第十九話 「許し」
「無理だ」
「そんな、わかりませんわ。お爺様にお許しを与えられる可能性だってあるはずですもの」
私の部屋へ再び訪れた父に私の考えを伝えるが、それを無表情で一刀両断されてしまった。食い下がるように一縷の望みがあるはずだと言うも、父は首を振る。
「お前が私の務めを理解してくれることは嬉しいが、その補佐になることは許されないことだ」
真剣な父の視線に射抜かれ、私は眉尻を下げて口を結ぶ。
なぜ言い切れるのか、許されないことを願っているわけではないはずだ。聞き返したいことが頭の中で膨れ上がるが、それを口に出すわけにもいかず、腹の前に組んだ手を握り込む。
「レベッカ、お前は国王の直系の孫だ。お前の母が王になれば、次はお前が補佐となって貢献し、後継者として国王の務めを学ぶことに尽力しなければいけない」
私の隣で遊んでいるわけにはいかないんだと、父は叱るように言い聞かせる。私は遊ぶために父の補佐になりたいわけではない、父と共に生活を送りたいだけだ。
父と同じ場所へ赴き、寝食を共にし、務めをする父の手足となる。今の私では使い物にならないが、きっと役に立てるようになってみせる。
でなければ、私の人生は、王家の血で左右されることになるだろう。
王家に産まれたのだから、いずれは国を治めるのだから、と決められた道筋をなぞるだけの王女でいなければならず、それが正しいと思い込んだまま生きていく。
嫌だ。
こんなにも息苦しい王女の座なら、国王に返上したってかまわない。そんなことはできないとわかっているが、望みを国王に言うだけなら無理ではないだろう。
母の補佐になるのも国王が崩御するか、生前で母に継がせるかの二択だ。そこから努力しても、私なら間に合うはずだ。
勉強は得意だもの。
「わかりました。では明日、お爺様にお話をしに行きますわ」
「……ベッキー、聞こえていなかったのか?」
「いえ、はっきりと聞こえておりました。ですが、良い方向へ転ぶかもしれないという期待を、無視することはできませんの」
言い切った私から視線を外し、父は右手で額を覆った。大きい手のせいか、瞳まで隠れてしまっている。
父は大きなため息をついて、額から手を外した。呆れているような、諦めたような表情を私へ向けている。
「明日の朝、私から国王への謁見を許可してもらっておこう。迎えに来るよ」
「ありがとうございます、お父様」
ため息交じりに約束をした父に、私は満面の笑みを浮かべる。
まだ許されたわけではないというのに、私の気持ちはすでに高揚してしまっている。父は喜ぶ私を見ながら、敵わないな、と困ったような顔で笑った。
「では、明日の朝に。おやすみ、良い夢をね、ベッキー」
「はい、良い夢を。おやすみなさい」
挨拶を交わし、部屋を出る父の見送りに立ち上がった私の頭に、軽い口づけを落として微笑んだ父がすぐに扉で見えなくなる。
浮足立った私はソファから離れ、少し歩いた先にあるベッドへと腰かける。木枠のぎっと軋んだ音とともに、視界の端にオルゴールボックスが映り込んだ。
並んでいるランプよりも背が低いが、滑らかな手触りと重量のあるオルゴールボックスに、下ろしたばかりの腰を上げて近づく。
背面にあるぜんまいを回し蓋を開ければ、三つ並んだ楽器たちが踊り出す。聞き慣れた金属音が音楽を奏で、私はゆっくりとした音色に酔いしれた。
オルゴールボックスについている引き出しを開き、きらきらと明かりを跳ね返すブローチを手に取った。
私の瞳を連想させるエメラルドのように、きっと今、私は目を輝かせている。左右に傾けたブローチが、少し曇っていることに気づき、ブローチの下に置いていた布を取り出した。
あの成人の日に触れたからかしら。
指紋や汗で曇ってしまっているのかもしれない、と私は丁寧に曇りを拭き取る。針の部分やエメラルド本体も軽く拭き上げ、はっとする。
あのネックレスとイヤリングも拭いておかなければ、やがて汚れが取れなくなる。だが、ヴェロニカは父が席を外させていて不在だ。
父が自室へと戻る前にヴェロニカへ従者を向かわせていれば、もうすぐ戻ってくるだろうか。
ブローチを眺め、戻ってきたヴェロニカに、あのジュエリーを持ってこさせようと考える。あれは元々赤毛たちのものだが、それを知っていようがいまいが、大切にしようと母に渡された時に誓っていた。
あれを返すことは、できないのだろうか。
成人の日と結婚式にだけ着ける、特別なものだと母は言っていた。
これから私が結婚するときも、私の子どもが成人するときも、受け継がれていくジュエリー。
けれど、あれは私たちが持っているべきものではない。
赤毛の長から奪い取り、手を加えて私たち金髪に合うように作り替えたものを、いままでも、これからも、私たちの手元に置いておくなど傲慢だ。
「でも、どうしようもできないわ」
規則正しかった音色が、よろける足で歩くような不揃いなものになり、やがて止まった。オルゴールボックスのぜんまいを再び回す気にはなれず、ブローチを布で覆って手に持ったままベッドの縁へと浅く座り直す。
赤毛たちの所在がわからないのでは、面と向かってジュエリーを渡すことなど不可能だろう。
父の務めに付いて行けば、赤毛を見たという噂が広まったところへも行けるかもしれないが、町に赤毛がいる確率は低い。
港があり、漁師たちがいる海辺の土地ではまず無理だが、木々に覆われた山であれば何人でも隠れられる。
いるとなれば、きっと山の中に住んでいる。
問題は、どの山にいるかという点だ。
海に囲まれた島にあるこの国は、その多くの土地が山や草原だ。
父が会ったという旅人の話では、島の左辺りには背の低い山が連なっており、そこからならば馬車でも山を越えられるという。
反対に、右側の山々は崖を上るように急な斜面を持ち、そのほとんどが頂上の見えない高い山。
先日ヴェロニカが持ってきたメープルは、内陸部に生えている木々の樹液だと言っていたが、この島には当てはまる土地が多すぎる。
本はあれども地理の描かれた図面はなく、私には島がどんな形をしているのか、大きいのか小さいのかもわからないが、旅人が行き交うような背の低い山に、赤毛たちはいないだろう。
山頂が高く、人を寄せ付けない山。
回転させていた思考が弾き出した答えは、父がコートを買ったという寒冷地。その雪が降り積もる土地で、赤毛を見たという噂が広がったならば、それは筋が通った仮説になる。
だが、賑わう土地で姿を現すなど、果たして彼らがそんな軽はずみな行動を取るだろうか。
「レベッカ様、参りました。湯浴みをいたしましょう」
「おかえりなさい、ロニー。後で持って来てほしいものがあるの」
立ち上がった私はヴェロニカへ、薄く笑って頼みごとをした。
朝食を終えた頃になれば、父が顔を出すと思っていたが、昼を過ぎても父は現れていない。
謁見の許可が下りなかったのだろうかと心配をしながら、私はジュエリーの手入れをしている。昨夜は湯あみをしてすぐに眠ってしまい、朝から少しずつ拭き上げているのだ。
ネックレスは宝石の数が多く、終わるのに時間を要してしまった。三つの宝石が連れ下がるイヤリングの一つを拭いている最中だが、ちらちらと扉を気にしてあまり進んでいない。
父が扉をノックしたのは、夕食を終えて少ししたとき。
「心配いたしましたわ」
「国王たちも忙しいようだ。今の時期ではジエラ家とのこともあるからね」
ジエラ家、という見知らぬ単語に首を傾げ、それはなんだと問う前に、準備はできているかと、先に質問されてしまう。
「ええ、これでよろしいでしょうか」
「似合っているよ」
国王である祖父へ会いに行くために部屋を出るのは、実に四年ぶりだ。
あれは十歳になる前だったか。日差しの強い夏にしては、どんよりと薄暗い曇りの日だった。
五つ、十、十五と、祖父には五年の歳月を越して会いに行くことが決まっている。それ以外で、国王に謁見を請うことはない。
息災かと問われた言葉に、国王へ、王陛下のいらっしゃる限りと返す。決まった言葉を言う、それだけの短い時間だが、私は祖父の全てが恐ろしいと感じた。
玉座に腰かけた細い体、人を虫けらのように見る瞳、眉一つ動かさない表情、宝石の付いていない美しい深緑色の服、黒いローブを羽織った狭い肩、白髪交じりの短い金髪が整えられた頭。
父とは違う祖父の低い声が反響する聖堂は、私を縛りあげるような緊張感で張り詰めていた。
同じ聖堂で成人の日に見た祖父は、皺が深くなっており、だらんと顔の皮膚も垂れていた。
久しぶりに見た祖父の顔が老いているのを目の当たりにして、入り口に立ったまま私の足が数秒動かないほど驚いたのを覚えている。
外見が老いたとて瞳や声は変わっておらず、あの日に命じられた言葉は、一層祖父への苦手意識を植え付けた出来事だ。
「ベッキー、どうかしたか。焦ることはないんだ、今日はやめておくかい?」
「いえ、考え事をしていただけですわ。私は今日、お爺様の元へ参りたいのです」
私の顔を中腰になって覗き込む父に、首を振ってまっすぐに目を見つめて気持ちを伝えた。
苦手な祖父であり、神の子孫である尊い国王に会いに行くのだから、と私は透けることのない素材を使われたドレスをヴェロニカに選ばせておいた。
すとんと落ちた裾に合わせたように、喉まで伸びた襟が特徴的な明るい緑のドレス。胸元にはドレスよりも深い色を輝かせる、父のくれたエメラルドのブローチをつけている。
ここまで用意しておいて、謁見の許可も下りているというのに、行かないという考えは持ち合わせていない。
少し訝しんでいるような父は、そうか、と言って私の隣へ立ち、左肘を曲げた。
その肘へと後ろから右手を添わせ、私は父の半歩後ろを歩く。
扉を開けたヴェロニカに、行ってくると告げた。
「行ってらっしゃいませ。ヴェロニカは湯あみの準備をしてお待ちしておりますね」
頭を下げたヴェロニカを通り過ぎ、父の従者が一人だけ私たちの足跡をなぞるように付いてきている。
部屋を出て左へと進み、長い廊下を突き当りまで歩けば、今度は右へと振り返る。階段を下り、リベルを名乗ることを許された日に歩いた聖堂への道を、記憶を辿るように父と進んでいく。
到着した聖堂の大きな扉の前で、私は大きく深呼吸する。緊張から小刻みに喉が震え、吸っているはずの空気が少ない。
「頼む」
「かしこまりました」
緊張を解そうと呼吸する私の横で、父がついてきていた自身の従者へ声をかけ、了解の旨を告げた従者の男が父の前へ立った。
そして、白い布を父の顔にあてがい、それが落ちることのないように頭へと紐で縛り付けている。
私は目を見開いたまま、息を吐いていた口をぽかんと開けてしまう。
なぜ父だけがこんなことをしているのか理解できず、従者の男も手慣れているような動作だったが、まさかいつも謁見のときにしていることなのか。
驚愕している私を置き去りに、父は従者の男に扉を開けさせようとしている。緊張はどこかへ飛んで行き、私は練習しておいた言葉もうっかり手放しそうになった。
だめだと小さく頭を振り、国王へ願い出る言葉を反芻する。
がたりと開かれた両開きの扉をくぐり、布に顔を覆われた父はなんなく玉座まで歩いていく。
のろのろとした歩調で、床を踏みしめるように進んでいく。少し顔を伏せているが、周りを瞳だけを動かして見渡す。
ここは、聖堂という名前が相応しいほどになにもない。
国王の側で仕える従者一人おらず、騎士たちの姿など見たこともない。私たちが歩いている真ん中の床が、互い違いに色の違う石が埋め込まれているだけで、装飾といった豪奢なものは何一つない。
壁の高い場所に細長い窓があるが、日の光が入らない今の時間では、ぽつぽつと並んだランプの明かりで照らされている。
弱い明かりでは、進む足を止めさせようとするほど、薄気味悪い。
近づいた玉座は床より二段ほど高く作られており、白い玉座の椅子に、祖父が感情のかけらもない顔で座っている。ちらりと右側を見れば、母が玉座ではなく床に足をつけている。
ぼうっとして心ここにあらずといった表情だが、私とすこしだけ絡めた視線は、とても冷えたものだった。
玉座の少し手前で立ち止まり、父は跪き、私は両膝を折って床につける。
「キャロルよ、病はもう良いのか」
「王陛下のいらっしゃる限り」
腹をぐっと掴むような国王の声に、四年前と同じ言葉を国王へ返す。
私に無言で頷いた国王は、父へと声をかける。
「申せ」
「感謝いたします。レベッカ様がわたくしめの務めを手伝いたいと仰られ、それにお許しを頂くため、参上した次第でございます」
国王の許可が下り、それに感謝を述べた父が顔を上げて要件を伝えたが、私は伏せ直した頭を上げかけてしまった。
父が私をレベッカ様と呼び、自身をへりくだった話し方で、私が伝えようとしていた言葉を父がすべて伝えてしまったのだ。
私の練習していた言葉はいらなかったのか、と床を見たままきょろきょろと視線を泳がせる。
「キャロルよ」
「は、はい」
「そなたの気持ちは、どうなのだ」
見上げた先にいる国王は、私を虫けらのような目で見ている。返事に詰まってしまったが、自身の気持ちを問われて反芻していた言葉を口に出す。
「私は……」
まだ口を開いたばかりだというのに、私は言葉を切ってしまう。国王の射るような視線のせいではなく、耳鳴りが近づいてくるのだ。
きいん、きいん。
聖堂の外から聞こえているような金属の音が、段々と私の耳をつんざくようなものに変化していく。
なんなのかしら、この音。
国王は黙って私を見つめたままだが、私はそれを気にする暇もない。せわしなく左右を見渡し、手を耳に当てては外すことを繰り返している。
うるさいほどに大きくなった耳鳴りに、ついに耐えきれなくなった私は体を丸めて床に伏した。ぎゅうっと瞼を閉じ、塞いだところで変わらないのに、反射的に両手で耳を隠す。
父の大きな手が、私の背中と頭をさすっているが、なんの反応も返せない。
ぐわんぐわんと自身の脳が揺られているような感覚に陥った時、耳鳴りが止んだ。
異端じゃ。異端者じゃ、異端者じゃ。
年老いた男の力ない声がする。四方八方からする声に、私は体を強張らせたまま動けない。
異端とはなんだ、異端者とは私のことか。そんな疑問を埋め尽くす頭の中に、けたけたと嫌な笑い声が響く。
異端者が生まれてしもうた。のう、レベッカよ。
男の力ない声が真左から聞こえ、心音が止まる。驚きと恐怖で息を飲んだ刹那、頭を握りつぶされていくような痛みに叫ぶ。
断末魔のような叫び声をあげる私に、驚いた父がさすっていた手を離した。
痛みに耐えきれず、がんがんと床に額を打ち付ける私の名前を呼ぶ父の声が、私の叫び声に加わる。
ふっと意識が飛び、目の前が真っ暗になった。
「レベッカ!」
静かな聖堂で響いた父の声を聞きながら、意識を暗闇へと引きずられた。
あの盲目となって過ごした日々のように、暗い中で私の息遣いが聞こえる。
頭痛もなく、耳鳴りもしない。それなのに、言いようのない不安感が腹の中で渦巻いている。
吐き気にも似たそれを落ち着けようと、少し歩いてみるが、景色は黒一色のまま。
逃げろ。
あの少年の声が聞こえる。明るい銅の色をした背の高い少年が、どこからか逃げろと私に囁いている。
「どうして?」
問いかけても、聞こえてくるのは逃げろという一言だけ。
「どこにいるの?」
様々な方向から聞こえる少年の声に、私は立ちすくんで質問を投げかける。
私の声が届いていないのか、少年は繰り返し逃げろと言う。
「どこへ?」
雪、海辺、獣、遠く、木々。
今度は次々に単語が降ってくる。場所を思わせるものを言っていた中で、一つだけ違うものが混じっていた。
妹。
私に妹はおらず、ましてや兄姉もない。
ならば、この少年の。
「あなたの妹? 妹がどうかしたの?」
頼んだ。
消え入りそうな少年の声が聞こえたあと、足元の底が抜けたようにぐらりと崩れ、落ちていく。
ぐわんぐわんと頭の痛みを引きずったまま、私は父の腕の中で目を覚ました。
「レベッカ! 大丈夫かい」
「……はい、お父様。申し訳ありません、王陛下」
叫びすぎたのだろう、がらがらと掠れた声で国王へと謝罪をする。父は私を玉座の方へと向けて抱いており、力が入らないまま国王を見上げた。
変わらず冷たい瞳を向ける国王は、良い、と言う。
ぐったりとしながらも、私は膝を床につけて先ほどと同じ体勢に戻った。国王へ視線を上げた私は、続きを伝えるために初めから言い直す。
「私は、私が母の次に国王になることを承知しております。ですが、私は知識を持つだけの世間知らずなのです。どうか、見分を広めることを、父の手足となることをお許しいただきたい」
頭痛が気にならないほど、私は祖父である国王の瞳を力強く見つめて言い切った。この言い分で私の願いが許されるとは思っていない。
けれど、私の気持ちは変わらないのだ。何度だって謁見の許可をもらい、何度でも願いを請うことになるとしても諦めたくない。
国王は下がりきった口角を動かし、可否を伝えようとしている。
その間がゆっくりに感じ、どくどくと脈打つ心臓が痛い。
どうか許して、お爺様。
「そなたが世間を知りたいと、父の助けとなりたいという願い、聞き入れよう」
「ありがとうございます、王陛下」
詰めていた息を細く吐き、国王へ感謝を伝える。
まさか一度目で許可が下りるとは思ってもみなかったが、これでもう一つの願いが叶うかもしれない。
「婿よ」
「はい、王陛下」
私の左隣へと視線を移した国王が父を呼ぶ。なぜ名前で呼ばないのかという疑問がひっかかるが、次に出てきた国王の言葉に目を見開いた。
「給金を出してやれ、その分の金は私がお前につけてやろうぞ」
「承知いたしました。お申し出をありがたく頂戴いたします」
「では、行け」
父は動揺する様子も見せず、側に来て私を立ち上がらせる。ゆっくりと立たされた私は、挨拶の礼をするためにドレスの中で足を揃えた。
膝を軽く曲げながら右足を引き、太もも辺りの布を右手でつまみ礼をする。
俯かせていた頭を上げ、祖父の顔を見たときに、呼吸することを忘れた。
老父が祖父の頭を包み込むように抱きしめている。その老父は、セドリックやヴェロニカの背中にいた男性とは違う。
目が真っ黒にくり抜かれ、口は左右に裂け、体の輪郭が揺れているのに、がたがたと顔も体も動き続けている。
祖父の頭を抱き締めたかと思えば、万歳をするように激しく腕を動かすことを繰り返し、老父の体から黒い霧が散っていた。
私は恐怖に支配され、奥歯がかちかちと音を立てるほど体が震えている。
額が胸につくほど曲がることも、肘が内側に向くことも、およそ人のする動きではない。
ぐるんぐるんと回っていた首が動きを止め、真っ黒な空洞が私を見つめる。
異端者よ。
真左からまた、あの男の力ない声が聞こえたが、見えている老父の口も、いたんしゃ、と動いた。
裂けた口が弧を描き、けたけたという笑い声とともに赤黒い舌が見えたところで、私は走り出していた。
祖父たちから逃げるように見えることも気にならないほどに、必死に足を動かす。
階段でドレスを踏みつけ、よろけた体は角に打ち付けられるが、気にしてなどいられない。長い廊下を駆け抜け、自身の部屋で待っている、もう一人の母への扉を荒々しく開いた。
鏡台の前で作業していたらしいヴェロニカは、ぎょっとした顔で私へと向き直る。
どうしたのか、とヴェロニカが口を開く前に、足をもつれさせながらヴェロニカの懐へと飛び込んだ。上下する肩に手を置いたヴェロニカに、私は涙を浮かべ、途切れる声で伝える。
「助けて……、お母さん」




