第二十九話
「母様? どちらに行かれるのですか」
兄と二人、いつものように部屋の中で静かに遊んでいた。手垢で汚れてしまった人形で遊び、兄に能力を見せてもらう。
いつも通りに始まったのに、母が外着に着替えだした。兄がすぐ声をかけたが、母は何も答えずに毛皮さえ身に着ける。窓のすぐ傍にいた自分たちからは、対面の壁にある箪笥に体を向けている母の顔は見えなかった。
「母様」
「ごめんね。母は……。私は、旅に出ることにしたの」
先に違和感を感じ取った兄がもう一度母を呼び、それにやっと答えた母の言葉を呑み込むのに時間がかかった。
「どうして?」
「出ていくなど許されません」
わけが分からない自分から出た小さな声と、怒ったように言い切った兄の言葉が重なる。母の後ろ姿と兄の顔を往復し、兄が爆発するのではないかと、はらはらとした緊張感に内蔵を掴まれた。
「これは私が決めたことだ。あのお方の許しなど必要ない」
「貴様……」
開かれた襖からぬっと姿を現した父の言葉に、兄の首に太い青筋が走った。目が血走り、今にも襲いかかろうとする兄を見たのか、母は急いでこちらに駆け寄る。
抱きすくめられ、兄は母の体で父との壁ができたが、自分の顔は丸見えだった。母の右腕で守られているものの、父の顔も姿もはっきりと見える。
「あなた、約束でございますよ」
「ああ。お前が出て行けば、全ては丸く収まるんだ。この好機を逃すものか」
冷え切った視線を向けられ、じっとりと重たい何かを訴える父の目に覚えた吐き気を、生唾と共に飲み込んだ。
村の人々と同じ青い目、小鼻が広がった三角形の鼻、薄茶色の肌に橙がかった赤髪。兄の髪は父のそれと似ており、よくお前が羨ましいと髪を触られていた。
「さっさとしろ」
吐き捨てた父はのそのそと廊下を歩いて行く。玄関の戸を乱暴に開閉した音が聞こえ、母は安堵の息をついて体を離した。
「なぜ、母様が出て行かねばならぬのです」
「聡いお前ならわかっているでしょう。私がいては、パトリシア様のお体に障ります」
座って母と話していた兄が立ち上がったと同時に、みるみる体が変化していく。能力を使うつもりなのだとこちらが気づいたときには、母が兄をすでに抑え込んでいた。
「放してください!」
「駄目よ。やめなさい」
兄の能力もまだ不完全であり、大人の力には勝てないと悟ったのだろう。しゅうしゅうと音を立てて、兄の体が元の形に戻る。
兄様……。
兄は大粒の涙を流し、ずるずると鼻水をすすっていた。座り込んだまま見た兄の泣き顔は、後にも先にもこの一度きり。泣き顔も、怒った顔も、笑った顔ですら、この日を境に兄から剥がれ落ちてしまった。
「おいで」
両手を広げた母にすっぽりと包まれる兄の姿は、今でも忘れられない。肩が上下し、時折嗚咽をもらす兄は弱弱しく、年相応の子どもだった。
兄と強く抱きしめ合っていた母が離れ、今度は自分の番が来た。
「母様、いなくなるのですか?」
「……大好きよ、アレックス」
「嫌、嫌です」
遅れてやってきた涙が視界を歪める。鼻の奥がひりつき、胸が引き千切られるような痛みを訴えた。
「行かないでください、母様」
母はなにも答えない。体を震わせる母もまた、涙を零していたのかもしれない。抱き着いた母の胸の中で、優しい心音が聞こえる。とん、とん、とまるで眠れない日に背中を叩かれているときのようで、これを失うことに目が眩むほどの恐怖を覚えた。
「じゃあね」
母の体温と柔らかい香りから離れまいと、無我夢中でしがみついた。言葉にできない思いが馬鹿力となり、母は困ったように笑った。
「アレックス。大丈夫、大丈夫よ」
うるんだ灰色の瞳、ふわふわとうねった赤く長い髪、笑った時にできる左頬のえくぼ。
鮮明に映る母の笑顔と、右頬を撫でる母の手。それらにこちらが油断した隙に、するりと母が襖へと走っていく。追いかけようとして転び、兄がこちらの脇を抜けて母の後を走っていく。
「母様! 兄様!」
石のようになった体が動かず、ただ叫ぶ。這いつくばったままの自分に、心底苛立ちを覚えた。
「嫌だ、嫌だあ! 動け! 動いて!」
動かない脚へと握りこぶしを叩きつけ、泣き叫びながら動けと念じる。その思いも空しく、痛みを感じ取ることのない足を殴り続けた。
夢から目を覚まし、誰かの気配を感じる。
涙でぼやけた視界に映り込む黒い人影の首辺りを掴み、飛び跳ねるように上半身を起こし、勢いよく自分の腿へと押さえつけた。
「誰だ」
首を握りしめるこちらの左手を、冷たく柔らかい手が掴み返してくる。抵抗するようなものではなく、放してくれと伝えたがっているようだ。
小さい。
掴んでいる首も細く、当たっている手のひらも小さい。そこまで感じ取って、ようやくレベッカかもしれないと気づいた。
「すまん」
息を吸い込んではむせるように空咳を繰り返すレベッカに、形だけの謝罪を口にする。苛立ったままがりがりと頭を掻き、吸い込んだ空気を勢いよく吐き出した。
「大丈夫か」
腿の上で足の方を向いて寝転んでいるレベッカの背中を撫ぜ、まだ起きていない頭で力を入れすぎてしまった、と反省する。
「どう、かされたのですか。うなされていましたわ」
喉を抑えながら起き上がったレベッカは、こちらを向いて話しているようだが、こちらからはあまりよく見えない。
「いつものことだ。それより、首は大丈夫か」
「ええ、驚きましたけれど……。賊かと思われましたの?」
「いや。俺は夜目が利かない。昼に見えていた形も、夜になると全てを見失う」
まるで瞳に膜が張ったようにぼやけ、霞んでしまう。よく目を凝らしても、レベッカの表情すら読み取れないのだ。おかげで獲物を深追いしてしまったときは苦労した。
木々にくくり付けられた目印を見つけられず、山の中で一晩明かしたことは嫌な思い出だ。明かりとなる火をおこすこともできず、唸り続ける腹を黙らせる干し肉も、乾いた喉を潤す水もない。
吹雪の中、寒さにがたがたと震えながら作ったかまくらの中で、朝が来るのを長らく待った。自分を抱きしめるように丸くなり、厚い雲の上に太陽が昇った時にはまつ毛まで凍っていた。
「誰かがいる、何かがある。それだけしかわからない。俺は一人で暮らしているし、誰かが家に入ってくることもないからな」
「そうでしたの。私も勝手に入ってしまいましたし、おあいこですわね」
「早く部屋に戻れ。輿入れ前の生娘が、男の部屋に居座るな」
軽やかに笑ったレベッカの言葉に気が付き、堂々とこの部屋にいさせるわけにはいかないため、しっしっと手を払う。
二度寝ができるような気分ではないが、起こしていた上半身をぬるい布団にもぐらせ、早く出て行けとレベッカに念押しする。
「それが、眠れないのです」
「俺にどうしろと言うんだ。俺は何もできん、子どもみたいなことを言ってないで寝ろ」
大きなため息をついた。呆れた口ぶりでこちらは突き放しているのに、レベッカはすぐそばに座ったままでいる。
「蹴り飛ばすぞ」
「お願いしますわ。ほんの少しだけ、傍にいさせてくださいまし」
どんっと心臓を拳で叩きつけられた感覚に、働き出していた思考が一気に止められる。
今なんと言った?
それでは一つの布団で一緒に寝てくれと言ったも同じだ。色でも、伴侶でもなく、ましてや金髪の女と夜を共にすることなど、できるはずがない。目の前の少女は純心を持ち合わせていないのか。
「いつもはロ……、いえ、侍女がおりましたので、心細いのです」
しおしおとした声音で話すレベッカの顔は見えないが、また下を向いているのだろう。逡巡し、レベッカのお願いを受け入れてやると決めた。
近しい人がいない中で眠ること。それがつらいのは、自分がよく知っている。
「わかった」
「ありがとうございます、アレックス様」
返事を聞いたレベッカは嬉しそうに礼を言うが、こちらとしては複雑だ。耳の後ろ辺りを掻き、もう一度起き上がる。
レベッカは花弁の間へと向かっているが、こちらの足はそれを躊躇してしまう。やはり断るべきだったと考えても、無理だと言えるはずもない。
畳の上を時間をかけて移動し、やっとの思いで入った花弁の間には、ろうそくの小さな明かりに照らされたレベッカが布団の上で座っている。
夜目が利かないことを考慮してつけていてくれたのか、それとも元々ついていたのか。
けれども、明かりがついていることによってレベッカの表情も、姿かたちも浮かび上がる。影に覆われたレベッカが、まるで初夜を待つ花嫁のようにこちらへ笑いかけた。
無邪気なレベッカとは対照的に、こちらは早々に部屋を出て行きたい気持ちでいっぱいになる。布団と壁の間に胡坐をかいて座り、目についた羽織を脱ぐように促す。
「羽織は脱いでおけ」
「ええ」
前開きの羽織の紐を解き、きょろきょろと周りを見渡したレベッカは、畳むこともせずに羽織を布団の傍に置いた。
違う、と言って羽織を布団の上に被せ、皴になることを注意する。
「さっさと布団に入れ」
いそいそと布団に埋もれたレベッカの横で、ろうそくの明かりとともに静まったレベッカを眺める。長い金髪は横に流れ、長身ばかりの赤毛が使う布団では下まで足が届いておらず、小人が迷い込んだ巨人の家で眠っているようだ。
じっとこちらを凝視するレベッカに居たたまれなくなり、ついつい眉根がぐっと寄る。
「眠る気がないのか」
「いえ。おやすみなさい、アレックス様。良い夢を」
「ああ、……おやすみ」
慣れない言葉を無理に使うことはなかったかもしれない。
赤毛は、朝に、と今日中に会うことのない人間や、眠る前の挨拶として使う。
ゆっくり休めるような生活ではないこともあるため、お休みなさい、などという意味合いは初めてだ。夜に何事もなく眠り、明朝に生きて顔を合わせられるように、まじないをかけ合う赤毛にとっては不釣り合いな挨拶。
だが、緊張の糸が切れたように寝入ってしまったレベッカを見るに、選択を間違えてはいなかったようだ。左隣には力も強く、体も大きい男が座っているというのに。図太いのか、はたまた父親と重ねているのか。
なんにせよ、これで離れられる。
皿の持ち手を掴んで顔に近づけ、ふっと息を強く吐いてろうそくを吹き消し、音を立てないように花弁の間を出る。障子を閉め切りながら戻った月の間で、もう一度布団の中へと入った。
ふんわりと重たい体を包む布団は少しの間ですっかり冷えており、首や耳などの素肌に当たる部分が特に寒い。
布団を変えただけでは悪夢を見ないようにすることはできず、鬱々とした気分も晴れないままだ。右側へと寝返りを打ち、自身の手のひらを頬へ添わせる。
温かい。
母の手のひらはどうだっただろうか。あの時、撫でられた右頬は温度を感じ取っていたのだろうか。
もうほとんど曖昧だ。母の顔も、夢の中でははっきりと見えているのに、頭が起きれば輪郭がわからなくなる。
兄の声は、高かった覚えがある。声変りが始まる前のことだったが、ずいぶんと低くなった兄の声も思い出せない。
どんどんと記憶が薄れ、消えていくことが怖い。
自分の中から母や兄が消えることはなくとも、二人の癖や顔がわからなくなっていき、やがて思い出せなくなる。
それは、自分の中で二人が死んだも同然ということになってしまう。
嫌だ、絶対にそうはならない。
強い意志を持ち、懸命に頭の中で埋まっている記憶を掘り起こすが、出てくるものは小さな欠片ばかりだ。
遊んでいた人形、母が好きだった飯、兄の使っていたナイフの色。
どれも二人に通ずるものであって、本人の姿かたちではない。そんなはずはない、もっとよく探せば出てくるはずだと、躍起になって探す気は起きなかった。
寂しい。
口に出せない思いが、胸の奥で声を上げて泣いている。ぎりぎりと痛む胸を押さえつけながら、かまくらの中でそうしていたように布団の中で体を丸くさせ、ぎゅっと瞑っていた瞼から溢れる涙を隠す。
兄と母が布団を捲って自分を見つけてくれやしないかと、叶わない願いに縋りつき、いつしか朝を迎えていた。




