第9話 不浄の王 中-1
明くる日。
この日もガストナの空には厚い雲が立ち込め、雨こそ降らないまでも、陽射しのないすっきりとしない空模様を描き出していた。気温もだんだんと上がってきていたここしばらくであったが、雨上がりの湿った空気はまだ熱を孕むこともなく、吹き抜ける風に肌寒さを覚えるほどだ。
街を離れ、かぽかぽと街道を進む馬車の頭上も、天候に変わりはない。遮るものの少ない風が、いっそう強く肌に吹き付けてくるようにすら感じられる。
マントに身を包んで冷え込みを防ぐクロエは、丘を登って見えてきた景色に、手綱を引いて馬の足を止めた。
「みんな、見えたよ!」
その声に呼ばれ、荷車からレイリアたちが顔を出す。
「わ、大きい!」
頂から先が下り坂になっている丘からは、視界を遮るものもなく、その先の風景を一望することができる。眼前に広がった光景に、レイリアは感嘆の声を上げた。
丘を越えた先は、広大なとした盆地であった。周囲を盛り上がった大地に囲まれた盆地は見渡す限りに広がり、その大きさは、ともすればカザディルの街をすっぽりと飲み込んで、なお有り余る。盆地の底面はむらのある灰色に染まっており、それが湖面に映りこんだ空の色であるとレイリアが理解するのには、やや時間が必要であったほどだ。彼方には切り取られたように湖面に浮かぶ地面が、その上には城跡のようなものが見え、どうやらそれが目的地である夜泣島だと窺える。
ガストナの東側一帯を占める雄大なベルギア湖が、そこに広がっていた。
馬車を進め、丘を下っていけば、もう湖の対岸がどこにあるのかもわからない。視界一杯の水面が、そよ風にさざ波を立てている。
「わたし、湖って初めて見るんだ。こんなに大きいんだね……」
「湖の中でも大きな方ね、ベルギア湖は。リンデンにも湖はあるけれど、ここまで大きくはないわ」
「ねえ、海もこのくらい大きいのかな!」
「う、海は……もっと、もーっと、大きい……らしい、よ」
眼前に広がる景色に見とれる声を聞きながら、クロエは湖岸沿いにいくらか馬を歩かせ、小さな小屋の前で馬車を停めた。木造の釣り小屋で、小屋の傍らから湖面に向かって桟橋が続いている。丸太と板材を組んで伸ばされた桟橋の脇には、木の葉のような流線形をした手漕ぎの小舟が、縄で繋がれて水面に揺られていた。木製の小さなボートだが、五人で乗れるだけの大きさはある。
「あったあった、これで島まで渡れる。ちゃんと櫂もあるな」
小舟を覗き込み、クロエは満足そうに頷く。
「ま、このゾンビー騒ぎの中でのんきに釣りに来るやつもいないか」
「でも先客はいるみたいね」
マリシエラが指差すのは、小舟の繋がれているのとは反対側の丸太の橋げただった。見ればそこには、最近まで別の小舟が繋がれていたのであろう縄の跡が見て取れる。
「や、やっぱり、三人組がここに来た……の、かな?」
「きっとそうだよ! わたしたちも早く渡ろう!」
急かすレイリアに背中を押されるように、五人は小舟に乗り込んだ。櫂を握るのは、パーティで唯一舟を漕いだ経験のあるマリシエラと、一番腕力のあるジョゼットだ。二人は船の両端に座った。桟橋に繋がれた縄を解き、櫂で橋げたを押すと、小舟はゆっくりと桟橋を離れ、緩やかに湖面へと流れ出ててゆく。後端に座るマリシエラが櫂で水を漕ぐと、小舟は前へと押し出され、ジョゼットも加わり徐々に速度を速めながら、二人の漕ぎ手の意に従って、夜泣島へと向かって泳ぎ出した。
船べりに手をついたレイリアは、頬を撫でる空気に目を細めた。丘の上で感じた雨上がりの湿った風よりも、いっそう水の気配を孕んだ風だったが、澄んだ水のにおいのためか、どこか爽やかに感じられる。ぱしゃりと跳ねた水滴が、レイリアの手を濡らした。
途中で漕ぎ手を代わりながら、小舟は湖を進んで行く。曇り空はいまだ晴れる兆しを見せず、レイリアたちは灰の空と灰の湖に挟まれながら、夜泣島へと近づいて行った。
夜泣島に船を寄せると、島の岸辺にも桟橋がひとつ設けられていた。湖岸のものに比べれば古く、手入れもされておらず雨風に傷んだ様子だったが、船を繋いでおくのに支障はなかった。桟橋にはすでに一隻の小舟が繋がれている。
「まだここにいるみたいですね」
ジョゼットが結ばれて間もないと見える縄を検め、確信した。
どうやら、追っているパーティとは入れ違いにならずに済んだらしい。レイリアは安堵の息を吐いた。
桟橋に降り立ったレイリアたちは、島の反対側に目を向ける。島は、桟橋の設けられた岸辺から対面に向かってだんだんとせり上がっており、城跡はその岸壁の上にあった。こうして上陸してみれば、それがもはや一部の壁や土台が残されるばかりの、遥か昔の時代の廃墟であることが見て取れる。ハランガムの街跡よりも、ずっと古いものだろう。
「件の冒険者たちから、なにかしら得られるものがあればいいのですが」
物憂げな眼差しで、ジョゼットは城跡を眺めた。
昨夜神殿に赴いたジョゼットは、結局さして有益な情報を得ることはできなかった。どの神官戦士も、状況はジョゼットとさほど変わらず、本格的な調査に乗り出そうとした矢先にゾンビーたちの襲撃に見舞われ、中にはそのまま帰ることのなかったものもいる。
「その三人組が、ここにいる亡霊とやらに殺されてなければいいんだけどね」
クロエの訪ねた盗賊ギルドにしても同じであった。この夜泣島についても、過去に調査された古い城跡があるばかりでは、人も近寄らず、情報の需要もない。
二人とも昨夜は、肩を落として宿に戻ってきたものであった。
この旅路が無為なもので終わったら。そんな不安を期待よりも強くにじませながら、五人は城跡へと向けて歩き出した。
夜泣島は陸地の大半が険しい岩場になっており、桟橋から城跡へ向かうには、岸辺をぐるりと迂回していく必要がある。湖岸を歩いて進んで行くと、小舟の上で感じたのと同じ、涼やかな風が少女たちの髪を揺らす。時折ぱしゃりと魚が跳ね、湖面に波を立ててまた潜っていくのが見えた。
近づくにつれ、城跡の子細な様子がわかるようになってくる。いくらか残されている石の壁や柱は、どれもすっかり苔や蔦に覆われ、往年どのような意匠の城であったのかは、考古学や建築の知識を持たないレイリアにはさっぱりであったが、遺されたどの壁や柱にも壮麗な装飾のようなものは見受けられず、あるいはこの城は、カザディルの美麗な王城よりは、ガストナの武骨な城塞に近かったのではないかという印象が受けられた。
城跡の様子を観察しながら島の外縁を歩いていくと、やがて岩場の間を走る、城跡へと至る坂道が見つかった。念のためにマリシエラを先頭にして、警戒しながら道を昇っていこうとする。
坂道へと足を踏み入れようとしたその寸前、ふと気配を感じたレイリアは、湖岸に目を走らせた。
「わっ、ねえみんな! あれ見て!」
思わずレイリアは皆に声をかけ、岸辺を指差す。
「え、馬?」
訝しげに呟いたクロエの言葉通り、レイリアの指差す先にいたのは、一頭の馬であった。
岸辺にじっと佇むのは、鞍や手綱のような馬具は一切身に付けない裸馬で、群れも騎手持たず、ただの一頭で、青い瞳をレイリアにじっと向けている。なにより目を引くのは、鼻先から尾の先まで、ひとつの染みも見受けられない真っ白な体毛だ。まるで世界からそこだけ色が抜かれたかのような、見事な白馬であった。
これまでどの厩でも見られなかった馬の純白さに、レイリアの目は一瞬で釘付けになっていた。
「すごい、わたしあんな真っ白な馬、見たことない……うぇっ!」
ふらふらと道を離れ、岸辺に向かって歩き出そうとしたレイリアの襟首を、マリシエラがむんずと掴んで止める。
「えほっ、えほっ! もう、なにするの!?」
「あなたね、行動を起こす前に考える癖をそろそろつけなさい! あんなあからさまな魔物に寄っていこうとするなんて、どういう神経してるの!?」
抗議の声に怒鳴り返され、レイリアは目を白黒させた。
「え、魔物?」
「湖の島にぽつんと馬が一頭、それもさっきまでは間違いなくいませんでしたからね」
苦笑するジョゼットの言葉に、そういえば、とレイリアは手を打った。
この地積の大半を岩場と城跡が占める島の中で、どうして野生の馬が生きていけるというのだろうか。なによりレイリアが振り返るまでは確かに、今白馬のいる場所にはなにもいなかったはずなのだ。
「た、たぶん、ケルピー……だと、思う……」
ラシェルが挙げたのは、水辺で見られる馬の姿をした魔物である。白馬や黒馬の姿で現れて釣り人を誘い、うっかり優美なその姿に魅入られて近寄ろうものなら、一転釣られる獲物となった哀れな人間を水中に引きずり込んで溺れさせると伝えられている。漁師や船乗りから恐れられ、不用意に水場に近づこうとする子供を怖がらせるのにもよく引き合いに出される魔物であった。
「ケルピーならいたずらに近づかなければ害はないはずよ。放っておいて、先を急ぎましょう」
だが、マリシエラにそう促されても、レイリアはその場から歩き出そうとしなかった。
「でも……あの子、なんだか困ってるみたい」
「はあ?」
気色ばんだマリシエラが振り返っても、レイリアの顔はケルピーに向いたままになっている。ケルピーの青い目もまた、物言わず、じいとレイリアを見つめるばかりであった。
「それになんだか、悲しそう」
「馬鹿なこと言わないでちょうだい。私たちがなにをしにこんなところまで来たのか忘れたの?」
「……だけど、なんだか放っておけないよ」
状況だけを見れば、それはあまりにも能天気で、ともすれば現実の見えていない妄言とすら呼べるような発言であった。世間知らずで、魔物の恐ろしさを知らない無知蒙昧な戯言と切り捨てられるばかりの言葉。もしもレイリアが、ただこの湖畔に遊びに来ていただけの村娘であったなら、そうなっていたであろう。
だが、真剣な眼差しでマリシエラを見返すレイリアは、決してそうではなかった。
レイリアは直情的で知識も少なく、まだ経験も浅いが、それでも冒険者だ。危険な獣や魔物と幾度となく対峙し、ここまで戦い抜いてきた。前線を張る戦士であるレイリアは、その恐ろしさを身をもって熟知している。
そして、こうと決めたときの強情さと、相手を見る目の確かさもまた、マリシエラにとっては良く知るところであった。
「ケルピーはそうやって人を誘惑する魔物だ、ってこともわかってて言ってるのね?」
レイリアはしっかりと頷いた。
「……はぁ、もう、わかったわ。けれど、私も行く。危険を感じたらすぐに引き返すわよ」
「! うん、ありがとうマリシエラ!」
満面の笑みを浮かべたレイリアは、マリシエラと二人で連れ立ってケルピーへと近づいていく。
ジョゼットは唖然として、クロエは呆れ顔でその後ろ姿を見送るばかりであった。
「な、なんというか、すごい方ですね、レイリアさんは」
「ボクのときもだったけど、底抜けの能天気なんだか、すごい大物なんだか」
ラシェルだけは、そろそろとケルピーに近寄るレイリアに、いくらかの熱を孕んだ視線を向けていた。
「で、でも、ケルピーを手懐けて騎乗する騎士のお話とか、あ、あるから……」
「どこのおとぎ話だよ、それ」
ぼやくクロエたちの見守る中、レイリアとマリシエラは、いよいよケルピーに手が届こうかという距離まで近寄りつつあった。それほどの近さまで寄ったところで、ケルピーはいまだ身じろぎもせず、見定めるようにじっとレイリアに視線を合わせている。
レイリアはひとつ生唾を飲み込んで、ケルピーの鼻筋にそっと手を差し伸べる。すると抵抗もせず、ケルピーは目を瞑ってその手を受け入れた。
「わ……」
恐る恐る触れた鼻筋は、毛並みや手触りこそ馬と変わらないものの、手袋越しにも伝わるほどにひやりと冷え切っており、やはりこの白馬が生身の馬でないことを確信させた。それでもレイリアは、穏やかな手つきでケルピーの鼻筋を撫でてやる。ケルピーもまた、その手に鼻先を摺り寄せてくるようであった。
「確かに敵意はないようね」
だがマリシエラが手を伸ばそうとすると、ケルピーはふいと顔を背けてしまう。
「ちょっと、なによ、えり好みするわけ?」
「あはっ、フラれちゃったねマリシエラ」
「いいわよ別に、こっちに興味がないなら先に進むだけよ」
へそを曲げたマリシエラが背を向けると、ケルピーもまた踵を返し、湖岸へ向かって歩き始める。
「あ、待って!」
レイリアは咄嗟にその背を追った。
追ってしまった。
「! 待ちなさいレイリア!」
「え?」
マリシエラが止める間もなかった。
ケルピーに向けて手を伸ばしたレイリアの足下で、ばしゃりと水音が鳴った。踏み出したレイリアの足が、水面を踏んでいる。
水面? 岸辺にいたはずなのに?
疑問を覚える間もなく、途端に、いつの間にか足下を満たしていた水が逆巻き、レイリアの身体を飲み込んだ。
「ウンディーネ!」
マリシエラが咄嗟に精霊に呼びかけ腕を振るうが、契約を交わした精霊はしかし逆巻く水に近づくことが出来ず、弾き返されるばかりだった。
こと水を支配する点において、精霊よりもケルピーの力の方が上位に位置しているのだ。
「くっ、レイリア!」
逆巻いていた水が、不意に力を失ったように崩れ、なんら異変のないただの水たまりへと還る。そこには、レイリアの姿も、白馬の姿ももうどこにもなかった。
「こうなると思ってたよ!」
次に動いたのは、異常を察知して駆けつけていたクロエだった。ラシェルとジョゼットとともに駆けつけていたクロエは、そのまま迷うことなく、荷物だけを岸辺に放って湖に飛び込んだ。わずかな水しぶきを上げ、しなやかな姿勢で頭から入水したクロエの姿が水中へと消える。
「ああもう、失敗したわ! あの子から目を離すなんて!」
ケルピーではなく、レイリアから意識を外してしまった自分に憤慨するマリシエラが、地団駄を踏んだ。
「ど、ど、ど、どうしよう……! レイリアが……わ、私も助けに!」
「落ち着いてください、ここは今はクロエさんを信じましょう。私たちの格好で飛び込んでも、足手まといが増えるだけですよ」
「う、ぅ……でも、も、もしレイリアが帰ってこなかったら……」
「いざとなったら、ウンディーネに力を借りて私が潜るわ……あのじゃじゃ馬猪娘! いらない苦労ばっかり掛けさせて!」
顔を青褪めさせ、気を抜けば今にも倒れるか、そうでなければ自分が水に飛び込んでしまいそうなラシェルを制しながら、マリシエラはマントを外し、胸当てを外して身軽な格好になり、そのときに備える。
三人が不安を募らせながら湖を見守り、どれほど経っただろうか。湖面に泡が浮かび、やがて影がひとつ浮き上がってきた。
「ぷあ!」
水面に顔を出して新鮮な空気を大きく吸い込むのは、クロエだった。続いて上がってくる人影は、ない。
「クロエ、レイリアは!?」
「ダメ、早すぎて追いつけなかった!」
急き込むマリシエラに首を横に振ると、クロエはゆるゆると泳いで岸に上がった。岸辺に腰を下ろすと、頭を振って水を払い、両腕を抱きしめてぶるりと身震いした。
「うぅ、冷たっ! 風邪引きそう……」
「ク、クロエ……レイリアは? ま、まさか……」
怖ろしい予感に震えながらラシェルが訊ねると、クロエはうーん、と首を傾げた。それはどこか気の抜けた仕草で、仲間が水中に消えた動揺よりも、不可思議な光景を見たことへの訝しさが勝っているようであった。
「いや、もしかしたらレイリアが正しかったかも」
「どういう意味?」
「あのケルピー、確かにレイリアを引きずり込んで連れ去っていったけど、どうも溺れさせてるようには見えなかったんだ。なんていうか、背に乗せて運んでるような。レイリアももがき苦しんでる様子もなくて、まるで、それこそ疾走する馬の首に掴まってるみたいだった」
「けれどもしかしたら、レイリアさんを巣に運んで食べるつもりなんじゃ」
唇を震わせるジョゼットに、ラシェルがぶんぶんと頭を左右に振る。レイリアがケルピーの餌食になったわけではない、そう受け取ったラシェルの顔には、先ほどよりも血色が戻ってきている。
「そ、そんな話は聞いたこと、ない。ケルピーは、誘惑した相手をその場で、お、溺れさせる……巣を作る習性なんて、ない、はず」
「まさか本当に、ケルピーが助けを求めてレイリアを連れて行ったとでも言うの?」
「わ、わからない、けど……」
不可解なケルピーの動きに、三人はただただ首を捻るほかなかった。だが答えの出ない疑問を考えたところで、時間は無為に過ぎていくばかりだ。
「いいわ、答え探しは後回しよ。クロエ、ケルピーはどっちに向かったの?」
「島をぐるっと回りこんで、ちょうどあの城跡の下の方。どうも、島の下に空洞があるみたいだった」
「城跡に行けばなにかわかるかもしれないわね……ラシェル、魔法でレイリアを追える?」
「で、できる……!」
「なら急ぎましょう! こうしてる間にもレイリアさんの身がどうなっているか、」
意気込むジョゼットの言葉を、クロエが遮った。
「ぃっくしゅ!」
盛大なくしゃみだった。
「……その前に、この濡れ鼠の身体を乾かしてからね」
「あー……ごめんね。ひっくし!」
「いいわ、これで調子を崩された方が手に負えなくなるもの。十分に身体を温めて、それからあのじゃじゃ馬猪娘をとっちめに行くわよ」
「そ、そっちをとっちめるんだ、ね……」
「っていうか称号増えてない?」
不思議なパーティですね。
たった今仲間が連れ去られたところだというのに、気付けばその仲間への文句で盛り上がっている少女たちを見ながら、同時にジョゼットは、その光景に安堵を覚えている自分に気が付いた。
あるいはこれも、レイリアという少女への信頼の表れなのかもしれない。
もうひとつ、大きなくしゃみが夜泣島に響き渡った。