第3話 死んだらダメよ
先輩たちとの飲み会から一週間が経過し、なんとか日常をやり過ごしている。
「はぁ……」
明らかにため息が増えた。今までは「これが普通」と自分に言い聞かせていたが、あの人たちは18時には飲み会をしていることを知ってしまった。
「はぁ……」
余計なことを考えないようにして職場へ向かう。思い出すたび、発狂しそうになる。
職場に着き、ふとドアに映る自分の顔を見てしまった。
酷い顔だ。
「はぁ……」
―――
午前の仕事を終え、昼休みに入る。
と言っても、事務仕事や掃除がある。結局、休める時間などない。
「今日は外の掃除やっとけ」
「はい」
一昨日から院長の機嫌が悪い。上から呼び出され、患者数が減っていることで詰められたらしい。
「くそっ……」
とばっちりを避けるように、さっさと外に出る。
ざっ、ざっ……
掃除自体はすぐ終わる。だが中に戻れば、不機嫌な院長が何を言ってくるか分からない。
「あら? 後輩くんじゃない」
顔を上げると赤木さんがいた。
「あ、どうも」
なぜか顔を覗き込まれる。
「……どうしたの?大丈夫?」
「ははは……まあ、いつも通りです」
「そう」
「赤木さんは、これからどこか行くところですか?」
「このあと常連さんの治療と、新患の予約が入ってるの」
「そうなんですね」
ふと院内を見ると、院長がこちらを睨んでいた。
「すみません。院長がこっち見てるので……」
「あー、あれが院長? 余裕のなさそうな顔してるわね」
赤木さんは手を振っている。
「ちょ、煽らないでください。最近ずっと機嫌悪いんで……」
「どうせ、患者が減って上から怒られたんでしょ?」
「……よく分かりましたね」
「雇われ院長なんて、そんなもんよ」
「ははは……」
自分はなぜ、こんなところで働いているのだろう。
技術が身に付くわけでもなく、院長のストレスのはけ口にされるだけの日々。
院長を見ていると、この先もずっと、上に怯える人生が続く気がした。
「ねえ、後輩くん」
「はい」
「死んだらダメよ」
「ははは……」
真っ直ぐな眼差しに、咄嗟に目を逸らしてしまった。
「ダメよ。約束して」
「……はい」
「じゃあ、私はこれから治療だから行くわね」
「あ、頑張ってください」
赤木さんを見送って院内に目を向けると、案の定、院長と目が合った。
掃除をしていても限界がある。しぶしぶ院内へ戻ると、
「お前、なに仕事中にくっちゃべってんだよ」
休憩中なんだけどな……。
だが言い返したところで火に油を注ぐだけだろう。
「給料もらってるくせに、いいご身分だな」
「……」
「こっちはお前みたいなやつを雇ってやってんだ」
「……」
「患者が減ってるのも、お前が治せないからだ。足手まといが」
「……」
毎日こんなに働いて、それでも全部俺のせいなのか。
「……辞めます」
「は?」
「お世話になりました」
「あ? 午後の治療どうすんだよ?」
「もう無理です」
「迷惑考えろよ。常識知らねぇのか?」
「知りません。さようなら」
「これだから最近のガキは! 二度と顔見せんなよ!」
もはや、院長の罵声も何も響かなかった。荷物をまとめて院を出る。
「ちょうど一週間ぶりか」
先週のことを思い出す。赤木さんには「この辺で飲んでるから、いつでも来なさい」と言われていたが、
「さすがに、今はいないか」
赤木さんはこれから治療と言っていたし。
「どうしようかな……」
勢いで辞めたはいいが、やることがない。
「とりあえず家に帰るか」
駅に向かって歩き出す。
どんっ。
「あらー、後輩ちゃんじゃない。前見て歩かないとダメよー」
「あ、黒崎さん。すみません」
「なんだかスッキリした顔してるわねー」
「今さっき、仕事辞めてきたんです」
「あらー、良かったわねぇ」
「で、とりあえず帰ろうとしたらぶつかりました」
「せっかく自由なのに帰っちゃうの? 温泉でも行ってくればー?」
なるほど。平日の今なら空いてるだろう。
「黒崎さんは、これから飲み会ですか?」
「その前に一件だけ治療してからねー。後輩ちゃんはのんびりしてきなさいな」
黒崎さんと別れ、スマホで温泉を調べると、二駅先に温泉施設を見つけた。
「近っ」
近くにこんな場所があることすら知らなかった。
あっという間に現地へ到着し、料金を払う。平日昼はお得な料金設定になっていた。
「ごゆっくりどうぞー」
脱衣所で服を脱ぎ、露天風呂へ。周りを見ると、誰もいない。
湯船に浸かりながら、独り言のように呟く。
「……無職かー」
今までは職を失うのが怖かった。
「でも……まあ、なんとかなるかもな」
リラックスしてくると、少し前向きになれた。
「今後について考えよう」
……とりあえず、前みたいな職場はもう嫌だ。
せっかく鍼灸の資格を取ったんだしな。
でも、今さら未経験の鍼灸師なんて雇ってもらえないよな。
「……鍼灸師かー」
頭に浮かぶのは、先輩たちの顔だった。
「あんなふうに、一瞬で治せるなら、治療も楽しいのかもしれないな」
あの技術、教えてもらえないだろうか。
生活費はバイトでなんとかなる。
隙間時間で修行すれば、今より状況は良くなるかもしれない。
「……そうと決まれば」
思い立ったが吉日、亀張鍼灸院へ向かうことにした。2人ともまだ治療中だろう。
―――
亀張鍼灸院は駅からすぐだ。
あのとき立ちはだかって見えた階段も、今ではなんてことない。
「こんにちはー」
「あら、後輩ちゃん。ゆっくりできたー?」
「はい、黒崎さんのおかげで久しぶりにのんびりできました」
「あら、良かったわねー。で、今日はどうしたのー?」
「実は……」
ここで修行させて欲しいと切り出そうとしたそのとき——
「ありがとうございました! もう痛くないです」
見覚えのある男性がブースから出てきた。
「あ……」
「あ、どうも……」
接骨院で診た患者だった。手をつくと痛いと訴えていた人だ。
「手は治ったので、もう通院しなくて大丈夫ですよ。何かあれば早めに来てくださいね」
赤木さんが受付から声をかける。
「ほんと、簡単な治療もできない人がいるなんて困ったものね」
「……はい」
「無駄に通わせて金儲けしてるところもあるんだから」
男性と目が合った。
「まったく、どんな顔してるのか見てみたいわ」
「すみません。僕です」
「……えっ」
気まずい空気が院内を満たす。
男性が会計を済ませて帰り、残された3人。
「ま、飲みに行きましょー」
黒崎の一声で、また飲み会が始まった。
―――
「ビール3つと、刺身盛り合わせでー」
注文を終えて、アルコールが入る前に伝える。
「修行させてください」
「いきなりねぇ」
「将来を考えた時に、人をちゃんと治せるようになりたいんです。さっきの患者さんみたいに、もう治せないのは嫌で……」
「ふーん」
「でも、従業員の募集はしてないですよね?」
「うん、残念ながらねー」
「なので、生活費はバイトで稼ぐので、修行だけでもさせてもらえませんか?」
「修行ねぇー。どうする赤木ちゃん?」
「本気なの?」
「はい。ぜひお願いします」
「じゃあ、他でバイトはなしで」
「でもそれだと、家賃が払えなくなって……」
「だったら治療院の上に住みなさいな。衣食住は保証するわよ。給料は……まあ、お手当程度になるけどね」
住み込みだなんて予想外の提案だった。
「なぜバイトはダメなんですか?」
「片手間で修行できるほど甘い世界じゃないわよ。やるなら集中してやりなさい」
「そーそー。バイトしてる暇なんかないわよー。その時間は全部、勉強に使いなさい」
「あ、はい……」
こうして、労働基準法などどこ吹く風の、住み込み修行生活が始まったのだった。