第九話 「影」
父との約束をした成人の日から、わずか二日で熱が出た。
それも父が危惧していたとおり、高熱が私の体を蝕む。
誰かに殴られ続けているように頭は痛み、関節は動かせる範囲が少なく熱がこもっている。息切れと高熱によって喉が渇くが、体を起こすことも叶わない。
「ロニ……父さ……」
掠れた声は私の側で涙目になっているヴェロニカにも届かず、耳を近づけたヴェロニカが途切れた言葉を拾い集めて、やっと言いたいことが伝わった。
お父様に知らせて。
父との約束を守るために、ヴェロニカへ伝えた言葉。かしこまりましたと告げて、ヴェロニカは眉尻を下げたまま部屋を出ていった。
これで、お父様がいらっしゃるはず。
何を考えても頭痛によってぼやけてしまう。昨日の夜中から痛みで眠れないのだが、たまに気絶しているようで、意識が戻ってくれば関節の痛みを知覚する。
そして、またベッドの奥へと意識が引きずられ、いつのまにか眠りについた。
「そうです。頭と節々の痛み、吐き気などはありませんが、なにもお口にできていらっしゃいません」
ヴェロニカの不安げな声が聞こえ、襲い掛かる頭痛に顔をしかめて、ゆっくりと瞼を開く。
眠っている私に気を使ったのか、少しの明かりが灯されているだけの部屋は薄暗い。窓の外は雲に覆われ、星も輝く体を隠している。
ヴェロニカの声が聞こえた左側を見やると、そこにはあの日のように高級な服を着た父がいた。
お父様。
そう呼びかけたが、声が枯れていて父の耳には届かない。
「医者は呼んだか」
「はい、診ていただきました。ですが、原因がわからないと。お披露目の日の晩に体が冷えたことも手伝って、疲れが出たのではないかとおっしゃっておりました」
それがここまで長引くなんて、とヴェロニカは続けた。質問の答えを聞いた父は拳を握りしめ、わなわなと体が震えている。
ぎり、と歯ぎしりの音が聞こえ、全身に力が入っているのだとわかる。
あの日、父は怯えていた。何かを恐れていたのだ。そして今も、何かに恐れを抱いている。
殺されるかもしれない。
あの日私に放った言葉を、父へ確認する暇はなかった。国王が父を呼んでいると、祖父の従者が割って入ってきたからだ。
立ち上がって身なりを整えた父は、また話そうと不安げに笑いながら部屋を出て行き、戻らなかった。
きっと急な務めを任されたのだろう。そう解釈して、私はいつものように父が扉を叩くのを待っていたが、部屋に招き入れることはないままだった。
「やはり……。熱は一時も下がっていないのか、薬はどうだ」
「下がっておりません。ヴェロニカはずっとお側におりましたが、薬を飲まれても氷のうで頭を冷やしても一向に……。レベッカ様はずっと、お一人で熱と戦っておられます」
ついに、ヴェロニカは泣き出してしまった。すすり泣く声に私の胸がきゅっと痛む。
風邪をひくことが滅多になかった私があるとき、咳が止まらず体がうっすら赤くなるほどの熱を出したことがあった。
そのときに、痛い痛いと体を丸めて小さく泣く私を見て、ヴェロニカは代わってあげたいと言い出した。
おいたわしい、ヴェロニカが代わって差し上げられるものなら……。
そんなヴェロニカの顔は今と同じような表情で、涙が零れないようにと耐えていた。
だが今は、小麦色の肌に暗い涙の筋ができ、黄色い瞳は涙にうるんで揺れているように見える。
ヴェロニカの長い栗毛は、いつも一つにまとめられているのに、今はそれをほどいている。その姿は、今までもう一人の母として見てきたヴェロニカではなく、か弱く儚い女性に見えた。
泣かないで、ロニー。私は大丈夫よ。
そう伝えようとしても、口から息が出るだけだ。空気を揺らすことも叶わず、じっと二人の様子を見ていることしかできない。
すすり泣くヴェロニカの肩に、父は優しく手を置いて、柔らかい口調で語りかける。
「ヴェロニカ、できることは限られている。だが、君の献身的な支えによって、レベッカもここまで耐えられている。まずは、なすべきことを順番に」
すんすんと鼻をすすりながら、父の言葉に頷くヴェロニカ。ごしごしと袖で頬を拭ったヴェロニカは、ほどいていた髪をきつく結いあげた。
「ではヴェロニカ、レベッカが流行り病にかかったと国王たちに伝えるんだ。そして、君と私も感染しているかもしれない。他の使用人たちもこの部屋から遠ざけなさい」
頭の中で疑問が浮かぶ。私はあの日、父にそれは流行り病か、と質問をした。
その答えは否。そうであったなら良かった、と父は嘆いていたのだ。
それを、なぜ父はヴェロニカに嘘を伝えているのか。がんがんと痛む頭で考え続けられるのはここまでのようで、また瞼が閉じようと落ちてくる。
「かしこまりました、エルドリッジ様」
父に頭を下げ、はっきりとした声で告げたヴェロニカを、今にも閉じそうな瞼をこじ開けて見送る。
きびきびと歩くヴェロニカの後ろ姿、それを覆うようにふらりと何かが重なる。
父の影かとも思ったが、ぴったりとヴェロニカにくっついている。それが何なのかわからないまま、ヴェロニカは扉の向こうへ消えてしまった。
そして、見開くようにしていた瞳に瞼が覆いかぶさり、ゆっくりと意識を手放した。
次に目が覚めたのは、朝日が昇る少し前。空も部屋の中も、まるで夕焼けに照らされたように赤い。
夢かしら……。なぜこんなにも赤いの。
今までにも部屋が赤く照らされることはあったが、赤色の中に黄色い光が入り混じっていた。それはまるで幻のようで、すごいとはしゃいだ覚えがある。
あのときのような幻想的な光ではなく、むしろ危機感すら湧いてくる朝日に、鼓動が速くなって息苦しい。
熱が引いたのか、ゆっくりと体を起こすことができた。汗をかいていた首筋を手の甲で拭い、肺を膨らませてため息をつく。
シーツの上に置いた手を、顎を引いて眺める。白い私の手は、血に濡れたように赤い。
そうだ、お父様は。
夜に父たちが立っていた自分の左側を、勢いよく振り返った。
そこにいたのは、父ではなく、ヴェロニカでもない。
部屋を照らす朝日のように赤い髪を腰まで伸ばした、見知らぬ背の高い女性の後ろ姿。
誰……?
赤い髪を持つ人を、私は見たことがない。城で働く使用人や侍女たちも、色の濃淡に差はあれど皆が栗毛だ。
それに、着ている服が古めかしいものだ。ドレスや使用人の服でもなく、異国の古い本に載っていた服に似ている。
なぜ私の部屋にいるのか、なぜ扉の方を見つめているのか。顔も見えず、ソファのあたりでただ立っている女性に、疑問よりも恐怖心が勝る。
シーツを握りしめ、ごくりと喉を鳴らして生唾を飲む。
そして女性は、振り返らずにこちらを左手で指さした。
ぎょっとしたが、指を差した方向は私ではなく、ベッドの隣にあるサイドテーブル。
そこには、いつもあるはずのオルゴールボックスがなく、代わりに母からもらった布の剥げたジュエリー箱が置いてある。
なぜここに置いてあるのかしら。
女性が指さしたことも相まって、気になった私はジュエリー箱を取ろうと手を伸ばす。
ジュエリー箱の蓋に左手を置いたとき、上から一回り大きい右手が被せられた。
赤い髪が私の右側の視界を塞ぎ、驚きと恐れに呑まれた私は身動きが取れなくなった。
冷たいのだ。
女性の手は雪を触ったときのように冷たく、私の手の甲から熱が奪われていく。
どうしましょう。嫌な感じはしないのだけれど、怖いわ。
押さえつけられているわけではないのに、体が固まって左手を引き抜くこともできない。どうしようと考えているうちに、女性の髪が視界から後ろの方へ行く。
曲げていた腰を立たせたのか、女性の顔が遠ざかったとわかり、いつのまにか詰まっていた息を吐き出す。
肩で息をする私の頭を、女性の少し大きい手で優しく撫でられた。
大丈夫だと、安心させるように撫でられた気がしてふっと体から力が抜け、私は気を失った。
「レベッカ!」
私の名前を叫ぶ父の声に意識が浮上する。何度か瞬きをするが、部屋の中を照らしていた小さな明かりも見えない。ヴェロニカが灯していた明かりを消したのだろうか。
「レベッカ、気づいたか? 私がわかるか?」
「お父様、お声は聞こえていますわ。ですが、真っ暗でなにも見えませんの」
掠れているが、小さい声を出して父に話しかけられた。関節はぎしぎしとまだ痛むが、頭痛はいくらかましになっている。
まだ夜中なのかと辺りを見回しても、星の明かりすらない部屋の中は闇そのもの。
夢だったのかしら、あの女性は一体。
あれほど鮮明に映し出された夢は初めてだった。夢の中で息をしていた私は、現実を見ていると本当に思い込んでいた。
あの夢で女性に頭を撫でられたが、それがどんな意味を持つのかわからない。顔も見えず声をかけられることもない、そんな状態では誰しも恐怖するだろう。
だが、不思議と頭を撫でられたことが、嫌ではなかった。
「レベッカ様」
ようやく働くようになった思考を回転させていると、震えた声でヴェロニカが私の名前を呼ぶ。
熱でぼんやりとした記憶を思い起こす。そういえば、私は初めて泣いているヴェロニカを見たのだ。もう大丈夫だと安心させたくて、ゆっくりと上半身を起こし答える。
「なに?」
「先ほど、朝日が昇ったのでございます」
ヴェロニカの声が聞こえる方へ向けていた私の顔から、微笑みが消えた。




