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イエローマダー  作者: 沖 晶
第二章
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第四十五話 「再会」

「この部屋を使ってくれて構わない」


 そう言ってジルに案内された客間で、私と父は隣り合わせに座っている。手渡されたランプを父との間に置き、木でできている二人掛けの長椅子に私は、ただ黙って座っていた。


「少し、痩せたんじゃないか。それにその首の痣は、一体どうしたんだ」


 添わせるように父の手に撫でられた頭から、手のひらの温もりや懐かしい重みを感じる。

 俯いている私に問いかけてきた優しい父の声は、今までのことが嘘のように私を取り囲んでいた緊張や恐怖を、瞬時に溶かしてくれた。

 心細さや死を間近に感じることも、今はない。父が傍にいて、ジルもローザも寸前で助けてくれたのだ。

 ヴェロニカのことも心配だが今は、今だけは自分のためだけに、泣いてもいいだろうか。

 アレックスが抱きしめてくれたときとはまた違う、絶対的な父への安心感によって、私はせりあがってくる涙を止められなくなった。


金髪ブロンド赤毛レッドヘッドの問題は、私たちの想像以上に根が深いようです。私はここへ来て、それを痛感いたしました」

「そうか。では、首の痣も」


 私はこくりと頷き、泣き終わったばかりの熱い瞳で父の顔を見上げる。自身の首に手を当てて、これだけで済んだのは先ほどのローザという女性のおかげでもある、と弱い明かりに難しい顔を照らされた父に言った。


「この痕の人物も、むやみやたらに私を攻撃したわけではありません。先ほどのローザ様も、私が憎いはずなのに命を救っていただきました」


 アレックスが憎しみに任せて私の首を絞めたが、ローザはアレックスに人殺しをさせまいと止めてくれた。

 その結果として私が生きている、と締めくくるにはなにかが引っかかり、私は思案を始めてしまう。

 赤毛は昔から、理性的な人々なのではないだろうか。

 金髪ブロンドに長を殺され、勝てないと判断した母親たちが半狂乱になった長の息子を押さえつけ、みすみす仇を逃がしたのだ。

 悔しいという言葉で足りないほど、唇を強く嚙み締めただろう。怒りに体を震わせながらも、子どもたちを守るために必死でそれを押さえつけただろう。

 私の考えが正しいのなら、心の底から思う。

 なぜ、冷静で頭が良く、仲間思いな赤毛レッドヘッドを傷つけなければならなかったのか。

 自治権だけでなく、赤毛たちから長という支柱を、代々受け継がれていた首飾りという尊厳を奪ってまで、金髪ブロンドはなにがしたかったのか。

 女王イレーネは、本当に桃色の真珠を独占したかっただけだったのだろうか。

 私の仮説では到底及ばない、大きな闇が潜んでいる気がしてならない。


「ヴェロニカのことなんだが……」

「ロニーの心臓が止まりかけている、そうおっしゃってましたわね」


 考えていたことは頭の隅に置いておき、私は父の話に反応を返した。

 ううむ、とため息交じりに私から目を逸らせた父は、膝の上で手を組み合わせて考え込んでいる。なにをどう伝えればいいのか悩んでいる父に、私は病状がどうなっているのかと問うた。


「あの医者はとても良くしてくれた。頻繁に部屋へ顔を出してはヴェロニカの様子を見に来ていたし、薬も効かないとわかれば、また違う薬を作ってくれていたんだ。だが……、どれも効果が見えなくてな」


 私を見送った後、ヴェロニカの容体はますます悪くなり、昨日、ついに流動食をも口にしなかった。顔つきがほとんど死人と変わらないヴェロニカは、どれだけ揺さぶろうとも目を開かない。

 頬がえぐれるようにこけ落ち、小麦色の肌が土気色に染まり、潤っていた唇はひび割れ、かろうじて開いていた目は、高熱によって視線が絶えず動く。だが、もはやその瞼が持ち上げられることはなく、今に至る。

 はあ、とため息をついた父は、私を一瞥もせずに俯いたまま黙ってしまった。

 私の働き出していた思考は、父の言葉によって止まり、父の言葉だけが頭の中を漂っている。

 食事も取れず、高熱が収まることもなく、衰弱しているヴェロニカを知った私は、これは夢かと疑った。


 ……痛い。


 手の甲をつまみ、痛みを感じたことに力が抜けて長椅子の背にもたれかかり、夢であってほしかったと真っ白な頭で考える。

 母であるヴェロニカを失ってしまう、と理解していても受け入れることはできない。


「治療を続けて、ロニーは助かりますの。医者は、匙を投げたのですか」


 背もたれから上体を起こし、父の二の腕を後ろから鷲掴みにして八つ当たりのように問いかけると、父はおずおずと答えた。


「治療を続けても、薬が効かなければ意味がない。……あの医者は、呪いのようだと言っていたよ」

「呪い、ですか」

「ああ。生命に憑りつき、食い荒らしている。思い当たる病ならば、知り得る限りの薬を飲ませているのに、なにも効果が見えない。もはやこれは呪いだ、と」


 山の麓にいる女の医者にヴェロニカのことを頼むと決めたとき、経験豊富そうだと父は言っていた。落ち着きがあり、冷静さもあった、と。

 その医者が医学の観点ではなく、現実ではありえない呪いという言葉を口にするなど、ヴェロニカの体には一体、なにが起こっているのだろうか。

 薬を変えても効果がなく、実際にヴェロニカの容体の悪化は凄まじい速度。原因のわからない病を、呪いだと捉えてもおかしくはない。


「だから、私はここへ来たんだ」


 だから、とはどういうことか。

 視線を下げて顔を一切こちらへ向けなかった父が、横顔を見つめていた私へと体をずらし、見つめ返してくる。

 私は腕を掴んでいた手を放し、自身の膝の上に置いて父の言葉を待った。


「赤毛の医者ならば病を、あるいは呪いを解くすべがあるかもしれないと思ったんだ」


 怪訝な表情をしている私に、父は硬い表情で言う。

 父は希望がこの村に、赤毛にしか残されていないと言いたいのだろう。

 だが、それはどうだろうか。

 確かにあのお方、り神様、と呼ばれる巨獣が行った治癒は素晴らしい、という言葉では表せないほどのものだった。


 神々しく、凄まじい力だった。


 けれども、果たしてヴェロニカの病、あるいは呪いを巨獣が治癒できるものなのだろうか。

 治療できるのなら、なぜロシェルが痴呆症を患ったままなのか。それは肉体的な治癒のみに限られる、と巨獣の能力を表しているのではないのか。

 絡め合っていた視線を、私は下に置いてあるランプへと落とした。


「期待は、できませんわ。先ほどの青年はお医者様ですが、彼の母は痴呆症を患ったまま。ロニーの病、もしくは呪いを解くことは……」


 ロシェルの痴呆症をジルにも治せず、巨獣が治癒を施していないなら、ヴェロニカはこのまま死へ向かうしかない。

 言い終わらないうちに、体の内側が石のように動かなくなっていくのがわかる。なにもしていない私が、今更できることもない。ヴェロニカに迫る死を遠ざけることもできない現状に、私は心を閉ざして項垂れることしかできず、もはや自身に呆れかえる。

 どれだけ医学に造詣ぞうけいが深くとも、私は医者ではない。ジルが赤毛だと、医者だと言っても、痴呆症は不治の病。きっと麓の医者と同じく、ヴェロニカの病も治せはしないだろう。

 頼みの綱も、私にできることもないのならせめて、私は母の傍にいたい。

 諦念と自身への呆れに心が麻痺していても、母を想う気持ちと寂しさだけが、今の私を支えている。


「そうか……。ニール様という方は、あのお方、という人物に取り次いでみようとは言ってくれたが、お前がそう言うのであれば、もう」


 右上から降ってくる父の暗い声に、自身の膝に置いた手を見つめながら静かに頷いた。

 そして、自身の願いを口に出す。断ることはないと知りながらも、遠慮がちな言い方になってしまった。


「私、ロニーの傍にいたいですわ。……ねえ、お父様」

「ああ、わかっているさ。そのときが来る前に、手を握ってやりたいんだろう」


 甘えるような言い方をする私の頭を撫で、父はより優しい声音で承諾してくれる。

 父の言葉に頷きながらも、胸の中では違うことを思い描いていた。

 髪に触れ、頬を撫で、横になっていてもいいから、抱きしめたい。侍女と王女という関係ではなくなった今、母に甘える娘として、ヴェロニカに触れたい。


「医者の話では、明日がヴェロニカの限界だろうと言っていた。私がうまく伝えて医者を部屋から遠ざけ、三人でいよう」


 ゆっくりと父が立ち上がり、私の左手を握る。

 顔を上げれば、悲しさを散りばめた父が無理に笑顔を作っていた。ああ、父も悲しいのだなと他人事のように感じながら、私も立ち上がる。差し出された父の大きな分厚い手を握り、歩き出した父の後をついていった。


「お待たせ様。……もうこの村は嵐の中だ。出かけるのなら、明日にしたほうがいい」


 丸い盆の上に湯飲みを二つ乗せたジルが、出て行こうとしていた私たちに止めておけ、と暗に伝えてくる。だが、こちらはやめるわけにはいかない。

 今すぐにでもヴェロニカの傍に行かなければ、私たちが着く前に息を引き取る可能性も、十分にあり得る。


「なんのお礼もなく申し訳ありませんが、これで私どもは失礼いたします」

「この嵐の中、山のこともよく知らないあなたたちが今、外に出るのは危ない。雪の中に自分たちの亡骸を埋めに行くようなものだ」


 首を振るジルの言葉に父は返答せず、するりと私の手を離した。


 お父様?


 離された手で父の袖をくい、と引っ張る。どうしたのか、行かないのか、そういった意味が伝わっていないようで、父はなんの反応も示さない。


「お茶が冷めてしまう。温かいうちに飲んで欲しい」

「……ああ。頂こう、レベッカ」


 かあっ、と頭に血が上り、耳が熱くなった。

 父に小言を言うことはあっても、体が熱くなるほど怒りが込み上げたことは一度もなかった。

 そのせいか、先ほどまで動かなかった心が油に火をつけたように動き出し、怒りを留める術を知らない私は、勢いのままに父に向って声を張り上げる。


「なにを言ってらっしゃるの! こうしてぐずぐずしている間にも、ロニーが死んでしまうかもしれないのですよ。そこを退いてくださいまし!」


 冷静でなくなった私は渾身の力で体躯の良い父を押し退けたが、痛む喉からまた血が上り、何度か咳き込んだ。

 私の手には橙色の血が飛び散るも、それを握りこぶしの中に隠し、扉の前に立ちふさがるジルにも食ってかかる。


「ベッキー……」

「私はこの山を一人で登って来たのです。下山も容易いはず」


 後ろから私を呼ぶ父にも、目の前に立ちはだかるジルにも言い放つ。

 けれども、無表情で私を見つめるジルは閉口し、体も口も動かさない。

 まるで馬鹿を眺めているようなジルの瞳に我慢ならなくなった私は、ジルの持つ丸い盆に乗せられた湯飲みを持ち、一気に飲み干した。


「ご馳走様でございました」


 舌と喉を火傷し、熱い茶が胃の中に落ちていく。痛みに顔を歪めながらもジルへと感謝を告げ、脇を通り過ぎようとして腕を掴まれた。

 誰が掴んでいるのかは明白だ。ごつごつとして大きく、温かいこの手のひらの持ち主は。


「お父様」

「ベッキー、わかってくれ。確かにヴェロニカはお前の母代わりだ。だが、私の娘に代わりなどいない。お前がヴェロニカを想う気持ちは痛い程わかっているが、私から娘を奪わないでくれ」


 しぼんでいく花のように弱々しい声とは反対に、私の前腕は振りほどけない程の強い力で掴まれている。


 私には、大切な人が二人いる。

 ヴェロニカと、父だ。

 父から願い事をされるなど滅多になく、その度に私は抱きしめたり、目の前で踊ったり、色んな言われた願い事を叶えてきた。

 そして今、私はこの場から動けない。根が張ったように足を動かせず、先ほどまでの怒りが急速に冷えていく。


「父親に止められている今のうちに、君は考え直した方が良い」

「お医者様は他人事だからそう言えるのですよ。私はなんとしてでも母の元へ行きたいのです」


 きっ、と睨みつける私の目に、ジルの無表情が怒りの含んだものに変わっていくのが映る。

 眉根を寄せたジルは、私を真っ直ぐに見つめながら低い声を出した。


「……僕は医者だ。医者が嫌うものは二つある。一つは命を奪う者、二つ目は自ら命を捨てる者。僕は、命を大切に思わない者が大嫌いだ」


 ロシェルの夫として演じていたときとはまた違う、ジル本人としての憤りの声だった。怒鳴るのではなく、静かなる怒りを私へ向けるジルを前に、私は一歩も引かないつもりでいる。

 我が身をどうしようと、私の勝手ではないか。

 言い返そうとしてジルの顔を見上げていると、ぐらりと視界が歪みだし、立っている足に力が入らなくなる。


「僕が君の母親を診よう。だから……、また朝に」


 かくん、と膝から崩れ落ちる私の上から、元の優しいジルの声が降って来る。それからなにも聞こえず、私は眠らされたことも理解できずに意識を手放した。




 また、あの場所に来ている。

 色鮮やかな花、小さく淡い色の花。大小さまざまな花が足元に何百、何千と咲き誇る草原を、私はまた眺めている。

 違うのは、赤毛の青年と最後に話した小川の隣に立っているということ。


「妹に会ってくれたみたいだな」


 後ろから聞こえた声に振り返ると、あの時の青年がこちらに歩いてきている。私の片腕の幅しかない小川を挟んだ向こう側に、私と対面する形で辿り着いた青年はよっ、と軽い掛け声とともに川を飛び越えて私の隣へやってきた。


「すまなかった」


 ぼうっと赤毛の青年を眺めていた私に、青年も私を見つめてぽつりと零した。

 初めて会ったときと変わらない。

 優しいそよ風が吹き、さわさわと草や花々が体を擦り合う音が聞こえ、目の前には背の高い赤毛の青年。

 けれども、あのときの私とは心情と状況が異なり、私は上手く言葉を発せられない。

 あの頃は目が見えていなくとも、王族という名の庇護の元、実母との軋轢もなく平和だった。だから花を見て綺麗だと思い、見たことのなかった川に興味を持ち、きちんとしなければと青年へ姿勢を正していた。

 だが、今では花々も、川の中を泳ぐ小さな魚も色褪せて見え、しゃんとする気持ちは城に置いてきてしまった。

 今の私は王女でもなく、ただの少女レベッカになったはずなのだ。だが、王家の姿形をした私が赤毛の仲間になれるわけなく、城に戻れるわけでもない私の居場所は、この世界のどこにもない。

 そういった現状からくる自信の無さ、何もできないという無力さに、私の心は乾ききっている。


「お前の気持ちはわかっている。三度も生命の危機に晒されるという恐怖や、いつも疑りの目を向けられること。心休まる場所がなく、感情に鍵をかけるしかないのは、仕方のないことだ」


 私の行動を見ていたのかと思うほど、青年はこれまでの出来事を言ってのける。眉間にしわを寄せ、葛藤しているようにも見える青年は、本当に何者なのだろうか。


「だが、俺たちは栗毛ブルネットと赤毛には寛容だ。お前に赤毛の血が流れていると周知したなら、徐々にでも馴染める」

「……それだけでは、駄目なのです」


 遠くを見つめていた青年の横顔がこちらに向き、疑問の視線を私にぶつける。

 確かに私は赤毛との間に生まれた父を持ち、ニールと巨獣は祖父の名を言ったとき、懐かしんでいるようだった。

 父は白金色の髪を持つとはいえ、空色の瞳を持っている。

 赤毛を間近に見ることのできた今だからこそわかることは、父は栗毛ブルネットの祖母ではなく赤毛レッドヘッドである祖父、セドリックの影響を大きく受けた子なのだ。

 私よりも父の方が受け入れられやすく、きっと赤毛に馴染めるだろう。

 大して私は、黄金色の髪と王族の証である翡翠色の瞳を実母から受け継ぎ、その姿はどうしようもないほど王女だ。

 そんな私が馴染めることは、きっとない。


「育ての母が、山の麓で命を落としかけているのです。私は父も、育ての母も失いたくありません……」


 だが、赤毛の中に馴染めなくとも、ヴェロニカがいれば努力することを諦めないだろう。私の理解者であるヴェロニカがいれば、馴染んでいってしまう父を妬ましく思ことはない。

 母であるヴェロニカがいなければ、私の指針はなくなり、安心できる場所が一つなくなってしまう。

 これからどう生きるかを、相談することもできないのは、離れている今でさえ怖い。

 子どものようなことを思う自身が恥ずかしくなり、私は青年から足元へ視線を下げた。


「恐ろしいのだろう。その気持ちは、よくわかる」


 はっと顔を上げた私に、青年はとても柔らかい表情を向けている。

 そうだ。

 青年とアレックスは兄弟。そして、アレックスは母と兄が村から出て行き、気がふれたと、耐えられなかったと言ってた。


 アレックス様も、寂しいのだわ。


「俺は母を亡くしたわけではないが、母がいない家の中は怖かった。それは鮮明に覚えている」

「……アレックス様はお母様だけでなくあなたをも失い、今でもずっと、あなたのお帰りを待っていらっしゃいます」


 薄く微笑んでいた青年は、アレックスの名前を出した途端に、そうなのか、と決まりが悪そうな顔をして小さく呟いた。

 私とエリザベスが話す時間はなく、青年の話題が出たのはアレックスに兄はどんな人だった、という私がした質問の返答からのみ。

 気まずい、という顔をした青年は、妹であるエリザベスのことばかり気にかけて、アレックスがどう思っていたかを知らなかったのだろうか。

 ならば、どうしてアレックスの背後で、この青年が見えたのか。


「あなたは」

「お前の母のことだが」


 私の言葉にわざと言葉を被せてきた青年は、前を向いてまた遠くを眺める。


「安心するといい」




 すっと意識が浮上して、私は瞼を持ち上げた。

 自室のベッドではない。かといってニールに貸してもらった部屋でもない。


「ロニー……、ロニー!」


 昨夜の出来事が蘇り、飛び起きた私は布団が足に絡まって床へ落ちてしまった。打ち付けた頭を押さえながら、自身が寝かされていた場所を見る。

 私が落ちたのは、脚が六本ついているベッドからだった。

 床に布団を敷いて寝ていたニールの家ではなく、ここはジルの家の一室か。ロッキングチェアといい、このベッドといい、ランプといい、なぜこんなにも。


 違う、こんなことを考えている場合では。


 足に纏わりついた布団から抜け出して、どたばたと足音を響かせながら部屋の出口である扉を横に引いた。


「やあ、起きたか」

「おはよう、ベッキー」


 竈の前で屈み込んでいたジルが立ち上がり、父は薪を胸の前に抱えて薪部屋から現れ、それぞれが朗らかに私へ挨拶をする。

 だが、朝の挨拶を返すどころではない。

 寝かされていた部屋の板で出来た窓の隙間からも、立っているジルの奥側にも押し出すように開かれた窓からも、白い雪から反射した陽光が入ってきている。


 ロニー。


 私は一目散に玄関へと走っていく。

 父は医者から、明日がヴェロニカの限界だろうと聞いていたのだ。そして、もう私はその明日という時間の中にいる。

 間に合わないかもしれない、もうすでに手遅れかもしれない。


 急がなくては。


 踵のない靴を履くことも忘れ、私はざらついた地面に飛び降りたが、ころんころん、という薪の落ちる音とともに体がさっと宙に浮いた。


「はな、離してくださいまし! お父様!」

「大丈夫だ、ベッキー」

「なにも大丈夫ではありませんわ! 手を……っ」


 自身が地面に落ちようと構わない。必死の思いで私を抱きしめている父の手を叩くも、父は痛がる様子もなく、手はびくともしなかった。

 私を抱えたまま父は床へと靴を脱いで上がり、私が寝ていた部屋を通り過ぎて、二階へと階段を上がっていく。


「ジル君が言っていたように、ヴェロニカを診てくれた」


 父の優しい声色で告げられた言葉を聞いて、もがいていた私の体の動きが止まる。とんとん、と階段をゆっくりと上る父は、暴れなくなった私を二階の部屋に繋がる廊下に下ろした。


「ヴェロニカの高熱の原因は、病や呪いではなく、先祖返りのようなものらしい」


 呆ける私の手をゆっくりと引く父は微笑み、廊下を進んでいく。伸びていた髭を当たったのか、成人の日に見たときのように父の雪のような肌が見え、伸びた髪を頭の後ろで結っている。


「今は熱もなく、安静にさせている。ジル君には今後、頭が上がらないな」


 着いた場所は、廊下の最奥にある右側の部屋。唇の前に人差し指を立てた父は、音を立てないように扉を開き、私を部屋の中へ連れて行く。

 父が体をずらせた後ろに。


 ロニー!


 声が出ないほど安堵し、私の視界は涙でゆらゆらと揺れる。

 ベッドに寝かされ、静かな寝息を立てるヴェロニカに安心し、私は一歩、また一歩と近づいた。布団から出ている顔は土気色、頬もこけてしまっている。けれども、高熱がなくなったためか、呼吸も落ち着き、苦しいといった表情ではない。

 私はさら、とヴェロニカの髪を撫で、小麦色の首に指先を当てる。


 とく、とく、とく。


 ゆっくりと、けれども確実にヴェロニカの拍動を感じて、私の頬を涙が滑り落ちて行った。

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