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■第12話 うつ病

「胸のあたりがモヤモヤして……頭もぼーっとして、とにかく苦しいんです。食欲もなくて、薬がないと眠れません」

 患者は初老の女性。小柄な体に沈んだ声。全身から「つらさ」がにじみ出ていた。


 赤木先生はそっと背中に手を当て、やさしくさする。

「うんうん、それはつらいですね。よく頑張って来てくれましたね」


 彼女は少し涙ぐみながら、こくりと頷いた。

「モヤモヤして、理由のわからない不安感も酷いんですね?」


「……そうなんです。助けてください……」


「任せてください。必ず良くなりますよ。まずは、一緒に深呼吸から始めましょうか」

 赤木先生は椅子に座ると、自ら姿勢を正しながら患者に促した。


「呼吸が浅いですね。私の真似をして、姿勢を整えてみましょう」


「……はい」


「そう、そのまま背筋を伸ばして。そして、長く息を吐き切ります。5秒くらいかけて、ゆっくりと」


「はぁ〜……」


「5、4、3、2、1……はい、吸って。今度も5秒かけましょう」


「すぅ〜……」


「5、4、3、2、1。いいですね。しばらく一緒に呼吸を続けましょう。なるべく背中は丸めないでくださいね」


 2人と一緒にやってみる。5秒吸って、5秒吐く。地味で簡単なようで、慣れない人間には案外きつい。


 数分後、赤木先生が優しく問いかけた。

「5秒吸うの、しんどいでしょ?」


「……長いです」


「最終的には7秒を目指しましょう。今は無理でも、少しずつで大丈夫」


「そんなの、とてもとても……」


「現代人は、みんな呼吸が浅いですからね。深く、肋骨ごと動かすようなイメージで」


 赤木先生が笑顔で言うと、患者も少しだけ微笑んだ。


「顔色、少し良くなりましたよ。不安感も、さっきより落ち着いたんじゃないですか?」


「……まあまあ、ですね」


「うんうん。これからもっと楽になりますよ。では、うつ伏せになってください。治療を始めましょう」


 治療後。


「どうですか?」


「背中が……軽いです。モヤモヤは、まだちょっとあるけど……」


「大丈夫。必ず良くなります。まずは3日連続で通ってみてください。必ず変わりますから」


「……わかりました」


 患者が帰ったあと、赤木先生に疑問をぶつけてみた。


「……あんなふうに“治る”って断言してしまって、いいんですか? もし治らなかったらどうするんですか?」


「治すのよ」


「だから、もし治らなかったらって話を……」


「患者さんの立場で考えてみなさい。鍼灸院に来る患者って、藁にもすがる思いで来てるのよ。『治るかわかりませんが、やってみますか?』なんて言われたら、誰が通いたいと思うの?」


「それでも、軽々しく言っていいのか……」


「“治せない時の言い訳”を考える時間があるなら、“治す方法”を考えるの。それが臨床家の仕事よ」


「……」


「大丈夫。治るから安心してください。そう言ってあげないと、治るものも治らないわ」


 納得しかねる部分もある。けれど、その言葉には長年の臨床に裏打ちされた確信があり、「この人ならなんとかしてくれる」というような信頼感があふれていた。


 女性は3日連続で通院し、その後も定期的に通うようになった。


 初診から1ヶ月後。


「昨日は家族で遠出できたの!」


 そのおばあちゃん患者が、明るい声で来院した。


「すごい! どんどん良くなってますね!」


「最近は、睡眠薬を飲まなくても眠れるようになったの」


「言ったでしょ? 必ず良くなるって」


「本当に……先生、ありがとうございます」


 赤木先生は微笑みながら頷いた。


「人間の身体は一定ではなく上下します。もし、なんかおかしいなと思っても不安に感じる必要はありません。みんな同じです。まずは落ち着いて、ゆっくり深呼吸をしてくださいね」


「わかりました」


 夜。居酒屋のカウンターで、中川は感慨深げに言った。


「本当に、良くなってましたね。顔色も良くなって、別人みたいでした」


 赤木先生はグラスを軽く傾けながら答える。


「そうね。臨床を続けていれば、あなたにもできるわ。今回は特に難しい患者ではなかったし」


「そういえば……。白井先生と一緒に診てたの、何か理由があるんですか?」


「あるわ。男性の手で背中をさすってあげること、それ自体が大事なこともあるの。特にああいうタイプの患者さんにはね」


「安心感……ですか?」


「そう。そしてもうひとつ――“いろんな人の目で見ること”も大事なの。見落としがあったら困るでしょ?」


 赤木はさりげなく、しかし真剣に言った。


 臨床の重みは、まだすべて理解できてはいない。

 けれど、目の前で確かに治っていく患者を見ていると、鍼灸の可能性についてポジティブな気持ちがあふれてきた。


「専門学校の先生で、“臨床は苦しい、僕は今まで治せた患者がほとんどいない”って言っていた人がいたんですよね。クラスメイトがそれを聞いて、鍼灸に対して不信感を抱いた人が増えちゃって」


「碌でもないわね。そいつ」


「若い先生で、実習とか研修とかたくさん受けてたみたいです」


「臨床が苦しいなんて、向いてないわよ。だって臨床って楽しいもの」


「先生くらい患者さんを治せれば、楽しいかもしれないですけど」


「難しい患者の方が楽しいわよ」


 そんなことをサラッと言ってしまう先生の姿に、心の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

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