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イエローマダー  作者: 沖 晶
第二章
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第二十八話

 母を思う日々の中で、兄との生活が心の支えであり、人生の一部だった。

 しばし閉ざしていた瞳を開き、レベッカを見据えて言葉を吐き出す。


兄様あにさまは能力も、才能も、優しさも、全てを持つ男だ。だからこそ、死んでいるなど有り得ん」


 全てを持ち合わせた兄が死に、出来損ないの弟が生き残っているなど、そんなことがあってはならない。兄が年若く死ぬというのならば、自分が先に旅立っているはずだからだ。

 狩りの獲物も、危険を察知できない間抜けな個体から射抜かれる。

 兄は間抜けではない。少なくとも、自分より狩りの上手かった兄が、背後を取られるわけがない。

 ぎぎ、となった歯ぎしりの音に、いつの間にか歯を食いしばっていたことに気がつく。もうこの話は終いだ、とぶっきらぼうに言い放ち、膳の足に手を添え直す。


「お前も早く飲み干せ。洗い物が遅くなる」


 立ち上がって睨みつけたレベッカの表情は、悲しみの中に疑問を浮かべている。複雑な心持ちのまま、ゆったりと椀を持ち上げるレベッカを尻目に、階段を下っていく。


「ずいぶん遅かったな」


 下っていく途中でローザの声が聞こえ、階段を見ていた視線を前へ向けた。怒っているわけではなさそうだが、相も変わらず無表情なローザにすまない、と笑う。

 するりと足音もなく姿を消したローザの後を追うように、階段を下り終えた先の土間にある履物を足につけ、台の上に膳を乗せた。


「ご馳走様。美味かったよ、ローザさん」

「お粗末様」


 洗い場の前に立つローザへ振り返りながら皿を手

渡し続け、台の上にあった濡れ布巾で膳の顔を拭く。水で濡れた黒い膳はつやつやと輝き、汚れのない美しさに大丈夫だと頷いた。


「そうだ、囲炉裏の傍から隙間風が吹き込んでいたよ」


 忘れるところだった、と静かに皿を洗うローザの背中を見ながら伝える。がたが来ているかもしれない、直しを施したことはあるのか、といくつか質問をしたが、ぴたりと動きを止めたローザは答えない。


「どうしたんだい」

「いや。直し自体は、もう何度もやっているらしい」


 いろいろな場面で直しをしてきたらしいと、ローザはよく知らないんだとも付け加えた。皿洗いを再開させたローザから話を広げる気がないと感じ取り、こちらから質問を投げかける。


「この家が建って何年くらい経つんだい」

「さあ。私がそこまで知っている必要もない。だが、赤毛レッドヘッド自体が何百年、何千年と世代を経ているんだ。それと同じくらい長いんだろう」


 洗い場の中から濡れた皿を一枚、また一枚と丁寧に布巾の上に置くローザの言葉に、返答ができないまま考え込む。


 どうしたもんか。


 ローザの言葉通り、仮に何百年と経っている家なのであれば、すぐにでも建て替えた方が良いことは明白だ。

 ひょうが屋根を叩き壊すかもしれない。暴風によって壁をもぎ取られるかもしれない。今までとは比べ物にならないほどの雪が降ってしまえば、これまで耐えられていた家が倒壊するかもしれない。

 憶測だと言われるだろうが、何かあってからでは遅いのだ。額に手をやりながら解決策をひねり出そうとする。


 この村に大工はおらず、山の木を間引くきこりがいるだけだ。切り倒した木を薪や家具にするだけの樵に、家を一から建てさせるのはどだい無理な話。

 悠久の歴史を持つこの家を、危険だからという目に見えない理由だけで取り壊すことに、ニールだけでなく老人たちが何と言うか。

 どうすれば良いのか見当もつきそうにない自分の頭の悪さに、盛大な溜息をついて額から手のひらを外した。


 考えていても始まらない。


 明日、家を出る前にニールへと挨拶する。そのときにでも話してみようと決め、まだ多くの水滴がついている皿をローザが拭くところを眺めた。

 後ろの方からたどたどしい足音が聞こえ、レベッカがやって来たと見えなくともわかる。


「お食事をありがとうございました、ローザ様」

「ご馳走様、でいい」


 赤毛が料理を作ってくれた者へ言う挨拶をすぐさま声に出し、廊下に立ったままのレベッカへ振り返り、そちらへと歩いていく。白い手のひらから膳を引き受け、平皿に箸を乗せ直してローザに手渡す。


「ごちそうさま、だ。早く来い」

「ご馳走様でございました」


 言葉の一音一音を区切ってわかりやすく伝え、それを真似たレベッカがローザに投げかけた。二度目の皿洗いをしながら、ローザは短くああ、とだけ答え口をつぐむ。

 急いで履物をつっかけたレベッカが自分の元に近づき、白く小さい手に濡れ布巾を握らせる。それで膳を拭け、と顎で示し、意図を掴んだレベッカは丁寧に四隅まで拭き上げた。


「じゃあ寝るよ。また朝に」

「ああ、朝に。火鉢はすぐに持って行ってやる」

「ありがとう」


 こちらに振り向くことのないローザに、挨拶と感謝を告げて廊下へ上がる。さっさと階段を上り切り、月の間へと姿を隠した。

 溶け終わるろうそくのように、だらりと冷えた畳の上に座る。溜息をつき、項垂れる頭と同じく、心境もどんよりと暗くなっていく。


 兄の話など、聞かせるべきではなかったのかもしれない。

 母と違い、置手紙一つで家を離れた兄の安否は、毎日のように気になっていた。銀世界の中を歩き回る狩りの最中さなかに、兄の影を見ることも少なくない。

 兄と狩りへ出かけた際に仕留めた獲物が、自分一人で射殺した動物に似ていれば、懐かしさと寂しさに呑み込まれてしまう。

 家族が恋しいのは、自分だけではない。きっと兄も、母や自分を思う日があるはずだ。


 母様も、そうであってほしい。




 ローザの持ってきてくれた火鉢を受け取り、元にあった部屋の隅へ置いて温まるのを待つ。放ったままだった肌着を畳んでいたが、ふと左側を見ると、障子越しにまだ小さい炎が見えた。

 外より幾分か暖かくとも、それでも部屋の中は薄ら寒い。障子を開き、囲炉裏の傍に転がっている薪を火元に被せる。

 布団を敷いて眠りに落ちるまで、月の間に囲炉裏の熱を入れておくために、障子は開け放ったままだ。

 もう一つの部屋に戻って来たレベッカが気になるが、あれだけ冷たい態度を取ったのだから、迂闊にこちらへ顔は出さないだろう。

 立ち上がって押し入れへと近づき、襖を引いて目に飛び込んできたのは上等な布団。


 分厚いな。


 下段と上段に一組ずつ入っているが、ずいぶんと綿の入った厚い布団だ。自分の家で帰りを待っていてくれる布団には、目の前にある布団の三分一しか綿が入っていないため、良く言えば軽い。

 悪く言えば、程度の低い代物だ。この寝心地の良さそうな布団で眠れば、少しは夢見が良くなるかもしれない、と期待しながら上段にあった一組を引きずり出す。

 ぽとりと掛け布団の上にあった枕が畳へ落ち、そのすぐ傍に布団をそっと下す。敷布団を引っ張り出し、部屋の真ん中に広げた。


 一人用にしては横幅が広いな、と考えながら掛け布団をそれに重ねる。重ね合わせてみれば掛け布団の方がまた少し広く、体を包む布団に隙間ができづらいのではないか、と考えた。冷気が入ってこない布団はどれだけ暖かいのか、と胸が弾む。

 最後に転がしていたままの枕を頭側へと置き、かじかんでいた指がすっかり動いていることに気づいた。入ってくるように仕向けていた囲炉裏の熱で、部屋を暖められたことにほうっと息をつく。

 吐き出した息も白くない。これならば寝入るのに十分だろう、と真ん中の部屋へ顔を覗かせるのと同時に、レベッカ側の障子が開く。


「アレックス様、質問をよろしいですか」

「なんだ」


 困り顔を見るのは、今日だけで何度目だろうか。


「ベッドが見当たりませんわ。この床の上で眠ればよろしいの? 一枚でも毛布があれば……」


 うわ言のように質問を続けるレベッカに答えず、布団があるだろうと言い放った。悠然と視線をこちらに戻したレベッカは、この部屋には何もないと返答する。


「どこからか持って来るのですか」

「押し入れに入っている」


 首を大きくひねったレベッカには、こちらの知識が何もわからないようだ。

 箸といい、布団といい、ここまでの違いが出るのか。

 同じ国の中で生まれたというのに、あまりにも世界が違っていることに呆れも浮かばない。一言レベッカに断りを入れ、花弁の間を視界に映し出した。

 月の間と対照的な場所にある押し入れを指差し、あの中に寝具が入っていると教えても開け方すらわからないのではないか、と気づいて人差し指を曲げる。

 押し入れの前まで足を動かし、それについてきたレベッカへ襖の引き手が見えるように半身をずらせた。


「この窪みを引き手という。これが付いている場所から反対に動かせばいい」


 実際に引き手へ指をかけ、少し動かしてすぐに手を離した。


「装飾の類かと思っておりましたわ。取っ手とは違うのですね」


 水を汲みに行く子どもらが使う桶には、縄で出来た持ち手が付いているが、レベッカの言う取っ手とは違うのだろう。こちらがそれを質問する気にもなれず、中に入っている布団を出せ、とレベッカを急かす。

 襖が開け放たれ、目の前に現れた白い物体にレベッカは少々のけぞった。下段に入っている一組を引きずり出させ、先ほど自分がやった順番通りに布団を敷かせる。へっぴり腰のまま作業をするレベッカが、裾を踏んで今度は尻もちをつきかける。


「気を付けろ」

「ありがとうございます」


 掴んだ柔らかい二の腕から手を放したが、ふにふにと柔らかいものに触れたのは久しぶりで、感触を反芻してしまう。


 手跡がついていないといいが……。


 焦りから思ったよりも力が入ってしまった。大丈夫だったろうか、とレベッカを一瞥するも、特に腕を気にする素振りもなく、顔を見られないように息をついた。

 動かした顔の先にある壁に、花々が描かれていることが目に入り、なぞるように視線を動かしていく。風に吹かれて花びらを散らす様子がそこかしこにあり、この部屋が花弁の部屋と名付けられている理由がわかった。

 こちらの部屋に月はなかったが、そもそも月など見たこともない。冬晴れの日はあれど、日が傾けばすぐにまた雪が降る。月がある、ということを知っているだけだ。

 どんな形なのか、色は、日差しのように明るいのか。この村の人々は、皆知らない。


「花がお好きですか」


 いつの間にか寝支度を終えていたらしいレベッカに見つめられており、呆けていたところに声を掛けられ驚いたが、素知らぬふりをしながら答える。


「いや、別に好きでも何でもない」

「そうですか」


 元より花が好きではないだろう、と期待していなかったらしい。さして落ち込んでいないレベッカに、今度はこちらから質問をする。


「花が好きか」

「ええ!」


 華やいだ笑顔でレベッカは壁に咲く花々に人差し指を向け、名前や花言葉、さらにはその特性まで語り出した。

 こちらは半分も聞き取れていないが、途切れることのない滝のように口が止まらないレベッカの好きにさせようと、相槌も打たずに聞き入る。

 ぴたりとレベッカの手と口が静まり、怪訝な表情でレベッカの後頭部を眺める。


「どうした」

「あれは、なんという花なのでしょう」


 レベッカが指差したのは天井。首をそらせて真上を見ると、花に縁遠い自分でも名前を知っている絵があった。


「ああ」


 大きく描かれているが、その実、花や茎も小ぶりで細い。レベッカが言っていた花は色が何種類かあるらしいが、この花は一色しか知らない。


「赤根、だ」

「あかね?」

「赤い根を持つことから、赤根と名付けられた花だ。この花は知っている」


 顔を少し下げたレベッカは、何かを思い出そうとしている。視線を右へ左へと動かし、顔も時折振れているが、おかしいと言葉を吐き出した。


「私は花を見る機会がなく、花の絵や名前がある本に乗っているものを覚えてしまうほど、繰り返し読みましたの」


 こちらに背を向け、壁の花をまた眺めるレベッカの言いたいことがわからない。全ての花が載っている本などないだろう、野菜にも花が咲くのだから知らないものがあっても不思議ではない。


「見てみたいですわ。根が赤い植物など聞いたことがありませんもの」

「なら、あのお方に認められることだな」


 あくびをしながらレベッカに言い捨て、囲炉裏の火を消そうと花弁の間を出る。こんなに長く起きていると、明日の雪下ろしに間に合わない。

 燃える火元に灰を被せながら、もう一つ大きなあくびが出た。

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