第三十二話
ニールに言いつけられたレベッカが、座ったまま動けないこちらに、震える足でゆっくりと近づいてくる。ニールは壁を見つめたままそれ以上の言葉を続けず、衝撃を受けたこちらの頭の中は真っ白だ。
沈黙に耐え切れず、生唾を呑み込んで乾いた舌を潤し、口を開く。
「なにかの間違い、では。俺がルイ様の末子など」
「嘘でも、間違いでもない。兄のいない今、弟である君がルイ様の末子だ。それは長の直系である君の物だよ」
半開きになった口で呼吸を繰り返し、ニールの口から出る言葉が右から左へと耳を通り過ぎる。とうとうレベッカが目の前に座ってしまい、手のひらに乗せられている、それ、と呼ばれた物に視線を移す。
そこには、薄桃色の丸いなにかが並んだ、今まで見たことのないものが二つあった。
「その娘が手にしているものは、長が代々付けていくはずだったものだ。昔話に出てくる真珠というもので出来た首飾りだよ。レヴェンナ様を串刺しにしたエルロイが、金髪が、掠め取っていったんだ」
弾かれたようにニールを見る。その顔は未だ怒りに染まっており、穏やかな声色に戻ることもない。
「もともと一つの首飾りだったはずだが、手を加えられ、以前の姿ではなくなっている。せめてそれを取り返そうと、ルイ様は憤られていたんだ」
ニールは目を細めて眉根を寄せた。遠い日を思い出しているのか、苦々しい表情の中に怒りが浮かんでいる。
口惜しい、と小さな声で呟いたニールが項垂れ、囲炉裏の赤い炎から顔が逃げる。長い白髪が襖のように横顔を隠してしまい、こちらからはニールの表情は読み取れない。
泣いているのか、はたまた怒りに震えているのか。
何十年と長の椅子に座っているニールの穏やかな心が、いよいよというところまで追い込まれているのだろうか。
痛々しいニールから目を逸らし、レベッカに差し出された薄桃色の首飾りを眺めてみるが、なにも頭に浮かんでこない。思考の歯車がゆっくりと回り出し、否定するための言葉を探し当てる。
「俺は、……ニール様も知っての通り能無しです。お戯れを」
「冗談ではないよ。マギー様は、正当な長の血を引くお方だ」
面食らい、目を剝くように瞼を持ち上げた。瞼を閉じたまま悠然と顔を上げたニールは無表情で、なにかを探すように瞼の下で瞳を泳がせている。
こちらがやっと捻り出した返答に、ニールは大きな情報で返してきた。そのことに体を巡る血が沸騰し、立ち上がって否定をする。
「そんなはずはありません! 母も俺と同じ能無しだったのです!」
頭の中で反響する、マギーという名前。
久しぶりに聞いた母の名前が、こんな形で出てくるとは思ってもみなかった。
母も自分と同じく能力を持たない者、いわゆる能無しだった。その血を引いた自分は、なんの能力も発現させていない。
ごめんね、と母から何度か謝られたが、幼心に母と一緒ならそれで良い、と言っていた。涙で瞳をうねらせた母が泣きながら微笑み、ありがとう、と言って抱きしめてくれるだけで十分だったからだ。
自分とは反対に、兄は生まれたばかりの頃から能力の兆候があったと聞いていた。兄が能力をだんだんと扱えるようになった頃に、母は家を出て行き、残ったのは子どもだけ。
能力を持つ素晴らしい兄と、能無しで獣同然の弟。
母と二人三脚でなら、能無しと呼ばれる人生を悪くないと言って、笑って生きられただろう。
だが、実際は違う。
周りに能力を持つ者が溢れ、自己嫌悪と人々からの白い目によって、十年以上も息苦しい日々を過ごしてきた。
強い力を持ったレヴェンナとルイが祖先ならば、なぜ自分と母に能力が受け継がれていないのか、納得がいかない。
「能力がないから能無しなど、くだらないことで自分を否定するのはおやめ」
「ですが、現に俺は母様と同じ髪です。肌の色だって」
帽子と顔を覆う布を取り払い、これが証拠だと言い返したこちらの目に、ニールの顔が明瞭に映る。幸せと喜びに思いを馳せるように、ぱっと表情を輝かせたニールは瞼を開き、頬を上げて懐かし気に柔らかい声を出した。
「マギー様も大変よい色の髪だった。燃える炎のように濃い赤髪だったのを覚えているよ、君と同じ鮮烈な赤色だったね」
食い下がろうと口を開いていたが、ニールの様子を見て返答が喉に詰まった。出そうとしていた行き場のない声を息として吐き、ニールが話し出すのを待つ。
「赤髪が、なぜそう呼ばれているか知っているかい」
皆が赤色に偏った髪色だからではないのか。でなければ、他に説明のしようがない。
意味が分からない、と怪訝な心持ちだが返答はしない。邪魔にならぬよう、口を閉ざしている。
「赤とは火。つまり、火のような髪を持つ者たちが赤毛と呼ばれた。橙に薄まっている者もいるが、皆々が赤と呼べるだろう?」
確かにそうだ。濃い赤色だと言われれば自分や母が一番手だが、他にも赤色の髪を持つ人間は大勢いる。
けれども、それがなぜレヴェンナたちの末子だという話に繋がるのか。
「ですが、赤色の髪などいくらでも。なぜ俺がレヴェンナ様の一族なのです」
「レヴェンナ様とルイ様。お二方とも、能力を使う際は人ではない異形のお姿だったそうだ。ルイ様はレヴェンナ様とは違い、獣ではなく鬼のようだった、と」
昔話の中に出てくる、鬼という単語。それがどういったものなのか知る由もないが、異形という能力ならば、兄も異形の姿だった。
だが、兄よりも良い力を持つ者がいる。
「ローザさんの間違いではないのですか? 獣ではありませんが、あのように見事な異形の姿に、兄の肩が並べられるかどうか」
「ローザではないさ。彼女の瞳は青色だろう?」
なぜここで瞳の色が出てくるのか。
疑問を口に出すよりも先に、ニールの言葉が耳に入ってきた。
「この話は後日としよう、いっぺんに詰め込むものではないからね」
「……はい」
納得も理解もできていないが、今は呑み込むとしよう。
順序立てて話を聞く方が頭に入り、先ほどまで受けていた衝撃も収まるはずだ。
「アレックス様」
立ち上がったままニールからレベッカを見た。なんの感情も浮かばないまま、なんだ、と返事をする。
首飾りを傍に置き、背筋を伸ばして組んだ手を腹に引きつける、王女然とした姿でレベッカはこちらに顔を上げている。
口端を横に引き、青白い顔をきゅっと引き締めるレベッカが、深い謝罪をこちらへ投げかけた。
「本当に、申し訳ありません」
正座をしたまま上半身を前に倒したレベッカの、長い金髪が畳へ垂れ広がった。柔らかなレベッカの高い声が、とても疎ましく感じる。
こいつが悪いわけではない。
だが、忘れていた憤りが顔を覗かせる。金髪がレヴェンナを殺し、長の首飾りをレヴェンナの命と同様に奪っていった。
今まで知らずに生きてきたことが覆され、短い爪が食い込むほどに手のひらを握りしめる。興奮を抑えられない体は、息を吸い込んでも胸を開かせることはできず、鼓動の音が耳のすぐそばで聞こえるようだ。
「顔を上げろ」
こちらの低い声にレベッカは顔を上げた。
瞳に涙を溜め、下唇を噛むレベッカは泣くまいと耐えている。大きく息を吸い込み、胸を無理やり広げ、無駄だとわかっていても落ち着かせようと何度か繰り返した。
「お前の祖先が奪い去った物を、お前自身の手で俺に返せ」
「かしこまりました」
置いていた首飾りが入ったものを手に持ち直したレベッカは、立っているこちらに合わせて正座をやめ、両手をこちらへと伸ばす。
乗せられている入れ物を壊さぬよう、そっと左手で掴み取った。ニールの言う真珠は不透明で、所々に小さなへこみや傷があるものの状態は良く、大切に扱われていたのだと汲み取れる。
自分のものだと言われても、実感が湧くはずもなくため息をついた。
どさりと座り込み、眺めていた首飾りを置く。右手で熱を持つ両目を覆い隠し、冷えた手が熱を奪う感覚が心地よく、怒りをも沈静させていくようだ。
「これを、お前たちは使っていたのか」
「ええ。成人の日と、……結婚式に使うものだと聞いております」
言いづらそうにするレベッカに、眼前にある手を取り払って眉根を寄せ、結婚式の意味を問うた。
「家族になることを誓う儀式、ですわ」
口ごもり、顔を下に向けながら言ったレベッカの言葉を、聞き取ってすぐには理解できなかった。しばし呆けた後、レベッカの細い首を掴んだ。
勢いを逃がすことなど知らないレベッカが後ろに倒れたのをいいことに、小さな体に跨って身動きを封じる。
「かっ……」
「家族だと? 儀式だと? レヴェンナ様より盗んだも同然の首飾りを身に着けて、か?」
乾いた自分の笑い声が、震える喉から出て行った。顔を歪めた翡翠色の瞳に、死への恐怖が涙とともに浮かび上がる。
強奪したものをめでたい日に、それも恥ずかし気もなく堂々と付けていたことを知って、呆れ果てた末に声を上げて馬鹿にする。
「お前たちに恥じらう心はないのか?」
レベッカが息を吸おうと必死に口を開け、首を握りつぶさんとする左手を引っ掻く。手加減をすることも頭からすっぽ抜け、眼前で暴れているレベッカに笑いかけた。
腰から引き抜いたナイフを逆手に持ち、振りかざすためにゆっくりと腕を持ち上げる。
いやいやをするように顔を震わせるレベッカの瞳が細かく振動を始め、ばたばたと床に打ち付けていた足が止まる。
苦しさからか、黄金色に縁取られた翡翠色の瞳がぐるんと上を向いた。
「苦しいか? レヴェンナ様はもっと苦しかったはずだがなあ」
「やめろ」
いつの間にかやってきていたらしいローザの声が右側から聞こえ、強い力で腕を掴まれる。どうやら能力を使っているようで、炎がじりじりと髪を焼く音がした。
「アレックス、愛しき子よ。やめておやり」
憎しみと復讐に支配された体は言うことを聞かず、ニールの窘める声も弾いてしまう。長にやめろと言われ、ローザの炎に焼かれているのにも関わらず、こちらの手を緩めることはできない。
手を止める気が、これっぽちもない。
振り下ろすはずの腕を封じられてはいるが、首を絞め続ければ息をすることも叶わないだろう。
レベッカの首をへし折るため、前のめりになって掴む手に体重をかけていく。
息を吸うことなど、決して許さない。
レベッカはこの村に置いてもらうため、首飾りを見せてニールへ恩を売り、自分が助かるためにこの村に来たのだ。
浅ましい。
「許せ」
ローザの声が聞こえた刹那、目の前が真っ暗になった。




