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イエローマダー  作者: 沖 晶
第一章
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第十話 「失った光」

 節々の痛みや頭痛も嘘のようになくなり、ヴェロニカの介助を得て食事も取れるほど回復した。


 未だ視界は暗闇のまま、三日が過ぎようとしている。


「レベッカ様、エルドリッジ様がいらっしゃいました」

「やあ、おはようベッキー」


 父はあの日から城を出ないばかりか、毎日部屋へきて私の側にいてくれる。父の顔を見ることができなくとも、これほど嬉しいことはなく、私は幸せに満ち満ちている。

 窓の外で形作る雲、花に下りていた初霜はつしも。それらを語る父の楽し気な声が鼓膜に響き、時折撫でられる手の動きを繊細に感じられる。


 ヴェロニカが運んでくる朝食の香り、着せてくれたドレスの肌触り、治りきっていない足に軟膏を塗るヴェロニカの優しい手。

 日々見えていたものが暗闇によって奪われ、好きだった読書もできなくなった。一人でベッドからソファに移動することも叶わず、一日目は迷惑をかけているという自己嫌悪に苛まれた。


 なにもできず、なにをするにも手を貸してもらわなければならない。そんな罪悪感からヴェロニカに心からの謝罪をしたものの、ヴェロニカはそれを否定した。

 私のお世話をすることがヴェロニカの仕事であり、生きがいである。


 私が生きがいなのだと、ヴェロニカは言い切り私を強く抱きしめた。


 どんな罰もお受けいたします。ですが今は、今だけはお許しを。


 本来、使用人や侍女が王族である私の肌に許可なく触れることは、決して許されることではない。身の回りの世話をすることで、多少触れてしまう場合は仕方ない。


 だが、故意に触れることは固く禁じられている。だからヴェロニカは、罰を覚悟した上で私を抱きしめた。


 ヴェロニカにぎゅうぎゅうと抱きしめられ、息苦しいのにそれが堪らなく嬉しかったのだ。罰など与える必要も感じず、ヴェロニカへ私からお咎めはない。


 それからは介助してもらうことに気が引けるものの、甘んじて受け入れている。


「そうだ、お前の肖像画が飾られていたよ」


 父が思い出したように話し出し、熱が出る前の日に絵描きが来たことを思い出した。痩せ細り、小麦色の肌がなぜか青白く見える頬のこけた女性。


 虚ろな目をして私とキャンパスを交互に見ていても、筆を持つ右手が止まることはなかった。描き上げた肖像画は、正装をまとった私を丁寧に描き、腕利きだと使用人たちに持てはやされていた。


 そして私に世辞を言うこともなく、誰とも言葉を交わさないまま城を出ていったあの女性。絵を描くことに熱意を注いでいるようにも、精魂込めて描き上げているそぶりもなかった。


 あの女性は、なにを思って毎日を生きているのだろうか。


「どこか幼い、けれど荘厳そうごんで、とても綺麗だったよ」

「ありがとうごいます、お父様」


 出来上がったものを見るしかなかった父にとって、あれが唯一の正装を着た私の姿だ。それを綺麗だと褒められ、父の声が聞こえる方へ顔を向けて微笑む。


 嬉しい、やっぱりお父様は綺麗だとおっしゃってくださった。


 父の顔に触れようと慎重に右手を伸ばし、首辺りに指先が触れる。そこから顎を探り当て、頬に手のひらを添わせた。温かい父の頬に当てると、私の手が冷えていると気づき手を離す。

 その手を掴んだ父は、また自分の頬にあてがった。手のひら、甲にも父の体温を感じ、胸がじんわりとする。


 そうして添わせていた手を父が離し、両手を膝に置いて軽く握られた。そして、少し外へ出ようと私に提案する。


「お父様、私は目が見えておりません。お父様にご迷惑をおかけしてします」

「なにを言う。娘に頼られて嫌と言える父がどこにいるんだ」

「ですが、私は流行り病にかかったのですよ? そんな私が城下を歩くなど」


 私は流行り病にかかった。そうヴェロニカが城中に触れ回り、ここ最近で会話をするのは父とヴェロニカだけだ。きっと城下にも伝わっているだろう、その私が城下に下りれば大混乱になってしまう。


 本当に流行り病なのか、定かではない。


 父にあの高熱はなんだったのかと尋ねたいが、常にヴェロニカが側にいる部屋で、それははばかられる。


 そうして真相を聞き出せないまま、私はもやもやとする疑問をいつまでも吐き出せないでいた。


「大丈夫だ。行くところは城下ではなく、馬車での移動になる」

「まあ、一体どこへ?」


 ふふ、と笑う父の声が隣から聞こえ、私の腰に右手を当てながらゆっくりと立ち上がらせる。


「ヴェロニカに昼食の用意をさせている、それを持って外の空気を感じながら食べよう」


 楽し気に弾んだ父の声と、私を優しく支える手に導かれて、私は長い時間をかけて城の門をくぐった。



 馬がひづめを鳴らし、それに合わせて馬車は小刻みに揺れている。

 城を出てからまだ時間はそれほど経っていないが、どこまで行くのか知らされていない。


「レベッカ、あの日の続きを話そう」


 見えないながらも右側にあるはずの窓を眺めていた私に、真向まむかいに座った父が言う。

 ヴェロニカは馬を引く馭者ぎょしゃとワゴンの間におり、私たちの声も外の音にかき消され聞こえることはない。


 そう判断した父が、今伝えておくべきことだ、と順を追って私に話してくれた。


「あの日話した通り、お前は流行り病にかかったわけではない」

「やはりそうでしたのね。では、なぜヴェロニカに嘘を伝えさせたのですか」

「これが病ではないと知られないためだ。汚名を着せるようなことをしたのは、本当にすまないと思っている」


 だが、これしか思い浮かばなかった。こうすることでしか、お前を救ってやれない。


 父は苦し気な声で続けたが、疑問が解消されるばかりかどんどんと増えていく。

 私が高熱を出したことでなにか問題が発生するとは考えにくい。


 ならば、高熱に付随して失った視力か、あるいは熱を出したことがそもそもの問題点か。この状況に陥ってしまったことで、私は。


「殺されてしまう」


 言葉にした自分の声が、ずいぶんと冷たい誰かのもののように感じた。私の言葉に父はなにも返そうとしない、返せないのかもしれない。

 娘が死ぬ、それも寿命ではなく誰かの手によって。それを父は恐れ、必死に隠し、私を生かそうと手を回している。


 その誰かとは、今はわからない。私にとって身近な人物かもしれない。


「そんなことはさせない。お前には生きて幸せになってほしい、お前が私の全てなのだから」


 力強い父の言葉に胸を打たれる。ヴェロニカだけでなく、父からもこんな言葉をもらえるとは思っていなかった。


 冗談めかして話す父から出る言葉とは思えない、けれど誠意のこもった声に嬉しくなって笑顔になる。

 私が笑ったことに安堵したのか、ふっと息をついた父が、先ほどよりいくらか柔らかい声で話し出す。


 高熱によって体質が変わっているかもしれない。

 目が見えないことで耳や舌が過敏になり、支障をきたす可能性。

 そして、視力が戻らない可能性は、低い。


「そんなことがどうしてわかりますの、盲目になれば視力が戻らない可能性は高いはずです」


 先二つの言い分はわかる。


 ヴェロニカが歩く足音、父の扉をノックする音。昼間に聞こえる音はさほど気にならない。

 だが、寝返りをする際に出るシーツの擦れる音や、窓を叩く突風の過ぎ去る音が耳についてうまく眠れないのだ。


 目で見える情報が全てだった数日前とは比べ物にならないほど、私の耳は過敏になっている。

 体質といえるかわからないが、砂糖をふんだんに使った甘い菓子が好きだった私が、蜂蜜や木の実などを好むようになったことも当てはまる。


 父の笑った顔を見ながらかじったあのマカロンも、お茶を用意したヴェロニカに口へ運んでもらったが、ねちょねちょとした歯触りと甘ったるさにえずいてしまったのだ。


 今日までで身をもって知ったことだが、父が三つめに言ったことは理解に苦しむ。


 人体についての本や授業でも、盲目や難聴といった病は不治として捨て置かれる。医者も匙を投げるほどの病だというのに、なぜ父は視力が戻る可能性があるというのか。


 お父様はきっと、私を慰めるために嘘をつかれているのね。


 娘への愛ゆえに言っているなら、それは私には無用の気遣いだ。

 けれど、なにも見えないということは、とても怖い。生まれ落ちた日からあの日まで見えていた景色が、とつぜん闇によって光を失った。


 初めから見えていなければ、こんな気持ちにはならなかっただろう。盲目で生まれてきたのなら、なぜ見えないのかと悲観し、嫉妬心に駆られる。


 それはとても歯がゆく、憤慨したくもなるだろう。

 だが、私は羨望よりも恐怖心の方がまさっている。あの聖堂で告げられた言葉が、脳裏にこびりついているのだ。


 そなた自ら、その命を神に捧げよ。


 祖父である国王が、私をリベルにふさわしくないと定めたとき、私は自らの命を絶たなければならない。

 見えないことが怖いのではない、それによってリベルを追い出され、自決しなければならないことが怖いのだ。


 下唇を噛み、膝の上で重ねていた手を握りしめる。恐怖に支配され、強張ってしまう顔をさらりと撫でられる。


 力が入って震える手を、父の手がそっと覆い隠した。


「私にも、かつて失っていたものがあった。お前が視力を失ったように」


 真向いから聞こえる声に耳を澄ませ、それはなんだったのかと父に問う。


「自分の顔だ」

「そんな、ならどうして……」

「どうして顔があるのか、疑問に思うだろう」


 私が顔に触れたときのように、今度は父が私の頬へ手を添わせたあと、髪を下ろしている私の頭を撫でた。


 父の顔は、火傷やけどや刃物で切れたあともない綺麗な白い肌だ。空色の瞳を縁取る、長いまつ毛は髪と同じ白金色。伸ばしていた髪は後ろで結われ、風に揺らされる前髪は鼻くらいまである。


 そんな父の顔がなかったなど信じられるはずもない、現に私が見ていた顔は作り物などではなく、温かさの中にちくちくする髭もあったのだ。


 突拍子もないけれど、お父様はそんな冗談を言うお方ではないわ。


 怪訝な気持ちが表情に出ていたのか、寄っていた眉根を親指でぐりぐりと触られる。

 ふっと小さく笑った父が立ち上がった。椅子の軋んだ音を拾いながら、左隣に座った父の方へ耳を向ける。

 細く見える父の服の下には、筋肉質で分厚い体が隠されており、見た目に反して体重も重い。


 けれど、その父が座った左隣に圧迫感を感じず、また立ち上がったのかと見えない目をぱちぱちとしばたいた。


「レベッカ」


 聞こえたのは父のものではなく、母の声。


 優しい声色だが、凍り付いたように私は固まってしまう。


 母も今まで一緒にいた、視力がないことを知られてしまった、弁明を考えなければ。


 混乱に陥った頭では言い訳も、ましてや解決策など浮かぶわけもない。どうしようと考えれば考えるほど、私の体から体温が奪われていく。


 母の声に反応して、咄嗟に腹の前で手を重ねて姿勢を正した私に、母の薄い手が私の肩を撫でる。


 びくりと肩が跳ね、心臓が口から飛び出そうになる。呼吸を荒げた私の息遣いが、ワゴンの中に響き、それが嫌に耳につく。


「レベッカ、落ち着きなさい」


 父の声が聞こえ、消えていた気配が椅子の軋む音と共に戻ってくる。


 背中をさする父の手に徐々に落ち着きを取り戻し、本当に母がいないのか聞こえる音に集中する。


「レベッカ、大丈夫だ。私の他に誰もいない」

「そんなはずありません。私の肩に触れた手は、確かにお母様のものでした」


 だからいるはずなのだ、優しい母が疑りの視線を私へ向けた、あの聖堂のときのような表情で私を見ているに違いない。


 そろそろと両腕を伸ばし、手に触れる椅子やドアを撫でていく。向かいの椅子にいるかもしれない母を探そうと、腰を上げたとき、母の声が左後ろから聞こえた。


「失っていた期間は七日だったが、ただれて赤黒くなっていた肌の下から、再生した白い肌が見えた」


 父の口調で話す母の声が、私の頭を混乱させる。


「先ほどは顔と言ったが、正しくは体全てを覆う皮膚そのものだ」


 鈴を転がすような高い母の声が、だんだんと低いものになっていく。それは、父が高い声を出すときのよう。


「高熱が収まった頃、とつぜん体が発火したんだ。泣き叫ぶ私を、父は抱きかかえて川に飛び込んだ」


 それを語るのは、父のものだ。紡がれる父の言葉を飲み込むのに精いっぱいで、探していた母のことを忘れて質問を口に出す。


「それは一体……、いつの話なのです」

「ちょうど私が五つの頃だったな」


 父が語った幼き日のむごい思い出に、私は戦慄から口を閉ざした。そんな顔をするな、と困ったように笑いながら、父は立ち上がっていた私を座らせる。


 脅かすつもりはなかったと謝る父に首を振った。怯えているわけではなく、なぜそんな不運が父に降りかかったのか、なぜ父は母の声が出せるのか、と疑問が頭を埋め尽くす。


「ただれた肌がまるで布のように剥がれ落ちた日から、私は、他人になりすますことができるようになった」


 声、姿、歩き方までその人そっくりになれると言う父は、自嘲するように鼻を鳴らす。


 だから、私が感じた手は、お母様のものだったというのね。


 母の手についての答えは理解した。声も父が真似ていたのではなく、母の姿とともに声帯が変わっていたためだ。


 残るの疑問は、私の身に降りかかった不運は。


「お父様。そういったことができるのは、お父様だけですか? 受け継いできた血によるものなら、お父様の家系が特別ということなのでは」


 息を吸い込んだ父が何か言う前に、ゆっくりと馬車が止まった。

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