第二十四話
左手の指を波打たせるように動かし、ローザの指が火花を散らす炎へと変わった。親指を除いた四本の指が、ゆらゆらと燃える火そのもの。
その光景に目を奪われ、もっとよく見たいと畳に膝をつける。指先へと向かうにつれて黄色から赤へと変化する炎が、黒くなった火元にゆっくりと近づいていく。
火鉢の灰から頭を出している部分に赤い指先が触れ、油を垂らすようにとろとろと火が移ったが、ローザは指を離してため息交じりに言う。
「駄目だな。灰も溜まっているし、薪を取り換えないとだ」
ローザは左手を軽く払い、指へと姿を戻した火が消え、部屋に闇が戻ってくる。何も見えないが、それよりも見たことのない能力が気になって仕方ない。
「指が火に変わる力なんて、生まれて初めて見たよ。凄いんだなあ、ローザさん」
「指だけじゃなく、体全てを火に変えられる。こんな風に」
ぼう。
小さい火種から一気に燃え始める薪のような音とともに、ローザの顔半分が火に覆われた。先ほどの指など比べ物にならないほど明るく、じわじわと熱が伝わってくる。
顔を下に向けたローザと視線が合い、左側が全て火となっているのに眉や口が線を描いているおかげで、それが顔なのだと認識できた。
指とは違い、首元から頭頂に向かう火は橙から赤と、色の変化が弱い。口や顔の輪郭を形どる炎が一つに縛った髪まで表現しており、瞬きもせずにローザの顔を舐めるように見る。
唯一、瞳だけが炎に縁取られていない。
眼球はぽっかりと口を開けたように黒く、丸ではなく縦に伸びた瞳孔が橙色だ。ちらりと普段のローザである右側の目を見れば、村の大半がそうであるようにローザの瞳も淡い青をしている。
いいなあ。
うっとりするほど異形の姿に見惚れ、ローザは素晴らしい能力の持ち主なのだ、と羨望の眼差しを向けた。瞼を閉じたローザがふっと小さく息を吐き、顔の炎を鎮火させる。
もっと見ていたいと思うほど、とても良い能力だった。
「こんなもんだな」
「こんなじゃないさ、最高だよ!」
興奮覚めやらぬままにローザへと称賛を送り、それに無言で返すローザがふっと笑った気配がする。優しくもまばゆい火が消えた部屋はさらに暗く見え、しぱしぱと目が乾く感覚に瞼をぎゅっと閉じた。
畳を足の裏で擦った音が聞こえ、ローザが動いたのだと気づき、まだ霞んでいる目を開いてローザの影を探す。火鉢を持っていくのかと質問を投げかけると、ローザは当然といった声音で返答した。
「そうだが?」
「火鉢なら家でも使っているし、自分で薪も換えられる。だから手伝わせてくれ」
なにもかもローザにさせるのは忍びない。自分のことは自分でするべきだろう。その一心で発した言葉だったが、ローザはすぐさまそれを拒んだ。
「どうしてだい」
「この家にいる限り、お前はニール様の客人だ。客人を働かせるほど、私は役立たずじゃない」
端的に説明したローザの言葉に、反論ができず口を噤んだ。確かにそうだ、と納得してしまっては頷く他ない。
よいしょ、と呟いたローザが火鉢を抱え上げ、真ん中の部屋から出て行ってしまった。追いかけようとする体が、畳に押し付けた右手に力を入れるも、先ほどのローザの言葉を思い出して畳から手を離す。
ううん……。いいのか? これで。
浮かせた尻を戻し、胡坐をかき腕組みして考えるも、自分の気持ちとローザの考えが頭の中を行き交っているだけだ。できることなら手伝いたいが、それはかえってローザの邪魔になるのかもしれない。
ローザの持つ力は、この銀世界で最も重要だと言っても過言ではない。炎を扱えるのであれば暖を取ることも容易であり、炊事も火の調節が簡単なはずだ。
あの様子では風呂を沸かすことも、自分でやった方が早い、と申し出を却下されるだろう。
悶々とする気持ちで考えを巡らせていたが、座り込んでいる前方から障子の開く音が聞こえた。くるぶし辺りに向けていた顔を上げ、開けっ放しになっている障子の反対側にある、花弁の間の障子から半身を覗かせるレベッカと視線が合う。
どうしていちいち驚いているんだ。
レベッカと目が合うたびに不機嫌な表情を作ってしまうが、自分の顔を見られて幾度も驚かれていては気分も良くない。
「なんだ」
「い、いえ」
ろうそくが乗った皿の持ち手に細い指を絡ませ、あどけない顔をろうそくの弱い火に照らされているレベッカは、ちらちらとこちらを確認するように瞳を泳がせる。
「その、私は男性だとばかり……。勘違いをしていたこと、申し訳ありません」
後ろめたさと、少しばかりの落胆。
そんな感情の色が伺えるレベッカの言葉に、口元の布がないからか、と気づく。
「俺は男だぞ、勘違いもへちまもない」
「そんなっ」
レベッカは瞼を上限まで持ち上げ、障子の奥から身を乗り出すようにこちらの顔を見る。じっと穴が空くほど見つめられ、ふいっと顔をレベッカから背けた。
「そちらへ行ってもよろしいですか?」
「あ、ああ」
控えめな声を出したレベッカを横目で捉え、少々たじろぎながらも答える。歩きづらそうに何度も足を入れ替え、ゆっくりとレベッカが真正面に座った。そばにきたことに困惑しているというのに、ろうそくの皿を差し出すようにこちらへ近づけ、レベッカは微笑みながら口を開く。
「切れ長の目、厚い唇、細い輪郭。アレックス様はとても、美しいです」
きっと今、レベッカにあほ面を晒している。口は半開きになり、呆けた頭が働かない。
美しい?
言葉を反復した途端かっかっと耳が熱くなり、羞恥心が大きく暴れ出す。容姿を褒められたことはなく、人に顔を見せた経験も少ないからか、とっさに否定の言葉が思い浮かばず口ごもった。
「お、俺は男だ。美しいかどうかなんて、そんなこと知らん」
突き放すように言いながら睨むが、感想を述べたレベッカは柔らかく笑っている。こちらの羞恥を見透かしているような笑顔に、なにも言い返す気になれず口を引き結ぶ。
「お化粧が似合いそうです」
「勘弁してくれ……」
ため息交じりに視線を落とし、目を合わせないようにとレベッカの首元を見る。
服の立っている襟が二枚ほど見え、どうやら服を二重に着ており、そのうえ羽織にも袖を通しているようだ。
着込んでいるレベッカの服は黒に見えたが、揺れる火が近い袖や羽織は藍色。黒に見えるほど濃い青は黄金色の髪を目立たせ、白い肌をより輝かせている。
似合っている、と素直に頷いてしまいそうになった首に、急いで右手をあてがった。
「ローザ様はどちらへ?」
「こっちの部屋にあった火鉢が消えかけていたんだ。火をつけ直すために下へ行ったんだろう」
月の間へ入ったあとに閉めた障子へと首をひねり、下の土間に薪が並んでいたことを思い起こしながらレベッカの質問に答える。
「そうですか。ローザ様ならきっと、すぐに終わらせるのでしょうね」
ローザなら、と言ったレベッカの口ぶりから、ローザの能力を自分と同じように見たのだと知る。顔を戻し見れば、ろうそくを眺めるレベッカの瞳は寂しげで、物悲しい雰囲気が漂ってきた。なにも言えないまま押し黙り、レベッカの心情を推し量ろうと考え込む。
なんらかの力があることは赤毛にとって珍しいことではなく、今一つレベッカがこの村に駆け込まなければならなかった事情に共感できない。
能力を持たない者で形成された世間では、恐れを抱かれ、疎ましく思われるからなのか。想像することも難しいほど、この村は力を発現させることが前提なのだ。
稀にだが、死ぬまで能力が発現しないままだった人間がいた、という話に聞き耳を立てていたことがある。
何世代かに一人という少ない確率だが、周りに素晴らしい能力を持つ者たちで溢れるこの山で、劣等感を拭えないのは能力を持たない者だけではない。
はっきりとした異形の姿になれない。能力が弱い者。強すぎる能力をうまく扱えない者。そもそも能力を持たない、ごく少数の人間。
理由は違えど、皆が一様に自己嫌悪に陥っている。誰にもそれを明かすことなく、告げることもなく死んでいくことは、果たしてどれほどつらいのか。
嘲笑うことも、のけ者にすることも村の人間はしないが、受け入れられている気がしない生活で、うまく息を吸えていたのだろうか。
こと、と小さく音を立ててろうそくの皿を置いたレベッカが、正座をしたまま膝の上で手を組んだ。逸れてしまった考え事から目を背け、落ち込んでいるようなレベッカを伺い見る。
長い睫毛を伏せ、小さく血色のいい下唇を噛み、眉尻を下げたレベッカは少女ではなく、大人びた女性。色っぽく見えたのはきっと、白い肌に影を落とす闇のいたずらだ。
レベッカがこの山に来ることになった事情を思い浮かべ、雑念を排除しようと注力する。目の前の少女は十四歳にして実母に殺されかけ、手がかりを探り当ててこの山へたどり着いたのだ。
咳払いをしたくなるほどの重い沈黙に喉が詰まり、話しかけた方が良いのか、このまま黙っていた方がいいのか、秤が頭の中で上下する。
人は傷つき、障壁を乗り越えることで大人になる。
そう言って頭を撫でられた記憶が呼び覚まされ、うまくできる自信がなくとも、それを模倣するために左手を伸ばした。
ぽんぽん、と頭ではなく肩を叩いたことで、顔を上げたレベッカと視線がぶつかる。どうしても頭を撫でる勇気が出ず、できる限り柔らかく叩いた肩から手を引っ込めた。
「なんでしょう」
「……つらい、のか?」
先ほどよりも思いつめた表情を浮かべ、こくりと小さく頷いたレベッカは肯定をしただけで、本音を話そうとはしない。
馬鹿なことをした。今つらいのか、と疑問をぶつけたところで、つらいに決まっている。つらかったんだな、と気持ちに寄り添う言葉の方が良かったと、気づいたときには後の祭りだ。
途切れてしまった会話を持ち直す打開策などあるはずもなく、口下手のくせに慣れないことをしたからだ、とこの場から逃げ出したい気持ちで頭がはち切れそうになる。
「アレックス様のお母様は、どんなお方ですか」
話題を変えようとしているのか、それとも自分の母との違いを知りたいのか。か細い声で問いかけるレベッカに、部屋から逃げるのではなく誠実に答えようと母を思い浮かべた。
「母様は村一番の美人だった。よく笑い、その反面涙もろい母だったよ」
懐かしい、本当に。
一緒にふざけ、家の中を駆け回って遊び、自分が怪我をしようものなら号泣しながら手当てをしてくれた。寝付けない夜には母の布団で二人分の体温に安心して眠りにつき、不安や怒りを抱えきれなくなったときは何時間でも話し合ってくれた。
母が、大好きだった。
「良いお母様なのですね」
心からそう思っている顔には見えないが、翡翠色の瞳には妬みに近い感情が隠れている。
自分の母が悪人で、目の前の男が言った母は善人だと、認めたくない。どうして自分は命を奪われかけ、目の前の男は幸せそうにしているんだ。そんな声が聞こえてきそうだ。
実際には違うのかもしれないが、レベッカからは他人を羨む気持ちと、誰かの母親へ向ける拒否感が見て取れる。
ここまで素直ならば、足元を掬われても仕方ない。
本人は隠そうとしている。声音を変えることも、こちらを睨むこともないが、表情には嘘をつけないようだ。僅かに目を細め、上がっている口角を横に引くレベッカは、自分自身を納得させようと沸き上がるものを押しとどめようとしている。
その傷を癒し、荒れ狂いそうな心を落ち着けられるなら、こちらも少しだけ胸襟を開こう。なにより、自分のためでもある。
「母様がいなくなって、ずいぶん経つがな」
自嘲するように口角をくっと上げ、ゆっくりと口周りを元に戻す。母がいなくなったことは紛れもない事実であり、受け止めきれていない現実でもある。
後悔、負い目、微かに浮かぶ親近感。
レベッカは複雑な感情で顔を彩り、動揺に瞬いていた瞼を力強く開いた。
「亡くなった、ということですか」
「いや、家を出て行ってしまった。雪のない大地を踏んでいるか、どこぞで果てたか、行方がわからんままだ」




