男爵夫人は今日も夫のティーカップに雑巾の絞り汁を入れる
男爵のブラハム・ディスターは黒髪を七三に分け、凛々しい眉と目を持ち、整った顔立ちの三十代の紳士であった。
領地経営には特に力を入れており、文字通り寝る間も惜しんで働く“仕事の虫”であった。
そんなブラハムを支えるのは妻のイリア。
イリアもまたホワイトブロンドの髪をミディアムショートにまとめ、白い肌と琥珀色の瞳を持ち、マリーゴールドのドレスがよく似合う、男爵夫人の肩書きに恥じない貴婦人だった。
晩餐の食卓にて、イリアがソテーを頬張りつつ、息子の話を振る。
「ねえあなた、レオスから手紙が来たんだけど、学校の寄宿舎でも上手くやってるみたい。お友達も増えて、校内のフットボール大会では優勝したんだって」
「そうか、それは何よりだ」
ブラハムはあまり表情を変えずに答える。
食事を早々に済ませ、ブラハムは立ち上がる。
「あなた、食後のティーでもいかが?」
「仕事があるのでね。書斎に持ってきてくれると助かる」
食堂から立ち去るブラハムを、イリアは不満げに見送る。
そこへ執事のラファトがそっと歩み寄る。
ラファトは半年前からディスター家の執事となった男で、あらゆるところに気が回り、すでに信頼を勝ち得ている。
容姿も金髪に透明感のある碧眼、黒い執事服が絵になる美男子だった。
「奥様、ではいつもの通りに」
「そうね」
イリアは夫のためにティーカップに紅茶を淹れる。
そして、湿った雑巾を手に取る。
その雑巾を両手で絞り、そこから出る汁をティーの中に入れるのだった。
そのまま二人で書斎にティーカップを運ぶ。
「ん、ありがとう」
ブラハムは何も知らない様子で紅茶に口をつける。
これを確認すると、イリアとラファトはニヤリと笑い合った。
書斎を出ると、ラファトが薄く笑う。
「今日も上手くいきましたな」
「ええ。このままアレを飲ませ続ければあの人は……」
イリアはふと、まだ新婚だった頃のことを思い返していた。
***
十数年前、若き日のイリアとブラハムはディスター家領内の田園地帯を歩いていた。
ブラハムはまだこの頃は令息の立場であり、気楽な立場といってもよかった。
「綺麗な田んぼが沢山並んでいますね」とイリア。
「うん、我がディスター家自慢の田園地帯さ。ここの実りがあるからこそ、ディスター家は成り立っている。将来的に私が当主となったあかつきには、田園を支える農家の待遇も向上させていくつもりだ」
未来を見据えるブラハムに、イリアは尊敬の眼差しを向ける。
“農家は黙って貴族に奉仕するもの”という考えの貴族が多い中、ブラハムの考えは革新的といえた。
田んぼ道の脇に小さな池があった。その周囲の沼地で一匹の亀がひっくり返っている。
足をせわしなくジタバタさせているが、起き上がれそうにない。
「まあ、可哀想に……」
イリアが眉をひそめ、つぶやく。
するとブラハムが動く。
「私が直してあげよう」
「え、危ないですよ! 誰か人を呼んだ方が……」
「その分だけ、あの亀が苦しむ時間が長くなってしまうだろう?」
ブラハムは高価な衣装を着ていたにもかかわらず、ためらいなく沼地に入っていく。
が、泥に足を取られて転んでしまう。
それでもブラハムはすぐに起き上がると、ひっくり返った亀を元に戻してみせた。
「もう大丈夫だ」
亀はのそのそと池に戻っていく。
泥だらけになったブラハムの姿は、イリアの目には輝いて見えた。
「亀のためにそこまでなさるなんて……」
「亀だって立派な領民だ。領民を守るのは、領主の務めだからね」
顔についた泥をまるで気にしないブラハムの笑顔に、イリアは大きく心をときめかせたことをよく覚えている。
***
それから十年あまりが経過し、ブラハムは立派な領主となった。
堅実な経営に加え、大胆な改革を行い、この十年間でディスター家の税収は大幅に上昇した。
潤った財政は惜しみなく福祉として還元し、領民はブラハムを大いに慕った。
王家からも目をかけられ、「ディスター家の領地経営は貴族の教科書にしたいぐらいだ」と褒められるほど。
しかし、あまりにも立派すぎた。
そんな経営を成り立たせるにはやはり、ブラハムは自分を犠牲にして働かねばならなかった。
寝る間も惜しみ、書斎にこもり、時には領地を見回り――彼の日常は多忙を極めた。
明らかな過労であり、イリアも心配する。
「あなた、少し休まれた方が」
「私が休めば休むだけ、仕事は溜まっていき、領民の負担は増してしまう。私にとってはそれがなにより怖いんだ」
「だったらせめて、お医者様に診てもらうとか」
「なぁに、心配いらないよ。自分のことは自分が一番よく分かっている」
ブラハムは医者に診てもらおうとしない。
もしも重大な疾患が発見されてしまったら、というのを恐れているのは明白だった。
領民には寛大で、妻にもなんら注文をつけたことがないブラハムであるが、自身の健康問題に関しては頑固だった。決して他の人間に立ち入らせようとはしない。
しかし、ブラハムの顔色は日に日に悪くなっており、それに比例してイリアの不安も高まっていくのだった。
***
そんな時であった。執事ラファトがイリアに近づいてきた。
「奥様」
「ラファト、どうしたの?」
「旦那様のことが心配なのですね」
ラファトはイリアの内心を見透かすように言う。
「……ええ。なるべく心の内は出さないようにしてたけど、さすがに鋭いわね」
「主の心を察することも執事の務めですから。さらには主の欲することを満たすのも執事の務め」
話が見えず、イリアは聞き返す。
「どういうことかしら?」
「つまり、旦那様の体調がよくなれば、万事解決というわけですよね」
「そうだけど、あなたにそんなことできるの? お医者でも薬師でもないのに……」
「長く生きた亀の甲羅には極めて高い薬効があるというのはご存じですか?」
ラファトは話題を切り替えた。
「聞いたことはあるわ。万病に効く薬になるとか、ものすごい精力がつくとか……」
「それをお茶に入れて飲ませるのです。そうすれば旦那様のお体は回復します」
ラファトの出した解決策に、イリアはきょとんとしてしまう。
「ええと、力説してくれたところ悪いんだけど、私、亀の甲羅なんて持ってないのよ。それも長生きをしたものなんて……」
「ここにいますよ」
「え?」
「私は亀です」
あまりに唐突なカミングアウトに、イリアはついていけない。頭が真っ白になる。
「私はおよそ十年前、ひっくり返っていたところを旦那様に助けてもらった亀なのです」
あの時のことはイリアもよく覚えている。
泥まみれになって亀を助けた夫に、すっかり惚れ直したものである。
だが、イリアは笑う。
「どこでそのエピソードを聞いたか知らないけど、いきなり“亀です”なんて言われても信じられるわけがないでしょう。だけど気持ちは受け取っておくわ」
「では……私の真の姿をお見せしましょう」
ラファトが目を閉じ、念じると、その体は瞬く間に亀の姿になった。
「いかがです?」
「……ッ!」
絶句するイリア。
貴族として「むやみに叫ぶことははしたない」という教育を受けていなければ、悲鳴を上げていたかもしれない。
「これでも私はあなた方より年上です。が、あの時は不覚でした。ドジから体がひっくり返ってしまい、近くに仲間もいなかった。そんな時、旦那様は私を助けて下さった。服が汚れてしまうのも顧みず」
当時の思い出がイリアの中にも鮮やかによみがえる。
「私は恩返しをしたいと強く願った。願い続けた。すると、どういうわけか私は人間の姿になれるようになっていたのです。そして、“ラファト”と名乗り、あなた方の執事となりました」
「そうだったの……」
驚くべき真相であるが、ここまではいわば話の前座に過ぎない。
本題はブラハムの健康問題にあるのだから。
「私の甲羅には薬効があります。しかし、甲羅を砕くのは大変な作業。奥様にそんな負担を強いたくはありません」
「そうね。あなたを殺してしまうことになるし、そんなことで健康になってもあの人は喜ばないわ」
「そこで、人間状態の私の背中を布でこすって下さい。そうすれば薬効のあるエキスが布に染み渡ります。あとはそれを旦那様に飲ませれば……」
「あの人は健康になるというのね?」
ラファトはうなずく。
「分かったわ……やってみるわ」
「では、人間の形態になりましょう」
ラファトは再び人間の姿になった。
「それにしてもあの可愛らしい亀が、人間の姿になるとこんなにカッコイイだなんてね」
「これでも亀の世界ではなかなかの美男子と評判だったのですよ。それがそのまま人間の形態にも反映されたのでしょう」
ラファトは少し得意げに笑った。
さっそくイリアは執事服をまくり上げ、ハンカチで背中をこする。
しかし、エキスはほとんど染み込まない。
「うーん、ダメだわ……」
「もっと粗い布、例えば雑巾の方がいいかもしれませんね」
「ちょっと待ってて。持ってくるわ」
イリアは白い雑巾を持ってきた。
「お、いいですね。これならきっと大丈夫です」
「じゃあ、こするわよ」
イリアは雑巾でラファトの背中を思いきりこする。今度はこするごとにラファトの体から体液がにじみ出てくるのが分かる。
「出てきたわ!」
「うっ……!」
「ど、どうしたの?」
「すみません。甲羅磨きというのは亀にとってはなかなか刺激的でして……。しかし、遠慮はいりません。力一杯こすって下さい!」
「……分かったわ!」
やがて、雑巾にはラファトの背中からにじみ出たエキスがたっぷり染み込んだ。
あとはこれをブラハムに飲ませるだけだが――
「ラファト、あなたを疑うわけじゃないけど、これは……本当に大丈夫なの?」
イリアは遠慮がちに確認する。
「ご心配はごもっともです。なので、奥様が試されてはいかがでしょう?」
「そうね。そうしてみる」
特にためらいもせず、イリアはエキスを指につけて舐める。
「んん……!?」
イリアは心身にエネルギーが充満するのを感じた。
それだけではない。なんとなく不調を感じていた肉体の箇所が、一気に改善される感覚を味わった。
「す、すごい! すごいわ、これ!」
ラファトはニッコリ笑う。
「喜んで頂けて光栄です」
「ありがとう、ラファト! これであの人は助かるわ!」
それからというもの、イリアは夫のティーカップに雑巾の絞り汁を入れ続け――ブラハムはすっかり健康を取り戻した。
***
ある日の夕食後、いつも食事を済ませるとせわしなく書斎に向かうブラハムが、珍しく食卓に残っている。
「イリア、ラファト、こっちへ来てくれ」
妻と執事、二人を呼びつけた。珍しいことだった。
「このところ体調がいいんだ。実は少し前までは体のあちこちが痛くて、だるかったんだが、すっかりよくなった」
「あら、そうなの」
「それはよかったです」
二人は揃って知らないふりをする。
実は執事の正体は亀で、妻はその亀のエキスを雑巾の絞り汁として夫に飲ませている――こんな真実を教えるわけにはいかない。
「二人とも、どうもありがとう」
「え」イリアとラファトが同時に発する。
「私の健康を取り戻してくれたのは君たち二人だったんだな」
「なんのことかしら……」
イリアは視線を逸らし、白を切ろうとする。
「雑巾の絞り汁」
夫のこの一言で、それが無駄だと悟った。
「気づいてたの……」
「そりゃ気づくさ。紅茶の味が変わっていたもの。入っていたもの、つまりラファトのエキスによってね」
「私のエキスは無味無臭のはずなのですが」とラファト。
「ほんのわずかな変化だがね。私とて漫然と妻の紅茶を飲んでいたわけじゃないよ」
「あなた……」
イリアにとっては嬉しい言葉だった。
「だから、ある時書斎にこもるふりをして、すぐに書斎を出て、二人をこっそり見ていたんだ」
イリアがラファトの背中を雑巾でこすり、そのエキスをティーカップに入れるという異様な光景が展開されていた。
「全部見られてただなんて……」
「なかなかショッキングな光景ではあったよ」ブラハムは笑う。
「その時、よく口を挟もうとしなかったわね」
「イリア、君のことだから何か事情があるんだろうと思ってね。それに、会話の節々からラファトの正体もなんとなく推測できた。だから、信じて大丈夫だろうと思ったんだ」
ブラハムは全て気づいていたし、全てを見ていた。
全てを知り、妻と執事に感謝しつつ、ラファトのエキス入り紅茶を味わっていた。
「おかげで私はすっかり元気になったよ。だがラファト、毎日のようにエキスを出すほど雑巾でこすられるのはやはり体への負担になるだろう」
「負担がないといえば嘘になります。ですが、旦那様のためならば苦ではありません」
執事の言葉に、ブラハムはうなずく。
「ありがとう。だが、私は反省したよ。今後、私はきっちり医者に診てもらうことにする。もうイリアやラファトに心配はかけたくない」
「あなた……」
「旦那様……」
「さあ、今日は三人で食後のティーを堪能しようか」
ブラハムは書斎にこもることなく、久しぶりにイリアとティーを楽しんだ。
その後、ブラハムは仕事の量を減らした。
すでに領地経営は軌道に乗っており、部下にも頼りになる者が大勢育っていた。ブラハムが無茶をせずとも問題ないほどの土壌ができていたのだ
奇しくも田園の実りを期待していた彼自身が、“人材”という多くの種や稲を育てていたという格好である。
それでも無茶をしていたのは、「自分無しでもこの領地は上手くいく」というところを見てしまうのを、領主としてのプライドが恐れたからかもしれない。
だが、そんなプライドも、妻の雑巾の絞り汁のおかげで消え去った。
季節の節目になり、学校の寄宿舎暮らしだった息子レオスが久しぶりに家に帰ってきた。
顔つきも体つきも逞しくなり、学校という社会の中で順調に力と知識を蓄えていることが窺える。蛹から羽ばたく日も近い。
夜、ブラハムの提案で、一家揃って乾杯をすることになった。
「領地経営は順調だ。これも全て私を支えてくれているイリア、そしてラファト、領民のおかげだと思っている。このバトンをいかにしてレオスに託すかが、私の今後の課題となるだろう。どうかみんな、よろしく頼む。それでは……」
ブラハムがワイングラスを掲げる。
「領主として、領民の安寧を祈って」
イリアも柔らかな笑みで続く。
「夫人として、家族の健康を祈って」
ジュースの入ったグラスを持つレオス。
「じゃあ僕はえーと……息子として、明るい未来を祈って!」
ラファトも執事として参加する。
「では私は従者として、皆様の長寿を祈って」
祈りは必ず天に届く。この四人で願えば――
「乾杯!!!」
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。