第8話 生ける屍の夜 中-3
教会が騒乱に包まれる。
松明とともに投げ込まれた壺は教会の床で破れ、瞬く間に炎を燃え広がらせた。その炎に巻かれ、絶叫を上げるもの。その火を消そうと奮闘するもの。そして、変異を遂げたシンシアの父親の姿に狂乱するもの。
「オットーの旦那! なんでだよ! さっきまで生きてたのに!」
「傷は癒してもらったんじゃないの!?」
混乱のるつぼに陥る人々の声を背に浴びながら、リッケルトとレイリアは先ほどまでシンシアの父親……オットーであったゾンビーと対峙する。
「なんで、そんな……」
「レイリア構えろ! あれはもう人間じゃない!」
「でも、助けられないの!?」
「無理だ! 魂を歪められてる!」
歯を食いしばり、レイリアが剣を構える。
オットーが飛びかかってくる。レイリアは咄嗟に剣を振るおうとし、だがわずかな躊躇がそれを遅らせた。
「きゃあっ!」
オットーはレイリアに掴みかかり、そのまま二人で床に転がる。床に倒れたレイリアにオットーが馬乗りになった。
「こ、この……!」
爪を立てようとするオットーの腕を、レイリアはどうにか剣で防ぐ。
「こいつ!」
その身体に、リッケルトが真横から体当たりを食らわせる。オットーは不意を突かれた衝撃に突き飛ばされ、受け身も取らないまま床に打ち付けられた。
だが痛みを感じないゾンビーとなったオットーは、即座に飛び跳ねるように起きると、再び牙を剥いて飛びかかってくる!
レイリアは今度こそ躊躇わなかった。
「わああああぁぁ!」
叫びながら振るった剣は、正しくその首を捉えていた。
切り飛ばされたオットーの頭が、教会の床に転がった。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
レイリアは剣を振りぬいたままの姿勢で息を荒げる。手が震えている。
「レイリア、大丈夫か!?」
リッケルトが駆け寄ると、レイリアは口にたまっていた唾液を大きく飲み込んだ。手の震えは、それで治まった。
「わ、わたしは大丈夫。それより」
「詩人さん!」
ラシェルの叫びに、リッケルトとレイリアは振り返る。
「火が!」
そこには、教会中にますます燃え広がる炎が踊っていた。建物の外壁や柱は石造りだ。だが床は板張りで、あちこちに木や布でできた内装もある。そうしたものが、ことごとく燃え上がりはじめていた。
「樽からありったけ水を汲んできなさい! 早く!」
マリシエラが村人たちに指示を出しているが、とても追いつくものではない。
上階からばたばたと慌ただしい足音が降りてきた。
「ちくしょう、遅かった!」
「皆さん、ご無事ですか!?」
クロエとジョゼットだ。鐘塔から方々で火が灯るのを見て、慌てて降りてきたのだ。
「ボクたちを炙り出すつもりだよ。あいつら、こんなに知恵が回るなんて」
「リック、急いで消さないと!」
レイリアに急かされながら、しかしリッケルトは考えあぐねいた。もう炎は教会全体を包み込もうとしている。この人数で消火できる規模はとっくに超えているのだ。
かといって、外に逃げ出すこともできない。それこそゾンビーたちの思うつぼだ。
ならば、あとは。
「マリシエラ!」
リッケルトは、村人たちを指揮して火を消そうとしていたエルフの少女を呼んだ。
「なによ、今はのんびりしてる場合じゃないわよ!」
「わかってる! マリシエラ、炎の精霊を操ることはできるよな?」
リッケルトの言葉に、マリシエラは首を横に振る。
「それで消すのは無理よ。暴れまわってるサラマンダーが多すぎるわ。ひとつひとつ鎮めるには、私の魔力でも追いつかない」
「それはわかってる。でも、逆に精霊の力を一気に解放するのなら、どうだ?」
マリシエラの表情が怪訝なものに変わる。そしてその言葉の意味を理解して、リッケルトを睨みつけた。
「それならできるけど、本気? 荒業もいいところよ」
「やるしかないだろう。それに、力の逃げ道ならある」
そう言ってリッケルトは、割れたステンドグラスを指さした。
マリシエラは表情を呆れたものに変え、だが一度ため息を吐くと、力の籠った目で頷いて見せた。
「いいわ、やりましょう。でも楽な仕事じゃないんだから、あとでたっぷり労ってもらうわよ」
「生きて出られたらいくらでも」
「取り消しはできないからね。みんな! 中央に集まりなさい!」
マリシエラが大声で呼びかけ、まだ無事な村人たちを一か所に集める。そしてリッケルトたちもそれに従い、教会の中央に集合した。
「ラシェル、≪守りの壁≫の魔法を」
「わ、わかった……!」
ラシェルが呪文を唱え始める。
なにが起こるのか理解できない村人たちは、炎に巻かれる恐怖と、目の前で行使される魔法への怯えにどよめきながら、固く身を寄せ合っている。
もはや教会はその大半が炎の海の中だ。高い天井に煙が充満していく。
「≪守りの壁よ≫!」
ラシェルの呪文が完成し、リッケルトたちの周囲が不可視の壁によって守られた。
それを皮切りに、マリシエラが一歩を踏み出し、大きく手を広げた。そして精霊たちに呼び掛けを始める。だがそれは、炎の精霊に対してではなかった。
「聞きなさい、風の精霊たちよ」
その声に応えるように、マリシエラの周囲の空気がざわめき始める。
「舞え、舞え、舞え、舞え……風よ、舞い踊れ」
ざわざわと周囲の空気がマリシエラの前へと集まってくるかのようであった。
「舞い踊れ、吹き荒れろ、渦巻け、すべてを巻き込め」
風はぐるぐると渦を巻き、天井に溜まっていた煙がそれに吸い込まれていく。そして周囲の炎も。
「次はあなたたちよ、炎の精霊たち」
風に吹かれた炎がいっそう激しさを増す。魔法の守りの中にいてさえ、肌を焼かれるかと思えるほどだ。
「狂え、狂え、狂え、狂え……炎よ、燃え盛れ。風に乗れ、威容を伝えよ、あまねく焼き付くす業火となれ!」
そこに、炎の竜巻が生まれた。神殿の中にあるおよそ燃えるものすべてを灰にせよとばかりに、炎は猛々しく渦巻き燃え盛った。
「ぐっ!」
「きゃあっ!」
「く、ぅ ……!」
ラシェルの魔法がなければ、この場にいる全員がその炎に巻かれていたことだろう。それほどの大炎上であった。
「弾けよ!」
マリシエラが最後の契約を交わすと、風と炎はいっそう大きく舞い上がり、教会の天井で視界すべてを埋め尽くすような炎の海となって広がる。石造りの壁や柱を溶かすのではないかとも思えるほどの炎が天井で渦巻き、リッケルトたちは、ただただそれを見上げていることしかできない。
やがて炎は行き場を求め、唯一開いていたシャンデリアの窓から外へと噴き出し、そして消えていった。
教会に、静寂と暗闇が戻る。蝋燭の火もすべて吹き飛ばされ、残る明かりは破れた窓から差す月の光ばかりだ。
そこらじゅうが煤にまみれ、およそ火の着きそうなものはほとんどが炭と化していたが、それでも彼らは無事であった。
ラシェルが魔法を解くと、マリシエラはその場に膝をついた。
「マリシエラ!」
「平気よ、少し疲れただけ……」
レイリアに支えられ、マリシエラは立ち上がる。
「お見事でした。まさか、炎を吹き上げてはらうだなんて、とても思い付きません」
ジョゼットが心底感嘆した様子で、頬を紅潮させながら称賛すると、マリシエラは気だるげに手を振った。
「思い付いたのは私じゃないわ。そこにいるエルフ使いの荒い吟遊詩人よ」
「そうでしたね。リッケルトさんも、素晴らしい機転でした。バルドーもきっとお二人の活躍を讃えるでしょう」
リッケルトはそれに、ただ手を振るだけで答えた。
そんな会話を聞いていたのかいなかったのか、村人たちから歓声が上がる。
「す、すごいなお嬢ちゃん! おかげで助かった!」
「エルフの力なの!? それで外の化け物たちもやっつけておくれよ!」
「そ、そうだ、出し惜しみしてる場合じゃないぜ!」
マリシエラはそんな村人たちに、きっと鋭い視線を向ける。えもいわれぬ眼力に、村人たちはたじろいだ。
「勝手なことを言わないでちょうだい。あれは、この炎の行き場が限られた空間だから出来たことよ。これを外でやったりなんかしたら、どこまで燃え広がるか分かったものじゃないわ。連中を焼き払うどころか、この村も、森も野山もすべて焼け野原にしてもいいなら、そうしてあげるけれど」
マリシエラにそう凄まれ、村人たちは口ごもった。リッケルトがそれを窘めた。
「落ち着け。今はそれより、これからどうするかだ。それにどうも、なにかおかしい」
「うん、どうしてオットーさんがゾンビーに……」
レイリアが青い顔で零すと、ジョゼットがそれに目を剥いた。
「オットーさんが? どういうことですか?」
「彼はいつの間にかゾンビーになっていたんだ。娘さんを外に放り投げて、俺たちに襲い掛かってきた。レイリアが倒したが……」
今やその亡骸も、焼け残りの炭に紛れて見分けがつかなくなっていた。
「そんなまさか、オットーさんの傷は癒したはずです。それとも、教会の中に死霊術師が?」
愕然とするジョゼットの言葉に、恐る恐る手を挙げるものがいた。
ラシェルだ。
「あ、あの、たぶん……違う……」
「違う? どういうことだ?」
「死霊術師は、き、きっとこの村に来ていない……と思う……」
ラシェルの言葉に、誰もが疑問符を浮かべた。
ゾンビーは死霊術師によって生み出される。それが常識だ。村の中で死んだ人々が間を置かずゾンビーとなって襲い掛かってきたとすれば、近くに死霊術師が潜んでいる以外に考えられないはずであった。
ひとつの例外を除けば。
「む、村に送り込まれたのは、ただのゾンビーじゃなくて、"サヴィートの媒介者"……古く忌まわしい、死霊術の呪い……」
それは、死霊術師の施す呪いを周囲に伝播させる、恐るべき死の運び手であった。
サヴィートの媒介者はゾンビーと同じように、死体に死霊術師が死と呪縛の呪いを植え付けることで生み出される。違うのは、その呪いがあまりに強力で、サヴィートの媒介者を通じて他者にも植え付けることができるという点だ。
サヴィートの媒介者によって植え付けられた呪いは、その相手の肉体の中に巣食い、やがて死に至らしめる。そして、呪縛の呪いによって魂を捕え、ゾンビーとして、そして新たなサヴィートの媒介者として、死霊術師の支配下に加えるのだ。
「む、村の人たちは、サヴィートの媒介者を通じて呪いを伝染されてた、から……だ、だから、魔力の痕跡が辿れなかった……」
「死霊術師が直接手を下していたわけじゃなかったから、ってことか……」
「そんな、そんなの、邪悪なんてものじゃありません……放っておけば、際限なくゾンビーが増えてしまう」
ジョゼットはそう頬に手を当て、心の底からの嫌悪感を吐き出した。
「どうにか呪いを止める方法はないの?」
「ひ、ひとつだけ……」
「ラシェル、それって」
拭い切れない悪寒にリッケルトが呻くと、ラシェルはそれに、申し訳のなさそうな顔をした。
「死霊術師を、探し出して、倒す……へ、変異してしまったゾンビーはどうにもならないけど、呪いの根源が断たれれば、そ、それ以上増えることはない」
やはりほかに手はないのか、とリッケルトは頭を抱えた。なんの目的があるのか、そもどこにいるのかもわからない死霊術師を見つけ出さなければ、この異変は終わらないというのだ。
「けれど、術者がもうこの世のものではなかったら? そうなったらお手上げよ」
「そ、それはない……媒介者はあくまで呪いを伝えるだけ、だから……こ、根元となる術者は、いまもどこかで呪いを行使し続けてる、はず……」
マリシエラの懸念は、ラシェルによって否定された。
だが、それを吉報だと喜べるほど能天気な状況ではない。いずれにせよ、この教会を、ロクセンの村を無事に脱しない限りは叶わぬ話なのだ。
「し、詩人さん……」
ラシェルのか細く震える声で名前を呼ばれ、リッケルトは周囲を見回した。
自分を見つめる、いくつもの不安げな顔があった。ラシェルの、ジョゼットの心細さを浮かべた表情。マリシエラはきつく自分の肩を抱きながら、その額に薄く汗を浮かべている。クロエはどこか遠くに目をやり、レイリアは俯いていた。その外から怯えた顔を見せる村人たち。
どうして俺を見るんだ。リッケルトは零れかけた言葉を飲み込んだ。自分には戦う力も、この現状を打破するような力もないというのに。
自分に出来るのは、ただ道を示すことだけだ。
だが、そうであるならば、出来ることをできる限りにやるべきであろう。
リッケルトは腹を括り、顔を上げる。
「ラシェル、媒介者とゾンビーに大きな違いは?」
「の、能力的には、ほとんど同じ……問題は、の、呪いを伝染される危険」
「それなら、個々の対処は十分可能だ。ゾンビーの能力は生前の能力に依存する。歴戦の戦士たちのゾンビーってわけじゃあない。夜が明けたら強行軍でここを出ることも考えよう。ジョゼット、聖別や退魔はできるか?」
「はい、もちろん」
「なら勝機はあるはずだ。それから気を付けないといけないのは……媒介者の呪いは解けるのか?」
「し、死に至る前なら、高位の司祭が解呪できる、けど……」
「私にはそんな高等な奇跡はまだ使えません。とにかく今は、ゾンビーに呪いを植え付けられないように注意しなければ」
ジョゼットの言葉に、ラシェルは頷いた。
リッケルトもそれに同意し、一同の顔を見回した。その視線が、俯くレイリアに留まる。
「レイリア」
「…………」
「レイリア、大丈夫か?」
「…………リック、わたし」
「みんな」
レイリアの様子に気を取られていたリッケルトたちは、クロエの言葉に一斉に振り向いた。
「あれ、不味いんじゃないの」
クロエの指さす先には、半ば以上燃え落ち、もはやその面影の大半を失った、ヴェアネスの聖印があった。破れた窓からひょうと吹き込んだ風によって、かろうじて壁にかかっていたタペストリーが、ついにその役目を維持することを放棄し、襤褸切れとなって床に落ちる。
「そんな、ヴェアネスの聖印が……これでは教会の守護が」
炎に巻かれ、半ば炭となりかけていた木材が破られたのはそのときであった。方々の窓からべきべきと端材のへし折れる音が響き、我先にと窓から教会の床へと落ちてくるいくつもの人影。
朝を待って動こう。
そう考えていたリッケルトたちの思惑は、早くも放棄せざるを得ないのであった。