第三話
初めて入る長の家は豪華ものが多く、見たことのないもので溢れていると思っていた。
いざ見てみれば、窓は小さく天井もさほど高くない。自分たちの家にある家具と、そう変わらないものが多い。
だが、囲炉裏の炉縁には繊細な模様が施されており、中心で燃えている火元も薪や落ちた枝ではなく、煙の出づらい貴重な木炭が使われている。
床に敷かれている毛皮も狼か熊のもので、キツネなどとは比べ物にならないほど大きい。
通された客間でそんなことを考えていたが、レベッカを連れてきたことでもう居座る理由がないと気づく。
皮を剥ぎ、今日のうちに使わない肉を塩漬けにしなければいけない。
足が悪く、歩きづらそうにするニールの手を取って囲炉裏の前まで案内し、ゆっくりと腰を下ろすのを待って耳打ちをする。
「ニール様。レベッカと名乗っておる者を連れて参りました。レベッカはニール様にお願いがあって山へきたようです。……どうやら曰くつきのようで」
「そうか。ありがとう」
次に囲炉裏を挟んでニールの対面にレベッカを座らせ、隣にトランクを置いてその場を離れようとした。
だが、レベッカがくんと裾を引っ張り離そうとしない。振り返れば、心細いと言わんばかりに眉尻が下がっている。
まるで子どもだな。
「離せ」
「その、一緒にいてください」
裾を持つ手に力を入れなおして、一層強くレベッカは離れようとすることを嫌がる。
ため息をついて家に帰らなければいけないと、理由を説明すると名残惜しそうに裾から手を離した。
そんなレベッカを気の毒に思ったか否か、ニールもここにいろと言う。
食い下がろうと口を開いたところで、背後から女の声が割って入った。
「ニール様」
「ローザかい? 今手は空いているだろうか」
いつの間にか部屋の中へ入ってきていたローザと呼ばれる女が、ニールの元へ足音もなく近づき一言二言交わした。
話し終われば出ていくのかと思っていたが、ローザは表情もなくこちらに向かってきて、背中に背負っていた獲物たちをするりと持ち去ろうとする。
何をするんだと焦りから大きい声で威圧するも、聞こえていないように表情がぴくりとも動かない。
まるで人ではないようなその様子に、ぞっとして腰のナイフを引き抜こうと手をかけた。
「ローザは狩りの名人だったんだ。彼女の話を聞く間に、君の獲物が腐らないようにと処理を頼んだだけだ。心配いらない」
ニールの言葉に脈打っていた血液が静まり、なんだと力が抜けてナイフのハンドルから手を放す。
重たかった肩や背中がふっと軽くなり、それらを抱えた不気味なローザの背中を見送った。
黒い布のせいで分かりづらかったが、身長も高く肩周りが分厚い。なるほど、長く狩りをやっていた体つきだ。
「さあ、立っていないで私の隣に座りなさい」
ぎょっとしてニールを見つめる。
少しばかり皺の刻まれた優しい顔立ち、長身のわりに細身な体、赤毛とは言えないほどすっかり白くなった長い髪。
男なのにどこか儚く見える長は、そうそう家から出てこず会える機会も少ない。
そんなニールの隣に座るなどつゆほども考えていなかった。
顔が引きつるのを感じながら、おそるおそるレベッカとニールの間に座る。
居心地の悪さと緊張感でひどく口の中が乾き、じっとりと汗がまとわりついてくるようだ。
囲炉裏を囲むような形で三人が座り、ようやく話を聞く態勢を取ったが、レベッカが口を開いたり閉じたりしている。
どこから話そうか、どう言えば助力を仰げるかと、考えあぐねているような表情だ。
ちらりとニールへ視線を向ける。こちらはレベッカが話し出すのを、ゆったりとした表情で待っている。
稀に皆が集められる日があり、決まってそんな日はニールの話を聞いたあとに、昔話をしてとねだったものだ。
そんな話し上手なニールが穏やかな表情を浮かべて、相手が話し出すのを待っていることに目新しい気分になる。
子どもだった自分たちに優しく微笑みかけながら、昔話を語るニールの髪は茶褐色のように薄い赤毛だった。
いつのまに白んでしまったのか。
あの頃のニールの髪はまだ肩につく程度。
今は腰まであるようだが、きちんと手入れをされている。世話役であるローザがしているのだろう、髪のことなら女が適任だ。
「わたくしは、リベル家の者です……」
ニールから重々しく話し出したレベッカに視線を移したが、うつむきながら話すレベッカと目が合わない。
苦しそうにも聞こえる声に、やはりかと眉根が寄る。
関係がないと言い切ったとしても、レベッカが金髪であるということが何よりの証拠だ。
それを今更ニールに話してなんになるのか。
なんとか話し出したというのに、レベッカはまた言葉に詰まっている。まるでうなされているような息遣いに疑問が重なった。
リベル家の出だと話すだけで、なぜそんなにも苦しげなのか。
息を吸うたびに折った体が丸まるレベッカに、どうしたのかと声をかけた。
返事はないが、どうにかしようともがいているように見える。
彼女は金髪だ、優しくする義理はない。
そう、むしろ無情であらなければならないというのに。
こんな風に考えていることを知れば、心根が優しいからだとでも言われるだろう。
脳裏に浮かんできた赤茶の短髪を、しまい込むように頭を振った。
「家を追い立てられたようだ、それも」
口火を切ったニールは、弾かれたように顔を上げたレベッカを気にする様子はない。
レベッカの震えは驚きで止まったようだが、息遣いは先ほどより荒い。
ニールを見つめるその瞳は、その先を言わないでくれと訴えている。
眉尻が下がり、目を見開いて怯えたような顔をするレベッカに、こちらまで恐怖の念が伝わってくる。
反対側を振り返ると、ニールは昔のように優しく微笑んでいる。
だが、体を丸めているレベッカの顔を見ていない。
ただ真っ直ぐに前を見つめるニールに違和感を覚えつつ、その先の言葉を待った。
「実の母に殺されかけて」
穏やかに紡がれたニールの言葉に、レベッカはひゅっと息を飲み込んだ。
部屋中に響いていたレベッカの荒い息遣いは消え、静まった空気を揺らすように、ぽたぽたという水音が聞こえる。
泣いている。
頬から顎へ、そして耐えきれなくなった涙が顎先から何度も滴り落ちる。
口を一文字に結び、何度も鼻をすするレベッカは、迷子だったのだ。
母に命を奪われそうになり、家を追い立てられるその恐怖は誰にも計り知れない。
帰る家を失い、この村へやってきたのだ。
溢れて止まらないレベッカの涙は、沈痛そのもの。
だが、なぜ殺されかけたのか。
リベル家の住む遠い城から、どうやって無事にここまで辿り着けたのか。
トランクを提げコートまで着ていたのだ、着の身着のまま素足で逃げてきたわけでない。
ニールはなぜ、殺されかけてと言ったのか。誰かがレベッカを逃がそうと手引きしたのだろうか。
そもそも、ニールは何も知らないはずだ。レベッカからリべル家の者だと聞いただけで、詳細など知り得ることはできまい。
「あなた様は、どこまで知っておられるのですか」
震えた涙声のレベッカがニールへと疑問を投げかけた。
涙も鼻も落ち着いたようで、手で濡れた頬を拭いながらニールの言葉を待っている。
「大まかなことしか知らないさ。だから君の話も聞かないと、全貌は見えない」
なんの淀みもなく、ニールは言い切った。
どうやって知ったのだ、あのローザにリベル家を見張らせていたのか、どういうことなのだ。
疑問に疑問が重なり、もはや最初の疑問が見えなくなって、考えるよりもレベッカの話を聞く方が早いと気づいた。
やはり頭を使うことは苦手だ。
「では、余すことなくお話させていただきます」
覚悟を決めたように凛とした顔つきになったレベッカを、固唾を吞んで見つめた。