第1話 治らない!
こんにちは
現役の鍼灸師です
この小説は、みなさんにあまり馴染みのないであろう鍼灸院が舞台となっています。
鍼灸院のリアルな空気感も書けたらなと思っています。
医療×人間ドラマ、全13話予定です。
よろしくお願いします。
「今晩はー」
「はいどうもー。少しお待ちくださいね」
時刻は20時55分。最終受付ギリギリだ。ここは駅から徒歩3分の好立地にある接骨院。遅くまで働く人々が、帰宅前に立ち寄っていく。便利なようで、働く側にとっては地獄のような環境だった。
「お待たせしました。こちらのベッドにどうぞ」
患者を案内しながら、ガラス越しに見えた自分の顔に、思わず苦笑いする。クマ。肌荒れ。目の焦点が定まっていない。どう見ても健康とはほど遠い。
患者の準備が整い、いつもの治療が始まった。
「その後の調子はどうですか?」
「うーん、微妙ですね。手をつくと痛いです」
心の中でため息を吐きながら、いつものマニュアル通りに治療を進めていく。だが、治療後の患者の表情は冴えない。
「どうしました?」
「いや……別に」
その曖昧な言葉と浮かない顔に、胸がざわつく。以前、治療方針について院長に相談したことがあった。
「通院してっから良いんだよ。来てくれないと保険の請求ができないだろ?少しは経営についても考えろ!」
——それが返ってきた答えだった。
治療結果より、通院回数が優先される。そんな職場だった。
受付のパートさんは19時で帰ってしまっているので、会計も掃除も、ぜんぶ俺の仕事だ。
「お大事にどうぞー」
最後の患者が帰り、掃除機を持って待合室に出たところで、着替えた院長が言い放つ。
「じゃあ後、やっとけよ」
「……はい」
去っていく背中をぼーっと眺めた後、1人の接骨院で掃除機をかける。「何で俺だけ……」という愚痴は誰にも届かない。
結局帰れるのは23時過ぎ。家まで1時間。そこから風呂、夕飯……そして数時間後にはまたここに戻ってこなければならない。
……院長の出勤は9時10分。
以前電車の遅延で5分遅れたことがあった。
「修行中の身で俺より遅いとか、いいご身分だな? な?」
目覚ましが鳴らなかった。否、鳴っていたのに気づけなかったのかもしれない。いずれにせよ、寝坊だ。
「ヤバいヤバいヤバいっ……!」
シャツを引っつかみ、カバンを片手に駅まで全力疾走。ギリギリ電車に滑り込んだ。この電車に間に合えば、乗り換え次第でなんとか開店5分前には着く。
階段を駆け下り、改札を飛び出し、角を曲がったその瞬間——
どんっ!
「ぐふっ!」
ぶつかった。正面から、勢いよく。
「何よー、もぉ……」
目の前には、背が高い女性がいた。恐らく年上だろう。
「あっ、すいません! 急いでて、本当にごめんなさい!」
謝罪しながら立ち上がろうとしたが——
「いっ……!」
足首に鋭い痛みが走った。ズボンの裾をめくると、すでに腫れている。
「ちょっと、アンタ……勝手にぶつかってきて、怪我して、何なのよー」
何とか壁に手をつき、足を引きずりながら立ち上がる。彼女は無事そうだ。安堵しつつ、再度謝って立ち去ろうとする。
「自分で治すんで、大丈夫です。そこの接骨院で働いてるんで。お姉さんも、もし後から痛みが出たら来てください」
「ふーん。そうなのねー」
「やばっ! 時間!」
時計を見る余裕もなかったが、院長の出社時間が近づいているのは確かだ。痛む足をひきずって歩き出すと、後ろから名刺が差し出された。
「これ、あげる。自分で治せなかったら、来なさいねー」
女性は笑みを浮かべ、名刺を押しつけて去っていった。
「院長先生、おはようございます」
「まだ終わってねぇのかよ。早くしろよ」
「あ、すみません……」
挨拶は文句にすり替えられ、気力を削っていく。
なんとか足首にテーピングとアイシングを施したが——
「……いってぇ」
動かすだけで激痛が走る。働けるような状態ではないが、休めない。
午前中の診療は地獄だった。動きは鈍く、患者を待たせ、院長の怒声が飛ぶ。
そして昼休み——
「お前、もう帰れ」
「え……?」
「邪魔だ。クビな。もう来るな」
「…………えっ?」
目の前が真っ白になった。
院の近くの公園のベンチに座り込み、現実を処理できないまま時間だけが過ぎていく。
「痛ぇ……」
足首の痛みと、心の痛みが重なる。ポケットをまさぐると、あの女性にもらった名刺が出てきた。
『亀張鍼灸院 黒崎麻友』
思い出した。
「自分で治せなかったら来なさいねー」
スマホで住所を調べると、歩いて10分ほどだった。
「……行ってみるか」
痛みを堪えながら次の物語へと向かっていった。