■6話 片手挿管
日課の掃除を終えた頃、黒崎先生が珍しく時間通りにやってきた。
「今日のご飯は何かしらー?」
「必要なら、先に連絡してくださいよ」
「じゃあ、あるものを適当に食べるしかないわねー」
ふらっと台所へ向かう黒崎先生を横目に、開店準備を始める。最近は治療院の雑用にもすっかり慣れてきた。
「さて、今日は朝イチの予約がないから、少しのんびりできるな」
レジの中も確認済み。室温は快適、お昼の仕込みも完了している。
「……あっ」
ふと台所に目をやると――
「これ、美味しいわね〜」
「……全部食べちゃったんですか?」
「あったから、いいかなーって」
「そんな……朝からこんなに角煮食べちゃうなんて……」
テーブルには空になった鍋。お昼のために仕込んでおいた角煮が、跡形もなく消え去っていた。
午前中は黒崎先生の患者を4人ほど対応し、気がつけば14時を過ぎていた。
「で、お昼はどうするんですか?」
「素麺でも茹でる〜?」
「角煮の代わりが素麺ですか……」
「もー、好きなもの頼んでいいわよ」
何を頼むか迷っていると、赤木先生がやってきた。
「どうしたの?」
「実は、かくかくしかじかで」
「なるほどね。なら私は寿司とピザ。あと、この辺のサイドメニューも一通り頼んどいて」
「いいんですか?」
「大丈夫よ」
「あれ〜? なんかすごい量きたね」
注文した料理が次々と届き、しばらくして皆がお腹いっぱいになった頃――
「黒崎先生、ごちそうさまでした」
「……何頼んだら昼に1万超えるのよ……」
余った料理は、明日のためにきちんと冷凍しておいた。
「さて、午後の予約は新患さんね」
「今はまだ少し時間があります」
「じゃあ、鍼を打つ練習でもしておきなさい」
「そういえば……鍼を持つのも久しぶりですね」
「卒業してから鍼打った?」
「……家にないので」
赤木先生の視線が突き刺さる。
「じゃあ、鍼と鍼管を持ってきて」
鍼を用意して戻ると、赤木先生は畳んだタオルの前に正座していた。
「貸して」
鍼と鍼管を渡すと、そのまま簡単に説明が始まった。
「まぁ、治療を見てるから大体わかると思うけど、片手で鍼を数本まとめて持って、片手で挿管。それをこのタオルに打つ練習からね」
※挿管とは、鍼を鍼管という細い管に入れることです。片手で鍼管に鍼を挿入することを「片手挿管」といいます。
「学校で片手挿管の試験があったのが懐かしいです」
「こんなことでも試験になるのね」
「みんなブーブー文句言ってましたよ。『こんなの練習して何になるんだ』って」
「こんなことすらできない奴の先なんて、たかが知れてるわよ」
「……まぁ、そうですよね」
「とりあえず、黙って手を動かしなさい」
「はい」
やり方は頭に入っている。けれど――
「遅いわね」
「すぐ慣れるわよー」
10本くらいまではスムーズにできるが、それ以上になるとペースが落ちるのが自分でもわかる。
「まぁ、慣れてきたら実際に人にもやっていきましょう。空き時間にちゃんとやっときなさいよ」
赤木先生はそう言って、満足げに腕を組んだ。
そのとき、待合室のチャイムが鳴った。
「おや、新患さん、少し早く来たみたいね」