人作ってる暇あったっけ? とか、いや、でも愛人がもしいたとしたら愛人との子を托卵してくるよね……とか、それで養子がどうのとか言ってたの? とか、でもそれなら養子を取るなんてまどろっこしいことしないで最初から私の子ってことに普通しておいて育てるよね? とか、もう疑問がとめどなく噴き出して私の思考を満たして行く。
ショックだったはずの感情はとうに吹き飛び、いつしか私は何故夫がそんな矛盾した態度をこちらに向けるのかについて一晩中深く考え込んでしまっていた。
そしてその夜から、私は夫――アロイス・オークセル殿下と、互いに交わることのない日々を送ることになる。
◇
結婚して初めて分かった事だが、夫は基本的に誰に対しても他人行儀だ。執事やメイドであっても丁重に相手するし、あんなとんでもないことを言われた翌朝も、私に対してゆめゆめ仇することのないように釘刺しまでした。
しかし彼はじゃあそういうことだから、と言って特に私に見送られることも無く屋敷をそのまま飛び出すし、夜戻って来ると特に何かを言うわけでもなく私と言葉をさほど交わすことなく淡々と食事をし、そのまま湯浴みをして寝てしまう。
そして翌朝も大して何か夫婦としての会話があるわけでもなく、また仕事に出てしまう。休日なら家の中にいるが、概ね仕事をしていて特に私と何か会話することもない。
いや、もちろん普段は……少なくとも外っ面では絵に描いたような紳士で、誰に対しても分け隔てなく笑顔で接するような、それはそれは大層優しい人物ではあるのだけれども。
私はやがてその『誰に対しても』の中に他ならぬ『私』も含まれてしまっているという事にも気付いてしまったのだった。
決して仲は悪いとは思わないし、領内の事務をある程度任されている身として見ても、特に冷たく接されているとか、そういうわけではなかった。
ただ、妻と言うよりかは、どちらかと言うと同僚かなんかと接するかのように振る舞われているだけだ。それが例え、私と夕飯を共にしていようが、寝る前だろうが、朝だろうが。
彼は用が無ければ私とはーーいや、私と『も』ーー全く目を合わせず、話しかける事もしない。
朝食の席ではいつも彼だけが早く立ち去り、私は残されたまま、沈黙と共にパンをかじる。
晩餐会や歓待の場で、例えば王族として出席をする場合はもちろんその限りでは無いし、率先してお客様相手に話しかけたりするし、私と相槌を打ち、私にも話を振り、人好きのする笑みを浮かべはするのだけど。
例えば社交界の色恋沙汰の話になると突然顔面が分かりやすく機械的になるというか、全く話に興味を持てなくなるその様子は見ていておかしいものだった。
心のそこからどうでもいいと思っているというか、そんな事よりも他の話に逸らしたがるというか。
そしてその目の奥だけは、歓待の中で何か粗相が無いか、下手したら執事長よりも常に鋭く目を光らせていて、その目の奥の温度もまた氷点下なのだった。
これは恐らく、私が曲がりなりにも結婚して同じ屋根の下で暮らすようになったからこそ気付けたことなのだと思う。
彼はびっくりするほど社交界の浮いた噂には興味を示さない。
と言うより、誰が誰とくっつくとか離れるとか、そう言う話にだけは全く乗らない。
それが、なんというかとても不気味に思えた。
当初はやはり後ろめたいのかもしれないとか、隠れて真実の愛を注ぐものがいるのかもしれない、と考えたこともあった。
だからそれとなく私の家から連れてきた侍女達に調査をさせたこともあったが、たまに娼館に行くことはあっても特定の女が外にいる様子は無い、との事であった。もちろん入れあげている娼婦とかも居なさそうだとも言われた。
では何故私を愛することは無いの? まさか生理的に受け付けないとか? 私に対してだけイ〇ポ?? いや、抱いて欲しいなら抱くとか言われてるしそれは無いか……え、じゃあ本当に何故??
いよいよ頭を抱える私だが、彼は至って普通に私に対して接してくる。というか、愛はないということを除けばむしろいい夫だった。それがますますわからない。
彼は、決定的に何かがおかしかったのだ。
ある日私が体調を崩せば、彼はすぐに医師を呼びつけた。冷え性であるとそっと呟けば、ふーん。とどうでも良さそうに呟いた上で翌日には上質な毛皮のひざ掛けが届けられていた。
夜会のための新しいドレスの用意が必要と言えば、そうなの? と、まるでどうでもいい備品を揃えるかのように私の趣味にぴたりと合う物をすぐに整えてくれる。
「……これ、あなたが手配したのですか?」
「他に誰が?」
「いや、その……それは、そうなのですが……」
「気に入らなかったら別に変えてもらうけど」
あっけらかんと言う彼に、何と返事をすればいいのか、分からない。
愛することはないと言う割にはよく見ているわね?
というか、こちらもあれからずっとこの男のことを注意深く見てはいるが、特段何か変わった様子はその後も無かった。
「そういうわけでは、ないのですが……その……特に夫婦らしいこともしていない割には私の趣味をよく知っているなと……」
「白い結婚とはいえ一番接する機会の多い人物なのだから、それくらいの事は普通分かるものでは?」
「そういう、ものかしら……」
そうやって正論をぶつけられると、より一層彼のことがよく分からなくなる。
つまりこれは単に普段よくいるからどんな人なのかぐらい流石に分かるよ〜、と言う範囲内の事なの??
彼は僅かに首を傾げ、変なの、と独り呟くと、そのまま興味を無くしたようにまた書類との睨めっこを再開する。
そしてそこで私は、ふと、彼が私に限らずそもそも人間に対して興味を持たない人であるのだと言う結論に到着した。
彼の中に、私と言う個が存在していなかったからだ。
その事に気が付いた時、私はそこそこショックを受けた。
それと同時に本当に彼が私を愛するつもりが無いということにも気付いてしまった。
内心少しショックを受けている所に、私の母が体調を崩して寝込んだという話が飛び込んできたのは翌朝のことだった。
その事を話すと、彼はキョトンとした様子で瞬きをすると、こう言った。
「なら何をグズグズしているんだ、早くお見舞いに行きなさい」
「えっ? でも、領の事がありますし……」
「そんな事はどうでもいいだろう。私でもそれくらいの事は出来る」
「ですが、それでは貴方がーー」
「いいかい、ヴァレンティーナ。言い方はアレだが、嫁や旦那なんて物は所詮は他人だし替えが効く。だが親兄弟や子供はそうはいかない。親を優先しなさい」
その言葉の意味を理解するのに、私は一瞬時間を要した。
「替えが……効く……?」
それは、どういう言い草?
「配偶者なんて、仮に離縁したり死別したりしてもまた別の人間と結婚すればそれが新たな嫁や旦那になるだろう? でも父母というものは世界で唯一人しか存在しない。強い言い方をするなら、人を選ばなければ配偶者なんて幾らでも作れるが、血縁者と言うのは居なくなればこの世から絶滅する生き物なんだよ」
絶句する私に彼は続ける。
「これでもし生涯の別れになったらどうするんだい? 君がご両親を憎むような経験をしているなら話は別だが、そうでないのならたった一人しか存在しない存在に対して、後悔するような事は決してやってはいけないよ」
確かに彼の言うように選んだ言葉は色々とアレだが、その発想は今までにした事の無いものだった。
夫は替えがきく。でもお父様やお母様は替えが効かない。情愛と言う考えを抜きにすれば、なるほど確かにそうなのだろう。
貴族として育ち、ずっと領のため家のため、そして嫁いだらそのお家に尽くす事を教え込まれて育てられた私からしたら、彼のこの独特な考えは雷に打たれたような気付きであった。
「そう、ですか。では、そのようにさせて頂きます」
「うんうん。気をつけて行ってくるといい」
そう言うと、彼は再び興味を無くしたように本を手に取ろうとしたところで、あ、お土産は要らないよ。余計なことを考えずに水入らずで過ごしなさい。と付け加えると今度こそ沈黙した。
まあ……替えが効くと言われたのは良くも悪くもショックだったけれども、そう言う事なら、お言葉に甘えてお見舞いに行くとしよう。
そうと決まればということで私はメイドを呼びつけ、その日のうちに領を離れることとなった。
◇
「一つ聞きたいのですが」
ある夜、私はついに告げた。
「うん?」
「……どうして、貴方は私を愛する事がないのですか?」
沈黙が落ちた。
いつも通り、あっさりと回答されると思っていた。けれど彼は、珍しく視線をこちらに向け、静かに呟いた。
「……そうか。そう言えば話してなかったね」
そう言うと、彼は背筋を正した上でこちらに向き合った。
初めての出来事だったので、私も思わず身構える。
「答える前に一つだけ……君は、私を愛してしまったのかい?」
私は答えなかった。ただ、俯いて、沈黙を返した。
彼は苦笑した。そして、小さく呟く。
「愚かだな」
「……はい」
「私はそれを、君に返すことは出来ない。初めに言ったように私が君を愛することは無いからな。まあ、何故と言われるとそれは……私は未だかつて『恋』というものをしたことが無いんだよ」
「え……?」
恋を……したことが無い……?
「ああ、勘違いしないで欲しいが、私は決して人を愛することが出来ない訳ではないんだよ。例えば『友愛』、友や兄弟に対する愛情、あるいは『博愛』、少なくとも我が国民であれば誰にでも分け与えられる愛情、はたまた『敬愛』、父上たる国王陛下や尊敬する剣術の師に対する感情や『性愛』……単純に肉体的に異性を求める感情だって当然ある。だが……『恋愛』、自分以外のものを恋い慕うという感情だけは、昔からただの一度も誰かに対して自覚することは終ぞなかった」
「それ、は……」
「巷では『アロマンティック』と言うらしいな。近年のこうした造語は正直よく分からないが……あえて言えばそれが一番しっくり来る表現だ。恋愛というものが分からないし、生涯掛かっても理解の出来ない物だから興味もなければ、分からないものだから共感のしようもない。そう言う人間なのさ」
そこまで言われて、ようやくこの男のちぐはぐさの理由を理解する。
配偶者なんて別に替わりなんているじゃん、というのは、その人を慕うと言う感情が無いからこそパッと出てくる発想だ。だって他人と婚約という契約をするだけだから。契約を解消しても、また別の人物と新規で基本契約を結ぶという行為でしかないのだ。
「だから正確に言うと、君に対して友愛や親愛なら感じるし、性愛もイけるとは思う。でもじゃあ君のことが好きで好きでしょうがないとか、片時も離れたくないとか、そう言う事は全く思わないし、恐らくは今後も思うことは無い。だから君を愛することは無いという言い方になった」
冷たい言葉ではない。けれど、温かみもまるでない。本当に契約書でも読み上げるような響きに思わず笑ってしまう。
ああ、そういうことなのかと、そこでようやく私は腑に落ちた。
「ありがとうございます。……言われてみれば、私はそもそも恋を求めて嫁いだ訳ではありませんでした。あなたと共に、この国に尽くしたくて来たのです」
「そうか」
そう。
そもそも私は、政略結婚の道具だった。これはただの政略でしかなく、ただのビジネスなのだ。
今までウジウジと考えていた私が、本当に馬鹿馬鹿しい。
愛がなくても、だから何だ。
恋がなくても、それがどうした。
そんな物よりも、尊敬と信頼で結ばれる関係なら、何よりも深いものになる。
それでいいじゃないか。
「私は、愛されなくても構いません。けれど、隣にいてくれるなら、それだけで嬉しいと思います。ですから、正直にそれを私に告げてくれたあなたのその誠実さに、感謝します」
やっと何もかもが理解できたことでスッキリとした。
内心晴れ晴れでいた所で、ふと彼は目を優しく細めて見せた。
「……誠実、か。君はそうやって私を否定しないでいてくれるのは、誠にありがたいものだな」
「否定?」
「多くの者は、私に『普通の男になれ』と望んできた。愛せだの、恋をしろだの、情熱を持てだの。だが君は、私が『愛せない人間』であることを、ただ受け入れてくれる」
現に王位継承争いからはこうして降りているだろう? 異常者に国を任せることは出来ないのさ、と彼は言うと静かに、彼は目を伏せた。
「だからこそ、ありのままを受け入れてくれる君の存在がどれほどの救いで、得がたいものか」
私の胸に、なにかがふわりと降りてきた。それは、ほんの少しの安堵と、答えだった。
私は、愛されないけれど。
彼にとって、私は生まれて初めてありのままの彼を受け入れた人だったのだ。
「ありがとう」
恐らくその役目は、きっと恋愛感情よりも重い物だろう。
◇
それから、私たちは変わっていった。
相変わらず愛の言葉も、情熱的な夜もない。でも、私も彼の好きなものを覚えた。
例えば朝はコーヒーを好み、夜は紅茶を好むとか。実は少しだけ甘党であるとか。
それから、『性愛』の方も向けてもらうようにした。子供ができる前に娼館で妙な物を貰われては堪らないからだ。養子?ナイナイ。
夜は案外イけるじゃん、とは思ったけど、唯一強烈に不満だったのはピロートークが少ない事だ。
そりゃあ、事情を知ってからは仕方ないところもあるのかなぁ……と理解はあるつもりだけれども……分かって無いなぁ!
嘘でもいいから好きとか言いなさいよ! ムード考えて! とか思わなくもないけど……まぁ……どの道子供も無事授かったので、その後性愛は再封印することにした。
別にもうもげても構わないというか、死ぬようなのさえ拾ってこなければ好きにしろと言うか。もちろんこんなこと声に出して言うことは無いけど……
愛人囲ってもいいよと言われた事もあるので私は悠々自適に推し活を始めることにした。いや〜若い男って素晴らしいわ……
とはいえ、私が真に愛するのは夫と子供だろう。
それこそ子供とは替えの効くものではない。私にとっては最優先事項だ。それは彼も同じ意見だろう。替えの効く夫と替えの効かない子という言葉の意味の重みは、私に実際に子供が出来たことでまた違う形で私にのしかかっていた。
そして私は、相も変わらず夫に片思いしている。愛人なんて本当にただ愛でたい時に愛でて私の欲望を満たすだけのどうでもいい他人でしかない。
しかし夫は私にとっては家と言うビジネスをより発展させるために関係を持ち、長期的に戦略的な友好関係を築く存在で、子供という共通した最優先事項を共有するパートナーだ。
「君との関係は私にとって、唯一無二だな。手放す訳には行かない」
いつだったか、彼はそんな言葉を私に投げかけたことがあった。
傍から見ればやっぱり冷たく無機質で、愛なんて欠けらも無い言葉だが、そこには友愛や親愛、敬愛、そして家族への愛が含まれていることを、私は知っている。
恋愛感情は無いだろう。
でも、私は幸せだ。
アロマンティックとは「他人に恋愛感情を持たない人、またその指向」をさす名称です。単語そのものは本来「恋愛的に惹かれないまたはほとんど惹かれない」という意味ですが、基本的には大体前者を指します。
恋愛的な指向の一種なのですが、厳格な定義はなく、アロマンティックというカテゴリに分類される指向であっても、人によってその特徴は大きく異なります。ご注意ください。