第2話 どうして?
「ぜぇ、ぜぇ……」
普段なら10分もかからない距離なのに、負傷した足では30分もかかってしまった。
「……ここなのか?」
目の前には神社に続く長い階段。スマホの地図アプリもここを示している。
それにしても――
「足をケガしてる人に、この階段はきつくない?」
せっかくここまで来たんだし、このまま帰るのも悔しい。階段と格闘すること、約10分。
「……着いた」
「亀張鍼灸院」と看板に書かれている。間違いなさそうだ。
「うーん、怪しい……」
建物は比較的新しく、こまめに掃除されているのか、周囲もきれいだ。しかし、神社の中にぽつんと建ち、人の気配がないことで、妙な怪しさが際立っている。
扉を開けると、院内は薄暗く、その雰囲気をさらに増幅させていた。
「こんにちはー」
返事はない。
「誰かいませんかー?」
鍵が開いていたのだから、誰かいるはずだが――
「今日はもう閉店ですよ」
奥の物陰から声がした。
「すみません。今朝ぶつかった者なんですけど……」
声の方を覗くと、ラフな格好の女性が、バランスボールに乗っている。
「あっ、すみません……」
思わず目をそらす。
「今朝? ぶつかった覚えなんてないけど」
どうやら違う人らしい。
「今朝ぶつかった人に名刺をもらって……黒崎さんという方で……」
「あー、またか。黒崎先生なら、今はいないわよ」
せっかくここまで来たのに、いないらしい。
「足が痛かったらここに来なさいって言われたんです」
「そう。もう閉店だけど、あの人が迷惑かけたなら仕方ないわね」
視線を戻すと、彼女はまだ仰け反ったままだ。
「よっこいしょ」
ゆっくりと身体を起こすと、ようやくちゃんと顔を合わせる。整った顔立ちと鋭い目つきが印象的だった。
「じゃあ、治療しましょうか。足、ね?」
「あ、はい……」
ズボンの裾をめくり、右足を差し出す。
「なるほど。テーピング、自分でやったの?」
「はい。職場が接骨院なので」
「で、まだ痛いんだ?」
「……はい」
「ふーん。じゃあ、テーピング外して」
言われたとおりに外すと、彼女は前屈みになり、足を触り始めた。
「捻ったのね」
「はい。ぶつかった拍子に捻っちゃって……」
「これなら、あれでいいわね」
そう言って奥へ下がると、小さな箱を持って戻ってきた。
「ちょっと痛いわよっと」
ぐきっ
「痛っった!!」
「はいはい。骨は戻したから、あとは、ここ……と、ここ……と、ここに、ぺたっとね」
ものすごい激痛だった。
「はい、おしまい。もう痛くないでしょ?」
「……え?」
半信半疑で立ってみる。
「……痛くない。なんで?」
「捻って骨がズレたまま固定しても痛いままだし、治らないわよ」
「へー」
足を見ると、小さなシールが貼ってある。
「これ、置き鍼ですか?」
「あら、知ってるの?」
「一応、鍼灸師の資格も持ってるので」
「あら? 接骨院って言ってなかった?」
「今年卒業して、そのまま接骨院に就職した感じです」
「鍼灸師の資格取って、わざわざ接骨院に?」
「学校に求人が来てたので……」
「で、ろくに治療もできないと」
「うっ……」
そのとおりなのだが、面と向かって言われるとさすがに凹む。まだ卒業して半年。できなくて当然――そう思いたい。
「どこの学校出たの?」
「○○鍼灸専門学校です」
「あら、私たちと同じじゃない」
先輩だったのか――。
「ただいまー」
知った顔の女性が入ってきた。
「黒崎先生、患者拾ってきたなら自分で面倒見なさいよ」
「あら、ごめーん。まあ、赤木ちゃんなら大した手間じゃないかなーって」
どうやら、治療してくれた女性は赤木さんというらしい。
「それはそれとして……。ああ、朝の子ねー」
「どうも」
「もう問題ないみたいね?」
「はい。おかげさまで」
「黒崎先生、この子、私たちの後輩みたいよ」
「えっ!? 後輩ちゃん? じゃあこのあと暇? よし、飲みに行こう!」
飲みに行くことになった。
「いらっしゃいませー!」
「3人でーす」
「そこのテーブル席、どうぞー!」
テーブルに座るなり――
「よーし、じゃあ後輩ちゃんも生でいいー?」
「大丈夫です」
「生3つと、焼き鳥盛り合わせでー」
「あいよーっ!」
「で、後輩ちゃんは今年卒業した新米鍼灸師なんだね?」
「はい。中川といいます」
「中川ちゃんねー。私は黒崎、こっちは赤木ちゃん」
間延びした声が黒崎さん。
「よろしくね、中川くん」テンション低めなのが赤木さん。
「今は接骨院で働いてるのよね?」
「はい。でも今日、クビになりまして」
「えっ?」
「足が痛くて動けなくて、院長がキレて……その場の流れでクビに」
「……黒崎先生?」
「え、私が悪いのー?」
「でも本当にクビになったかはわからないです。その場のノリかも」
「ひどいわね」
「ははは……」
「顔色も良くないし……中川くん、ちゃんと寝てるの?」
「4時間くらいですかね。休みの日は一日中寝てます」
「普段は何時に帰ってるの?」
「0時くらいです」
「0時!? 後輩ちゃん、すごいわー」
「私なら辞めるわね」
学生時代の就活で、この業界は終電が普通なんだと思い知らされたけど――
「お二人は、普段どうなんですか?」
「いつもこの時間よ。まあ、今日は中川くんの治療したからちょっと遅いけど」
「18時で“遅い”ですか……」
「で、ほとんど毎日、この辺で飲んでるわよー」
忙しすぎて、疲れすぎて、働きだしてから飲みに行くなんて考えたこともなかった。
「いいですね……」
そんなタイミングで、ビールが運ばれてきた。
「とりあえず、乾杯しましょ」
「後輩ちゃんとの、ぶつかり記念日にかんぱーい!」
かんっ
どうでもよくなって、一気に飲み干す。
「いい飲みっぷりねー」
「っはー、久しぶりに飲むと美味いですね!」
「焼き鳥も来たわよー」
「ほら、若いんだからたくさん食べなさい。足りなかったら、好きなもの頼んでいいからね」
「ほらほらー、どうせ普段からろくなもの食べてないんでしょー?」
「あ、ありがとうございます……」
こんな時間からビールが飲めるなんて――
「夢じゃないよな……」
「夢じゃないわよー」
「ついでに、クビ宣告も夢じゃないわよ」
「夢であれ……」
嫌なこと思い出してしまった。
「中川くんは、なんで接骨院に?」
「学校に求人が来てて……」
「でも、求人なんて他にもあったでしょ?」
「まあ、はい」
「鍼灸をやりたくて鍼灸師になったんじゃないの?」
「学校の就職説明会で、周りがどんどん内定決まっていって、焦って。それで受けたら受かって……そのまま働いてる感じですね。求人には“鍼もやる”って書いてましたけど、卒業してから鍼には触ってないです」
「もったいないわねー」
「これからどうするの? 他の接骨院探すの?」
「どうでしょう……とりあえず、明日行ってみてからですね」
「そのまま辞めちゃえばいいのに。いい機会よ」
「いや、無職はちょっと……」
「仕事しなくても死にはしないわよー。ね、赤木ちゃん」
「黒崎さんなんて、基本いまもフラフラしてるようなもんだしね」
「うちでちゃんと働いてるの、白井くんだけよねー」
「白井くん?」
「もうひとりスタッフがいるの。今の時間はお勤め中だからいないけど」
「平日のこんな時間から飲めるのなんて、ろくに働いてない人か、クビになった人くらいよねー!」
声が大きい。店内に響き渡るほどだ。
「そりゃそうだ!」
周囲の客まで賛同し始めた。
久しぶりの楽しい夜は、あっという間に過ぎていった。
「じゃあねー」
「ごちそうさまでした」
「そのへんで飲んでるし、店にもいるから。つらくなったら、いつでも来なさい」
「ありがとうございます」
時刻は21時前。飲んでも、いつもより早く帰れてしまうなんて。
翌日
久しぶりに、ぐっすり眠れた。
目覚めはすっきりしていたが、仕事のことを考えると気分は重い。
重い足取りで職場へ向かい、扉を開ける。まだ9時前だ、誰もいないはず――
「……おはようございます」
「ほう、よく来たな」
院長はもういた。
「昨日みたいな足手まといは、もう許さんぞ」
「はい。ありがとうございます」
とりあえず、クビは回避できたようだ。
「ほら、ぼさっとしてないで働け!」
今日からまた、いつも通りの日常が始まる。
7時起き、9時出勤。0時帰り、1時半就寝。14時間の拘束。休日は寝て終わる。院長にビクビクしながら、治せないまま患者を見送る日々――
……。
昨日は、楽しかったなぁ。