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イエローマダー  作者: 沖 晶
第一章
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第十四話 「しばしの休息」

 視界に鮮やかな色を取り戻した朝から、私の耳は一向に良くならない。ヴェロニカの言葉も、朝食を取るときに鳴るナイフの音も、足音すら細やかに聞こえてくる。

 自分の声だけがくぐもって聞こえ、ヴェロニカに声が変ではないかと問うたが、それにヴェロニカは首を傾げた。


「いつもと変わらない、かわいらしいお声でございます」


 私の声音がかわいいかどうかは質問の意味に入っていないが、ヴェロニカにそう思ってもらえているならと、私は苦笑しながら礼を言う。

 昼食も終えて、もう少しでお茶の時間だ。

 分刻みで行われていた授業も、成人のお披露目の日からなくなり、まだ流行り病が癒えていないという嘘をついているために、王女としての務めもない。

 王女としての務めや勉強のために時間を費やせば、こんな風に穏やかな昼間を堪能することも叶わなくなるだろう。


 少しのいとまを与えられたのだと考えた私は、発現するであろう能力のことを深く考えないようにしている。

 顔に出てしまえば、ヴェロニカも私を心配する。父に言われた通り、狼狽えないようにするべきなのだ。


「一過性の症状で本当に良うございました。めしいたレベッカ様を見るエルドリッジ様が、とても痛ましく……」


 先ほどのことのように語るヴェロニカに、父がどんな顔をしていたのか問う。


 悲しそうとも、悔しそうとも取れない表情で私を見ていたが、私が微笑めば父も応えるように笑っていた。

 声音が明るくとも、別れる際にはじっと私を心配そうに見つめていた。

 愛情の詰まった行動は親だからできることではなく、私を愛している父だからこそできた。


 しみじみと語るヴェロニカの答えは、私に想像もつかないものだった。あの平穏で冷静な父が表情を取り繕うこともせず、ヴェロニカにそれを見せても構わなかったということになる。

 本当なのかと疑いたくなるが、ヴェロニカはうんうんと頷いて感慨深いといった表情だ。ヴェロニカが意味もなく嘘をつく理由も見当たらず、私は驚きを隠せない。


 次に会えたとき、父はどんな顔をするのだろうか。

 目が見えるようになったことを、私は意図的に隠している。なにか見えるようになっとしても、誰にも教えてはいけない。そう言った父の言葉を守り、目が見えるようになったことも黙っている。

 伝えるなと言ったときのヴェロニカは不思議そうな顔をしていたが、驚かせたいのだと言えば、ヴェロニカは楽し気に笑った。


 本当は、父に私のことで一喜一憂させたくないのだ、そのせいで務めの邪魔をしたくない。目が見えるようになったことを、父は喜んでくれるだろう。

 それは同時に、力の発現が近いということも含まれる。一難去ってまた一難では、私よりも父の方が気が休まらない。


 どんな能力が私の中に眠っているのか、私自身もわからない。開花するか、そのまま蕾が落ちてしまうのか。

 自分の身に起こっていることを、私は噛み砕いて飲み込んでいくしかないが、父は違う。父は私の力が発現することを恐れていたわけではなく、その後のことに気を揉んでいた。


 病にかかり、床にせってしまった病人はつらいかもしれない。それでも看病するために動いてくれる家族の方が、臥せっている当人よりも何倍もつらいはずだ。

 あれこれと気遣い、体を丁寧に拭き、食事を取らせ、務めや家事をこなす。そんな生活では身も心もすり減り、疲れ果てた先で、心中を選ぶ者たちもいるだろう。


 私は、そんなお父様を見たくないわ。私のことで、やつれてしまうなんて。


 だから黙っておけばいい、知らせなければいい、その方が父のためになる。私は会いたい気持ちを誤魔化すように、自分を納得させた。


「レベッカ様、お茶の用意が整いました。菓子は果実でございますが、少々珍しいものが手に入りました」

「珍しいもの?」


 ソファに座って考え込んでいた私に、ヴェロニカが声をかける。それはいたずらっぽい笑みのようにも見えるが、なにか企んでいるのだろうか。


 扉を開けたヴェロニカがワゴンを他の使用人から受け取り、部屋の中へと運び入れる。かちゃりかちゃりと鳴るカップはソーサーの上で裏返しに置かれ、丸いころんとしたポットからは細い湯気が昇っている。

 赤と黄色の輪切りになった果実が横倒しに並べられた皿と、小さなバゲットが二つ重ねられた皿がある。

 その隣に、二杯目に必ず入れるミルクの入ったクリーマーとは別で、もう一つクリーマーが横にある。


 もう一つのクリーマーの中にある液体が珍しいのだろうか、それともバゲットが珍しいものなのだろうか。

 ソファに浅く腰かけ直した私の前に、ヴェロニカがテーブルへ次々にカップや皿を置いていく。果実の皿はそのまま置かれ、次にバゲットの皿が並べられた。バケットの隣にクリーマーが置かれ、中を覗き込みたい衝動に駆られた。


 王女として行儀の悪いことはできず、腹に力を込めて背中を曲げないように耐える。ヴェロニカがカップへお茶を注ぎきるのを待ちながら、私は楽しみな気持ちが抑えきれない。

 じっとしていられず髪を耳にかけたり、無意味に腕を撫でてみたりと、誰の目に見てもそわそわしているだろう。


「お待たせいたしました」

「ええ、頂くわ」


 ソーサーに乗ったカップをことりと置いたヴェロニカに、私は微笑んで持ち手に指をかける。湯気の上がった赤茶色の液体は、見た目ほどは熱くはない。

 傾けたそばから口の中に流れ込んでくる温かいお茶の香りが、ごくりと飲み込んでから鼻に抜けていく。花でもなく木でもない、そんな形容しがたい香りに胸を膨らませて、ゆっくりと息をついた。


「美味しいわ。ロニーはお茶の名手めいしゅね」

「ありがとうございます。レベッカ様が気になられていたこれを、ヴェロニカが入れるお茶のように、気に入っていただけると嬉しいのですが」


 うきうきとしたヴェロニカは重なったバゲットに、クリーマーの中に入っているものをかけていく。それはカラメルのように暗い色をしているが、とろりと細い線になってバゲットに吸い込まれたあとは、白いバゲットのせいか明るいブラウンになった。


 苦い、のかしら。


 カラメルを彷彿とさせる色に、私は少し尻込みしてしまう。砂糖が使われたお菓子はもちろんのこと、苦いものは昔から嫌いなのだ。


 お茶は渋くとも苦くはなく、ほんのり甘いミルクとの相性もいい。レモン水やただの水よりも、私はお茶が好きなのだが、目の前にあるバゲットはどんな味がするのだろうか。

 バゲットを小さく手でちぎり、苦いのは嫌だなんて考えながら口の中に放り込む。小麦の柔らかい香りと、噛んだ時にじゅわりと染み出してきた液体の甘い味が、鼻と舌をいっぺんに埋め尽くす。


 味がついていないバゲットもいいが、これは別格だ。砂糖の甘さでもなく、果実の甘酸っぱいものでもない。

 存分に味わってから嚥下し、気に入ってもらえるかどうか心配だという表情のロニーに、美味しいと笑う。


「それは良うございました、気に入っていただけてなによりでございます」

「これはなんというものなの? 果実とも菓子とも違うわ、なにか特別なものなのかしら」

「特別といえばそうですが、これは木々から採れる樹液にございます」


 私は空いた口が塞がらなかった。うんともすんとも言えなくなってしまった私に、ヴェロニカは丁寧に説明を始める。

 海に面している地域より上に生えている木々の樹液が、古くは栄養源として、今では甘味料として売られている。その樹液を高い温度で、長い時間をかけて煮詰めることによって、より甘くなり色も濃くなる。


 煮詰めたあとにはちみつと混ぜ合わせることによって、この独特の味を緩和したものも売られているという。

 ヴェロニカの話に、こくこくと頷くことしかできない私に、これははちみつの入っていない、人によっては好き嫌いが分かれるものだとヴェロニカは言う。


「そうね、きっとこれは極端に分かれるでしょう。でも、私は気に入ったわ」


 木の樹液からできるものだと、詳しい説明を聞いたというのに、私はまだ衝撃を受けている。ねっとりと舌に張り付くような粘度と甘さは、砂糖のようだがまるで違う。

 香ばしくもある香りと後を引かない甘さが、なんとも絶妙なのだ。砂糖の入った菓子が食べられなくなった私にとって、これはとても嬉しい。


「メープルと呼ばれております。はちみつが混ざっているものも、次の機会にご用意いたします」


 樹液の採れる時期が限られているため、採取できた樹液の量は多くなく、メープルだけのものはすぐに売り切れてしまう。その点、はちみつを混ぜ合わせたものはメープルの比率が少ないため、売れ行きが良くともそうそうすぐには店から消えない。


「そう、貴重なのね。では、今度ははちみつの混ざったものを楽しみにしているわ、ロニー」


 私の言葉を受け取り、静かに頭を下げたヴェロニカから視線を外して、少し冷めたお茶を飲み込んだ。



 バゲット、お茶、果実をゆったりと楽しみ、カップの中にあるお茶は三分の一ほどしか残っていない。

 指をかけて口に運ぶ前に、私はお茶の色が濃い赤から、明るい赤茶に変わっていることに気がつく。何気なく飲んでいたが、今日は違う。


 この色、赤毛の男の子と似ているわ。


 夢で見た赤茶色の髪を持つ少年の髪色と、白いカップの中にあるお茶の色が重った。短い髪を風に吹かれようとも知らん顔で、私を睨んでいた灰色の瞳。最後に笑った少年の顔は、まるで私を慈しんでいるようだった。


 まるで私を泣いている妹のように、頭を撫でてあやした少年は、なぜ私の夢に出てきたのか。

 赤毛の人々と交流を持ちたいと願っていたために、夢の中で作り上げた私の理想なのだろうか。夢には願望が多く反映され、記憶を追体験することもあるのだから、きっと見たい夢を脳が映し出しただけだ。


 関係がないと言い聞かせ、カップを傾けて冷めてしまったお茶を飲み干す。沈んでいた茶葉の渋みが口に広がり、苦みにも似たそれに顔をしかめる。


「ロニー」

「お待ちを」


 なにも言わずとも、空になったカップを私から受け取ったヴェロニカは、すぐに二杯目のお茶を注ぐ。

 ミルクとお茶をスプーンでかき混ぜる、なんてことをしなくてもいいように、ヴェロニカは先にミルクを入れる。ポットに残っているお茶を最後の一滴までカップに入れ、私の前にあるソーサーへ音を鳴らさないように置いた。


「お砂糖は……、いえ、失礼いたしました。はちみつをお入れしますか」


 ヴェロニカが私に謝ることは滅多にないが、これはつい先日までの癖だろう。二杯目はミルクを入れ、それに必ず砂糖を入れる私に、ヴェロニカは砂糖の数を聞いていた。


 だが、砂糖を受け付けないようになってからは、蜂蜜を垂らしてもらっていた。量をどれくらい入れるかなどと、暗闇が目の前を覆う私にはわからない。

 だからヴェロニカに丸投げしていたのだが、カップをヴェロニカに差し出した私が、目の見えていた頃と変わらない動作なのだ。ヴェロニカは、砂糖を嫌う前の私と混同したのだろう。


「ええ、いつも通りに」


 私の隣に来たヴェロニカは頭を下げ、テーブルの横で屈みこんだ。スプーンで瓶からすくった蜂蜜をカップの中へ回し入れ、お茶から引き抜いたスプーンを持ったまま、さっと立ち上がってワゴンの裏へ移動する。


 無駄のない機敏な動きをするヴェロニカが、時折ぼやけて見えるのは気のせいだろうか。特に後ろを向いているときに、なぜか体が二重になっているように見えるのだ。

 ぎゅっとつむった目をゆっくりと開くが、そこには変わらず背筋を正しているヴェロニカが立っているだけ。


 まだ目が本調子じゃないのかしら、嫌ね。


 小さく息を吐いて、ぬるいお茶を一口飲む。ミルクが入っているお茶は、渋みが少なくすっきりとした後味だが、はちみつの甘味を感じられた。

 少ししか残っていない果実を最後に取っておこうと、カップに口をつけようとしたとき、誰かが扉をノックする音が響く。

 ヴェロニカが足早に扉へ近づき、私はカップをソーサーに戻した。扉を少しだけ開けたヴェロニカのスカートや髪が、やはりずれて重なって見えている。眉根を寄せ、目を細めた私は数回瞬きをして、ヴェロニカを見つめた。


 再度ぎゅっと力強く瞼を閉じ、開いたあとにヴェロニカの背中に誰かが張り付いているのが見えた。


 驚いた私は飛び跳ねるように立ち上がり、ワゴンの後ろへ息をひそめて隠れる。屈みこんだワゴンの裏で、どくどくと周りにまで聞こえてしまいそうなほど騒ぐ心音を聞く。

 乱れていく呼吸をなんとかしようと、自分を抱きしめるように腕を回し、胸を押さえつける。


 熱で動けなくなっていたときも、ヴェロニカの背中に影がぴったりとくっついていた。

 あれは痛みに潤んだ視界がぼやけていたことに加え、ベッドの隣で佇んでいた父の影がランプの光に映し出され、部屋を出ていこうと移動していったヴェロニカに、それが重なったのだと結論付けていた。

 それを見た私の痛む頭が、脳に勘違いをさせたのだと、そう思っていた。


 だが、先ほどはぼんやりとした影ではなく、はっきりと誰かの後ろ姿が見えた。

 見間違いかもしれない、落ち着いて確認をしなければと、頭ではわかっているのに体が言うことを聞かない。


「レベッカ様? どうかされましたか、バゲットのお代わりでも?」


 屈みこんだ私の左側から聞こえたヴェロニカの声に、弾かれたようにそちらを向いてしまう。首を傾げたヴェロニカは眉尻を下げて、私をじっと見つめている。

 けれども、私はヴェロニカの顔ではなく、少し上を見上げたまま口を開けない。


 ランプの明かりのように薄く光り、ゆらゆらと体の線が定まらない男性が、ヴェロニカを包むように後ろから抱き着いている。

 微笑んだ口元だけ見れば幸せそうに見えるが、眉尻を下げて薄目を開いた男性は、どこか寂しそうにヴェロニカの頭を撫でた。


 それは、父がしていたとヴェロニカから聞いた表情のようで、お披露目の日にヴェロニカが照れていたことを思い出す。


 ありゃエディんとこの嬢ちゃんじゃねえか?


 ヴェロニカは誰かが言った、エディの娘ではないかという言葉に咳払いをしていた。

 ならば、この男性は。


「レベッカ様?」


 名前を呼ばれたことにどきりとして、ヴェロニカと視線を合わせる。怪訝な表情の中に不安が混ざった顔をするヴェロニカに、なんと言って誤魔化そうと考えている私の体が、ふわりと宙に浮いた。

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