第四十話 「交じり合った末に」
「おそらく、近縁の者の中に赤毛がおるのだろう。その赤毛の血がここまで薄まっておっては、わしの鼻でもぼやけてしまってわからん」
前足を投げ出して重なるようにそれを組み、巨獣は鼻から多くの息をため息のように吐き出し、悠然とその場に腹をつけて寝そべった。
左右に並ぶ家々よりも寝そべった巨獣の胴体の方が背が高く、ゆらりゆらりと揺れる細長い尻尾は、十五軒ほどの家が並ぶ列を薙ぎ倒すことも容易に見える。
「赤毛の血が流れておる輩を、ほっぽり出すわけにはいかんの。わしは認めるが……」
体は遠くとも巨獣の顔はこちらに向いており、青白く光った瞳が閉じられることなく、私を見据えたまま巨獣は言葉を切った。
あとは赤毛をまとめ上げる長、ニールの意向が私の処遇を左右する。こんなこと、誰も予測をしていなかったのだ。最後の砦となったニールの許可が必要だといえども、私の真っ白になった頭では許しを請う言葉さえ出てこない。
「ニール様」
ローザの心配そうな声が聞こえ、私は左側を振り返った。ニールは白くなった顔で、そんな、と小さく繰り返している。呟きが収まったあとは、ローザの呼びかけにも、巨獣に返事をすることもなく口を閉ざしてしまった。
そう。これはニールにとっても、私にとっても、すぐさま受け入れることなどできないもの。
私に赤毛の血が混ざっている、なんて。
誰が聞いたとしても、とても信じられないのだ。
見えない何かに平手打ちされたかのように、私は視覚に入って来たものを処理するだけで頭が働かない。痛いほどの拒絶を感じているニールの様子に、耐えられなくなった私は正面を向いた。私たちを静観する巨獣を一瞥し、先ほどの言葉の意味を考えるため、ゆっくりと思考を回転させる。
私の近縁の者となれば、父や母、祖父母、あるいは曾祖父母までの近しい肉親の中に、それに当てはまる誰かがいるのだろう。
考えられるとすれば、母方である国王の一族ではなく、平民として生まれ、リベル家に婿養子として来た父の系譜にいるはずだ。
脳裏に浮かぶのは、父の肩を抱いていた祖父セドリックの姿と、私にショールをかけてくれた名前もわからない祖母。
微笑みながら祖母がしてくれたように、するりと右肩を左手で撫で下ろし、あのショールを持って来たかった、と後悔の念が押し寄せる。
すぐさま逃げなければいけなかったのだから、と仕方ないことだと言い聞かせようとも、祖母だと知らずに初めて会ったときに貰ったショールは、私にとって特別な贈り物。
父からの膨大な贈り物も、ロニーが選んでくれた白いドレスも、全てが大切だった。
祖母は眉尻を下げ、馬車に乗り込む父を見送っていた。夜に光る獣のように明るい黄色の瞳で、なかなか会えない息子を心配する、一人の母として。
私のせいで当分、……いえ、一生会えないのかもしれないのよ。
私は自身のことばかりに気を取られ、周囲の人間がどう思うかなどと考える余裕もない。そんな馬鹿な自身の頬を叩こうと左手を構えたとき、ふと、セドリックの瞳の色を思い出す。
祖母は多くの栗毛と同様に黄色の虹彩だったが、父がセドリックの姿に変身したときに見た瞳は、父とよく似た空色。
「ニールよ。その娘を村に引き入れるのがそれほど嫌なら、村に置くわけにはいかんのだろう? ほいほいと外に出すこともできぬこの娘、お前さんが望むならわしが噛み砕いてやってもいい」
どうする、とニールに選択を迫る巨獣の噛み砕く、という聞き捨てならない言葉に怯え、私はニールへ勢いよく視線を移した。
やっと仮説を立てられたのだ。
巨獣の言っていた、赤毛であろう近縁の者が誰なのか。命を惜しむ気持ちよりも、伝えたいと思う心が強く、私は自身の話を聞いてほしい、と震えながら声を出した。
「も、申し上げても、よろしいでしょうか」
緊張と寒さに耐えられなくなった唇を引き離すのに苦労したが、なんとか喉を震わせることができた。項垂れているニールを支えるローザが私を見つめる中、閉口したまま長い白髪で顔を隠しているニールに口を開く。
「私の父は平民の栗毛として生まれました。ですが、父、父方の祖父は共に、淡い青色の瞳をしております」
ローザの眉がぴくりと跳ね、ぐっと眉間に皴を寄せた。ほとんど止まりかけながら顔を前に向けたニールは、目を見開き驚いている表情だが、私とは全く視線が合っていない。
けれども、私の声は確実にニールへと届き、ニールは私の話に耳を傾けている。
落ち着いて、事実だけを簡潔に。
気道を狭めるほどに冷えた空気を大きく吸い、腹の前に組んだ手を置いて私はまた話し出す。
「祖父は妻にも、そして息子である父にさえも、自身の素性を明かさなかったと聞いております」
寂しかった。私も友人と同じように、父方の祖父母といつでも会える環境ならば。
そう言っていた父の翳った顔は、祖父母を責めることもできず、呑み込むしかなかったのだと諦念していた。
「祖父は色素の薄い茶髪に、ローザ様のような瞳の色、明るい肌にそばかすが乗った大男でした」
「……祖父の名を、名を、言っておくれ」
聞いたことを後悔することになってもいい、早く言ってしまってくれ。
そう願っているニールの表情に応えるため、私は祖父の名を大きく声に出した。
「祖父の名は、セドリック、と」
私が祖父の名前を言ってすぐ、ニールはああ、と嘆いた。
「なんと、なんと惨い……」
杖をつく右手が持ち手を軋ませる音を鳴らし、指の長い大きな手のひらで顔の左半分を覆うニールは、とても衝撃を受け止めきれていない。
嘆き悲しむニールは瞼を閉じ、私には涙を零さんと耐えるように見え、長としての矜持を僅かに感じた。
やはり、セドリックお爺様は……。
どこの家かはわからないが、それでも村の中に並ぶ一軒家のどこかで生まれていたのだ。赤毛にしては赤とも呼べないほど薄い茶色では、栗毛の中にいてもあまり目立たない。
ニール、もしくは巨獣が村を出ることを許し、共に生涯を寄り添うと誓える祖母と出会い、父が生まれた。ニールが送り出した理由は、セドリックの幸福を願ってのことだったのだろうか。
けれども、父が金髪の一族である母と交じり合ってしまったが故に、赤毛との混血児が誕生した。
私は、王の座に君臨する金髪、国王に海を追われた赤毛、そのどちらの血も確かに流れている。だが、それは赤毛にとって憎悪の中心にいる相手が、一族の中に割って入ってくるようなものだ。
私という人間は、ニールにとって激しい憤りを呼び覚ますよりも、涙も流せないほどに残酷な仕打ち。
私の存在が、誰かを傷つけることになるなんて。
ニールの泣き出さんばかりの様子に、ローザも少し戸惑っている。声をかけるべきか否か、と迷っていたローザが表情を崩しながらも口元を引き締めた。私から見れば、ローザはただただニールの身を案じ、傍にいることを選んだように見えた。
「なんの話ですか、叔父様」
どこからともなく私の前に立ちはだかったのは、髪を結い上げた項を見せるエリザベス。なんの反応もできずに立ちすくむ私に、エリザベスは私に背中を向けてニールに語り掛けた。
「この者がどうかしたのですか」
どこから……、いえ、全て聞いていたのかしら。
ニールの酷く動揺している様子に堪りかね、叔父を金髪から守ろうと、私の姿をニールの目から遠ざけようと、エリザベスはわざと間に入って来たように見える。
私はニールを傷つけるつもりも、悲しませるつもりもない。だが、そんな私の胸中など、エリザベスにとってはわからない。
普段目にすることが少ないであろう苦し気なニール、そんな長の体を支えながらも心配するローザの表情。
エリザベスの青味がかった灰色の瞳に映る私はきっと、敵対者。
けれども、初めてエリザベスと相対したとき、私は廊下を形作る並べられた板の上に押し倒されていた。今は押し倒されるどころか、私の体にエリザベスは触れてすらいない。
何が起こったのかわからない。ならばニールの言葉を聞くことを選んだ、と私はエリザベスの腹の内を推し量った。これが正しいのか否か、エリザベスの本心はわからなくとも、私はまだ命がある。
言って、いいのかしら。私の口から伝えたとして、それは意味を持つのかしら。
エリザベスの背中に遮られ、私の視界にはローザもニールも映し出されていないが、二人の声は私の耳には聞こえてこない。ニールは言葉を選んでいるのか、それとも脳を未だ揺すられているのか、小さな呻き声一つあげない。
ニールの様子から察するに、私の存在はとても重要で忌避すべきもの。それをエリザベスに軽々と、よそ者である私が告げてよいものではない。
だからといってこのまま誤解されていては、エリザベスを筆頭にした村の人々が、一団となって私に襲い掛かってくるだろう。
そうではない。私の父はセドリックの息子。私は金髪、けれども、あなたたちと同じ。
私は焦りからまとまりのない言葉を紡ごうとしたが、開きかけた口をゆっくりと閉じた。これではニールに首飾りを見せる前に、自身を匿ってくれと願い出たときと同じだ。
自身の血には赤毛が混じっている、だから殺さないでくれと縋りついているも同然。ここでセドリックと父の話をしたとしても、私がこの村の中で命を終えるという結末は変わらない。
だからこそ、お父様やセドリックお爺様のことを伝えたいのに。
頭に浮かんでは沈む言葉たちは、どれもエリザベスやニールの心には届かないだろう。なにを言えば、どう伝えたら、と思案に暮れる私の脳を止める、静かな声が耳に入って来た。
「懐かしいのう、ニールよ」
「……はい」
「会うてみたかろう、セドリックの息子に」
巨獣がニールに優しく語り掛け、私はただ耳を澄ませてニールがなんと返すのか待っている。
覚えているのかしら。
何十年という年月では足りない程、この巨獣は長らく生きているはずだろう。人ではなく、ましてや通常の獣とはわけが違う巨獣は、神と崇められるのに相応しい。その神が守っている村とはいえ、死にゆく短命な人間を覚えているのか、と私は疑問に思った。
ニールは巨獣にはいとも、いいえとも言わずに黙っている。巨獣がなにも反応していないことが、ニールが首を動かしていない証拠。
私には金髪の血が入っているが、父は栗毛の血が半分混ざっているだけだ。私に対して憎悪があろうとも、父には会ってみたいのだろうか。それとも、やはりこの土地の雪を見知らぬ者に踏まれたくないのだろうか。
エリザベスの背中をじっと見つめながら、いろいろな考え事にふけっていた私を、巨獣が呼んだ。
「黄金色の娘よ」
巨獣の声が私の喉を掴み、吸った息を少しも吐き出せない。ニールに朗らかな口調で話しかけていた巨獣が、緊張の糸を私に絡みつけるように、厳かな声色で私の名前を呼ぶのだ。何事か、と私の胸の奥はすう、と冷え、生唾も呑み込めないほどの恐れに体が硬直する。
細く息を吐き出しながら、私は半歩、また半歩とゆっくり振り返り、くつろいでいる巨獣の方へと向き直った。返事をする代わりに、腹の前に組みなおした手を強く握り込み、首を垂れて積もった雪を見つめる。お辞儀をしたままであれば、神と呼ばれる巨獣に誠意がこもっていると思ってもらえる、とはっきりとは言い切れない。
だが、私が知っている神である国王とは、できる限り視線を合わせないようにしていた。その体に染み込んだ癖で上半身を倒したまま、口を引き結んで巨獣が話し始めるのを待つ。
「この山に先ほど足を踏み入れた者がおる。若い男だ。お前さん、この村のことを誰かに教えたことがあるか」
はっと驚いた私は勢いよく顔を上げてしまった。丸い耳をぴんと立てた巨獣と目を合わながら、私は震えるように首を振った。もしかしたら父が来たのかと思ったが、巨獣は若い男と言っている。細かい皴が顔に散りばめた父は、決して若い男という括りには当てはまらない。
私は言葉を詰まらせながらも、父と育ての母が、私がこの山に入ったことを知っていると伝えた。
「ですが、父は若くありません。歩けないほどの老人でもありませんが、なにより、育ての母が病に伏し、その付き添いをしております。ここに向かう理由は……」
言い終える前に口を閉ざした私の顔から、さあ、と血の気が引いていく。長くこの山に住まう巨獣から見れば若い、という男がもし父であったならば。
ロニーが……?
体調を悪化させたヴェロニカが事切れ、父はそれを伝えるために山を登ってきているのか。国王が差し向けてきた密偵の類という可能性も考えたが、一人だけを送り込むほど祖父は浅はかではない。
私は冷えた手のひらで口を覆い隠し、どうしよう、と不安で頭がはちきれそうになる。山に入って来た男が父であろうとなかろうと、私は平静ではいられない。
「ローザ、山に踏み込んだ者がいる。見てきておくれ」
後ろで私の話を聞いていたニールが、ローザに偵察を言いつけている。ローザがすぐさま駆けるために雪を蹴る音が私の耳に届いたが、ちちっと小鳥のような鳴き声が響いたことで足音が止まった。
あの獣だ。
小さく、白い毛皮で覆われた細長い胴体に、つんと尖った顔の、御遣い様と呼ばれていた獣。
「ニールよ、お前さんらは家に入っておれ。皆に、誰も家から出るなときつく言っておけばよい。……行け」
命令を下したあとにぐる、と獣の唸り声を出した巨獣に小さな白い獣は、ちっと一鳴きして山を下りて行った。




