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イエローマダー  作者: 沖 晶
第二章
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第四十四話 「安否」

 凍えるほどの冷たい水に歪んだ視界の中、息のできない苦しさに私は死を目の当たりにした。


 恐ろしい。苦しい。ジルの助けもなく、ロシェルが作り上げた水の牢獄が崩れることもない。

 苦しさが半減すると同時に、必死に動かしていた体から力が抜けていく。意識が遠のいていく感覚に、判断を誤ったことを後悔した。

 ロシェルが痴呆症を患っているからと油断し、私を取り囲んだ水の壁に圧倒され、貸してもらっている服を濡らすことを躊躇したために、罠にかかった獣のようにその場から動けなくなった。

 そして、ヴェロニカの生死を聞くこともできないまま、私の命は尽きかけている。


 ロニー……。そちらにいるのなら、今、向かうわ。


 落ちてくる瞼が視界を遮ったそのとき、強い力で脱力している腕を引かれた。


「う……」


 水の中から引きずり出された私の体に、べったりと張り付いた服の重みに耐えきれず、手をついて前かがみになり、そのまま胃にあるものを床へと吐き散らした。


「そのまま、止めないで。収まるまでいくらでも吐いていい」


 耳にも水が入り込んでいるためか、ぼやけたジルの声が聞こえる。優しく背中を上下にさすられ、私は嘔吐と息継ぎを何度も繰り返した。

 咳き込み、嘔吐し、息を吸えば胃液と水が上ってくる。

 ようやく吐き気が収まった頃には、唾液を飲み込むだけで喉を焼かれたようにかっかっと痛み、体は小刻みに震え、鼻先を伝って落ちていく涙がぽろぽろと吐瀉物に吸い込まれていく。


「大丈夫か」


 知らぬ間に詰まりの取れていた耳に、ジルの嗄声が響いた。こくこくと床を見ながら頷き、口から滴るねっとりとした唾液を手の甲で拭ったが、荒くなった息遣いが戻らず体の震えも収まらない。

 意識がはっきりしてくると、先ほどからジルしか話していないことに気がついた。

 ロシェルの攻撃からジルが守ってくれたようだが、それでも次の水が押し寄せるのではないか、と私は途端に恐ろしくなる。

 ついていた手を離してゆっくりと上半身を起こし、暗くなった部屋の中にいるはずのロシェルを探す私に、床に置かれたランプの光が居場所を教えてくれた。


「ロシ……様……」


 ロッキングチェアに腰かけた、ロシェルの冷淡な横顔を見つめる。嘔吐と咳を繰り返したため、掠れた私の声はほとんど息を吐いただけの小さな音。

 その小さな音を拾ったのか、ゆっくりと瞬きをしたロシェルが私の方へと顔を傾け、左側だけがランプの明かりに照らされる。

 城の聖堂で見た祖父や母と同じ、温かさの欠片もない疑りのこもった瞳に、体の奥が冷えた。


「レイ様じゃないのだとか。ですが、金髪ブロンドであるということは、あなたは王女でしょう」


 高い位置から私を見降ろすロシェルの質問に、居心地の悪さを感じながらも私は小さく頷いた。


「その金髪、その瞳。違うとは言い逃れできないでしょうね。どのみち、私たちを脅かす人であることに変わりない。すでに城へと村のことを伝えさせている可能性も……」

「ち、違います! 私は、私は逃げてきたのです」


 慌てて弁解しようと出した言葉に、ロシェルは目を細める。

 嘘だ、そう聞こえてきそうな視線に焦りを覚え、私はたじろぎながら待ってくれているロシェルに現状を話した。


 自身の祖父が赤毛レッドヘッドの村民だったこと。

 能力を発現させたことで、城で命を失いかけたこと。

 夢に出てきた赤毛の青年が伝えてくれた手がかりを、考え、仮説を立て、ここへ辿り着いたこと。


 時折咳き込みながらする私の話は、息も切れ切れで、断片的な文章だった。だが、ロシェルは黙って耳を傾け、口を挟むことはない。


 話を聞いてくださっている。はやく、きちんと伝えなければ。


 考える頭も言いたいこともまとまらない中、私は話し続けた。


「ですから、私は赤毛の皆様に危害を加えるつもりはないのです。私は皆様を傷つけた金髪ブロンドの血を引く者ですが、断じて、私は誰かを陥れようなどとは……」


 げほ。


 ぐっと喉に力が入り、言葉を詰まらせた私は、俯いて口に手を当てた。咳とともにぬるい液体が、ぴちゃりと手のひらに飛び、得体の知れないそれを見るために口から手を離す。

 薄い橙色をした血が手のひらの中央から、親指の付け根までしぶきとなって散っていた。

 あ、と驚き、ざわざわと心が騒ぎ立てる。

 まずいのではないか、このまま話し続ければ声を出せなくなってしまうのではないか。

 私はそれらを手のひらに乗っている血しぶきとともに握り潰し、怖がる自身を頭を振って追い出した。

 喉から血が出たからといって、それに構ってなどいられない。握りこぶしを膝に置いて前を向いた私に、ジルがやめろとそれを制した。


「もう話さない方がいい。濡れた体を温めないと、君は凍え死ぬ」


 右隣で私の背中を撫でてくれていたはずのジルが、手拭いやら服やらを抱えて左側に立っている。


「母さん、もういいだろう」

「……そうね」


 ため息交じりにジルへ同意したロシェルが左手を軽く上げ、人差し指で空に円を描いた。次の瞬間、体がふわりと軽くなり、水が滴っていた服がどんどんと乾いていく。冷えて寒さに力んでいた体が解れ、髪からも水分が抜けていき、肌だけがしっとりと濡れている。

 私から取り外された水は頭上を漂い、また跳ねるようにロシェルへと向かっていった。はあ、と大きなため息をついたロシェルの後ろを通り過ぎ、開いている窓から外へと出た水は、横に長い棒のような形になる。

 さあ、と揺れていた水の棒から粒が落ち、窓の外で小さな雨が降った。分厚い雲はなく、少しすればやんでしまうような弱い雨。

 じっと見入っていた私の頭に、さらりと広げられた手拭いがかけられた。なんだと上を見れば、屈み込んだジルが私の頭をごしごし、と豪快に拭いてくれる。

 嬉しいような、恥ずかしいような、複雑な気持ちに顔が熱くなるが、視界の端にぐったりと頭を下げ、今にも床に倒れ込んでしまいそうなロシェルが映った。


「ロシェル様!」


 私は喉が痛むことなどお構いなしに叫び、それに反応したジルが短い距離を走る。あわや頭をぶつけてしまうかとはらはらしたが、ロシェルの肩をジルが優しく押し、事故には至らなかった。


 良かった……。


 叫んだことで再度喉が痛んだが、喉を冷えた手で押さえながら私はほっと息をつく。


「着替えはそこに置いている。着方はわかるだろう。少し待っていてくれ」


 アレックスが私を運んだときとは違い、ジルはロシェルの膝裏に腕を入れて持ち上げ、赤子のようにロシェルを抱きかかえて、階段をゆっくりと上っていく。

 それを見送り、私は肌の水分を吸い上げて少し濡れている服を脱いだ。


 大丈夫かしら。きっと、無理をなさったのだわ。


 日々記憶を忘れていくロシェルが、僅かな昔の記憶を取り戻し、生活を始めようとしたときに、私がいた。

 ロシェルは私を見て怯え、そして何を思ったのか、私を殺そうとしていた。なぜ私の命を奪うという結論に至ったのか、なぜジルに母ではないと言ったのか。

 私には理解できないこと、知らないことが町だけでなく、この村にも溢れている。

 頭に被せられていた手拭いで肌を拭き、ジルの持ってきてくれていた新しい服に袖を通しながら、答えのない疑問や少しの恐れに頭が支配される。


 窓を閉めないと。


 考えても仕方がないことに蓋をして、私はロッキングチェアの後ろに立ち、板窓を外側に押し出しておくための突っ張り棒を外した。軽くはない板窓を閉めようと、支えていた手の横に小さな雪が舞い込んでくる。

 もう、夜が来ていた。




「すまなかった」


 ろうそくを乗せた皿を手に持ち、階段を下りてきたジルが私の元にやってくる。冷えた空気に体が耐え切れず、私は唯一温かさを感じられるランプに身を寄せていた。


「いえ」


 私が首を振ると、ジルがふわりと私の肩にショールのようなものをかけてくれた。軽く、温かく、葉のような香りが鼻に届く。

 成人の日に初めて出会った父方の祖母がくれたものよりも、使い込まれたそれは柔らかい。手に触れる柔らかさに、思わず私は布に頬ずりをした。

 命を失いかける恐怖に、私の精神は安心できるものを求めているのかもしれない。顔を俯かせて布の手触りや香りを堪能し、鼻を通り過ぎるその爽やかで青い香りに、私はとても癒された。


「この家にも囲炉裏があったんだが、母がああなってしまってからは無くしてしまった。僕のものですまないが、それで凌いでくれ」

「ありがとうございます」


 ジルの心配りに礼を言い、少々遅れて気が付いた。


 なんて恥ずかしい……。


 この葉のような爽やかな香りは、持ち主であるジルのものということ。

 柔らかいものに安心を覚えるだけでも赤子のようなのに、加えてジルの香りを胸いっぱいに嗅いでいた自身の行動。

 アレックスの腕の中も安心できたが、涙と鼻水で香りはよく覚えていない。知らず知らずのうちに、ジルの香りに安心感を覚えていたことに、羞恥で顔が茹ってしまいそうだ。

 熱くなった頬に自身の手をあてがい、私は早く顔から熱を逃がそうとする。


 とんとん。


 後ろから玄関の戸を叩くが聞こえ、ジルと私は勢いよくそちらを見やった。まだ吹雪いていなかったはずだが、折れた小枝が転がって来たのだろうか。

 屈んで私と話していたジルが立ち上がり、玄関へ歩いていく。私は引き止めるわけにもいかず、けれども傍に誰もいないことに不安が募った。

 床から一段下りたジルが、あと数歩で玄関の戸に手が届くというところで、玄関の扉が横に引かれた。


「ローザ」


 ジルが発した名前に、私の顔が強張る。

 山を登って来ていた男が、栗毛に扮していた父だったのか、それとも本当にただの栗毛ブルネットだったのか。ローザはそれを、私へ伝えに来たはずだ。

 忘れかけていた不安がぶり返し、すう、と温度が体から離れていく。熱くなっていた頬も耳も、嘘のように冷える。胃にあったものは全て吐き戻したというのに、淡い吐き気がぐるぐると腹の中で動き回り、私は口に手を当てた。


 お願い。


 玄関から、事実から目を逸らし、瞼を強く閉じる。父ではないことを祈る私の耳に、懐かしい声が入ってきてしまった。


「ベッキー」


 この世で唯一、私をベッキーと呼ぶ人物。

 顔を上げれば、髭も髪の毛も伸びて、少しやつれたような顔をろうそくの弱い火に照らされた、父が立っていた。

 こんなにも嬉しくない再会は、今までの私ならあり得ない。

 贈り物とともに帰ってきた父の笑顔が、なにより大好きだったのに。こんなのはあんまりだと、私にはせりあがってきた涙を止められない。


「お父様……」

「ベッキー」


 ぎい、ぎい、と立派な体躯の父が床を鳴らし歩いて、私の元までやって来る。けれども私は動けない。ぬるい涙が溢れ、顔を覆う手のひらが濡れる。

 鼻をすすり上げる私を、父の大きな体がすっぽりと包み隠した。


「心細かっただろう。すまなかったな」


 私はふるふると頭を振り、ヴェロニカのことが悲しいのだと言いたくとも、言葉ではなく嗚咽となって口から出て行ってしまう。


「ろ、ロニーは、死んでしまったのですか」


 しゃくりあげながらも、ようやく出せた私の言葉に父からの反応が聞こえず、手から顔をはがすように持ち上げた。

 父は、緩く首を振る。私は父の否定に希望を見たが、次の言葉でそれは瞬時に雲隠れしてしまった。


「死んでいない。だが、病に命を吸われて、いつ心臓が止まってもおかしくはない、と……」

「そんな……」


 生きているだけで精一杯、今にも命を手放しかけている、などと聞いては居てもたってもいられない。

 父の顎先を髪でかすりながら立ち上がって目を凝らし、ジルが玄関でなにやらローザと話しているのを見て、そちらへと駆け出した。


「ローザ様!」


 裸足のままジルの隣に並び、発するつもりだった次の言葉が消える。


「なんだ」

「ど、どうされたのですか」


 右手と首に包帯が巻かれており、その痛々しい姿に私は愕然とした。あの強いローザが傷つけられたのか、大きな獣でも出たのだろうか。


「お前には関係ない。きちんと父親と話をしろ」

「い、いえ! あの、ニール様はもうお休みに?」

「まだだ。だが、疲れたとおっしゃっていた。用があるなら明日にしろ」


 朝に、とジルに軽く手を上げ、くるりと背を向けるローザ。その背中を追いかけようと一歩踏み出す前に、父にふわりと抱き上げられてしまった。


「お父様、下ろしてくださいまし!」

「レベッカ、話はまだ終わっていない。ローザさんの言う通り、私の話を聞きなさい」


 でも、と私が食い下がろうとしたとき、ジルが扉をがらがらと大きな音をさせて閉める。


「レベッカ」


 ジルが、私の名前を呼んだ。

 どきりとして、父の手から逃れようと暴れていた体の動きが止まり、柔らかな嗄声に頭が真っ白になる。

 ゆっくりと移動した父が冷たい板の床に私を立たせ、父も私の隣へ上がった。ジルだけが地面に立ち、吊るされたろうそくの火に浮かび上がったその顔は、この家に入る前に見たときと同じ微笑み。

 ジルは私と父を通り過ぎて床に上がり、私が走った際に落とした布を手にし、私の目の前で立ち止まる。


「気持ちが落ち着くお茶を淹れる。それを飲みながら、ゆっくりと話した方が良い」

「……はい」


 もう一度、ジルの手によって私の肩に布がかけ直される。

 ふわりと鼻に届く葉のような爽やかな香りに、私の焦りはしぼんでいった。

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