19:あたらしい名前
翠玉姫は春龍様に名前を捧げて、記憶のすべてを失ってしまった。それからつきっきりで看病をしていたらしいけど、谷底で毒を食べて死んでしまったんだ。
まだ息があったうちに妖精の泉に投げ込まれて、”変質”した。
それは春龍様が指示したわけではなかったそうで。
「緑の妖精がやったらしいな」
影さんがそう言う。
緑玉姫の肩にいる緑の妖精がかなりの早口でまくしたてたことを翻訳してくれた。小さな手足を必死に動かして、翠玉姫の盾になろうとしているような。
そんな様子を見て、ハオラウ王子は唖然としてる。
「彼らが助けようと決めて、"妖精の泉に招待した"。彼女は銀色の泉で変質して、魔力が多くて、名を失っていたためにあらたに妖精女王様になれたのだろうと。
ずっと死ぬことのない特別な妖精女王様なのだ」
ティターニア、ではないのね。
風変わりな発音で妖精女王様と呼んでいる。
影さんは「ふふうっ」と満足げな息を漏らした。
「谷底には長らく妖精たちを束ねるものが生まれなかった。おそらく土地が弱っていたからなのだろうが……。我々としては、歓迎するばかりだな」
「ほんとうか?」
ハオラウ王子が目を見張っている。
影さんたちだってずっと国に対して不信感を持っていたのにそんなにすぐに許すのか、って感じかな……。
けれど影さんはさっぱりと言う。
「現状に異議はない。
緑の妖精たちだってバカではないんだ。記憶をなくしてからの翠玉姫が、春龍様の言うことをよく聞いていて、治療に勤めていたからだと言っている。春龍様の声はもう随分とかすれていて聞き取れないほどだったけれど、翠玉姫になら聞くことができた。
言葉を翻訳し、泉で水を汲んで運んでやって、谷底を歩き回って桃を探して食べさせて、できるだけやわらかな葉で体を拭いたそうだ。眠る時には懐かしい歌を歌ったのだと」
「覚えていないわ?」
翠玉姫、ここはちょっと黙ってて。
「たとえ覚えていなくても、やったことは消えたりしない。現実とずっと繋がっている。だから貴女が、妖精女王様としてここにいる」
「……(にこ!)」
よくわからないので笑うことにしたようだ。うん。
表情がふわふわしていて赤ちゃんみたいだよね。
そしてふんわりと視覚に現れることって、友好的なコミュニケーションだ。
ちらりと前にいるハオラウ王子の背中を見る。
両手には双子がぶら下がっているので、もう刃物を手に取ることはできないだろう。
たっぷり時間を取ってから、ポツリと聞いた。
「……………………………………この国や谷底を、害するつもりはないのだな?」
「ないわぁ」
「妖精女王様は、妖精を管理することしかできない。妖精の住処である谷底を富ませてくれることだろう。もう人間ではないのだ、自然を害することはできないさ」
影さんがぐるりと後ろを振り返った。
息を呑んでなりゆきを見守っていた平民街の人々が、ビクッと反応する。
翠玉姫をチラチラ眺めているけれど、その目には悪い感情は浮かんでなさそうだ。
どちらかといえば好奇心? そうだよね、初めてみる妖精女王なんだから。白銀にうっすらと輝いていて唯の人ではないのは明らかだ。浮世離れしている。
死や、名と記憶を捧げた事、それ以上の償いってなんだろう。原状回復をせよというならば、生まれ変わった彼女はまさしくそのためにここにいる。
にこやかな翠玉姫に袖を振られて挨拶されて、平民のみなさんはぽうーーっと見惚れている。
危険な存在ではないって認められたからか、ちょっと気が緩んでいるみたいかな。
「我ら影はこの妖精女王様を歓迎しようと思う。そなたらは?」
「……」
「……」
「……」
そんな急に決められないでしょ〜。
影さんたちと違って、谷底の事情に詳しくもないし、魂が繋がっているわけでもないんだから。
フェンリルの服の裾を摘んだら、頷きが返ってきた。
「フェルスノゥ王国においては、雪妖精と妖精女王は手を取り合う存在だった。大精霊フェンリルの手助けをしてくれて雪の大地をよく富ませてくれた。しかしながらそこに、人間に操られた緑の妖精の襲来もあり──」
ちょ、ちょっとフェンリル、それここで言っちゃって大丈夫なやつ?
「そのようなことが起こったのも、緑の妖精に”統率者”がいなかったからなのだと今、判明したようなものだな。私たちからも、彼女の誕生を祝うよ。春龍が治ってよかったと言ってくれた言葉を信じよう」
……なるほどね。
平民の方々にもわかりやすく、妖精女王様が必要な理由を説いたわけだ。
くっ、ウインクするフェンリルが眩しいぜ。好き。
「まあまあ、嬉しいわぁ!」
翠玉姫がぱああっと微笑むと、足元の石の隙間からぶわりと緑の魔力が立ち昇った。ホワホワとした苔のような植物が生えてくる。
あ、これがあると足が痛くなくていいなぁ……
平民のみなさんが不思議そうに足踏みをしているけど、足音が響き過ぎなくてちょうど耳に心地いい。さっきまでは歩き方が未熟な子どもたちがジャリジャリと音を立てていて、ちょっと耳に痛かったから。
──妖精女王が豊かに緑を育む、春龍様のお手伝いをする。
すっかりと平民には信じられたようだ。
こちらの方が思考が素直だよね。
ハオラウ王子はまだ悩んでいるようだし。
「……僕の感情の問題のようです。拙くて申し訳ない。頑張って矯正してまいりますので、もうしばらくお時間をいただけますか」
「感情は頑張ってもどうしようもないですよ。自然に受け入れられるまで、待つのがいいと思う。もしも今、むりして『受け入れます』って言っちゃって、『あら受け入れてもらう必要があるのか知らないから教えて下さらない?』って返されたら?」
「…………恨みが深くなりそうだ。やめておきます」
「そうしなよ」
とんとんと軽く背中を叩いておいた。
「こうすると肩が軽くなるんですよ」
「そうなんですか?」
ええ、プラシーボ効果っていうんです。
ジェニ・メロが翠玉姫のほうに走っていった。
そして前に行くと、優雅なフェルスノゥ式の最敬礼をする。
「「貴女様の友人である、フェルスノゥ王国のミシェーラより手紙を預かってきています」」
「まあまあ! わたくしには友人がいたのね。人の友って初めてだわぁ。いつもは蛇やネズミと遊んでいるの。なんて書いてあるのかしら!…………読むことができないわぁ」
「「お教えします」」
「えええ、めんどうだわぁ」
これには、ニコニコと応対していたジェニ・メロもぴきりと固まっている。あちゃー。
おそらく二人は勉強大好きだったし、学びが尊ばれる環境にいたからなかなか衝撃的な発言だったのかもね。
そのあとも、少し教えようとしたら面倒がられてしまうという押し問答。
なるほどこれは強敵だわ。翠玉姫って勉強嫌いだったんだ。
ハオラウ王子がなんだかスカッとした表情してるのは、ジェニ・メロがしてやられているからとかですかね……?
ほんのわずかな小声を耳にしてしまう。
「僕はもう翠玉姫に勉学を教えなくてもいいようだ」
よっぽど苦労なさっていたんですかね。
勉強嫌いの王族なんてやっていくの難しいと思うし、勉学の席に誘うように国王様に頼まれていたりしたのかな。
ハオラウ王子の性格だったら予習復習に付き合ったりしてあげそうだ。あの国王様って味方が少なそうだし、頼み事は身内に、みたいな?
溜まっていく他人の業務。自分の仕事は減らなくて。けれどそのかいなく本人の記憶からは消去と。
……どこの社畜の残業かなぁ……?
おっと、遠い目になってたらしく、フェンリルに撫でられた。
「翠玉姫は感覚派なら、それって精霊だとか妖精だとかに向いていますよ。感覚を感じながら魔法を使うんですから」
「……冬姫様。そうなのですね」
「翠玉姫、メイシャオ、って何度もおっしゃっているのはわたくしのことなのよねぇ?」
まさかの、彼女には剥奪されて以降の名前がなかった。
生贄のように谷底に送られてから、春龍としかろくに会話をしていなくてつきっきりだったからのようだ。
会話が通じるような存在はいなかったらしい。蛇とかネズミの鳴き声、聞き取れない妖精の声とかじゃ、コミュニケーション取れないよね。
「とりいそぎの名をつけてあげるのがいいだろう。名は魔力を表す、魔力は名に宿るのだから」
「今、気持ちが溢れちゃって苔とか花の芽吹きになっているけどコントロールできるようになる感じ?」
「そう。もう捧げた名は使えない」
メイシャオ・リーは春龍様のもの。
ハオラウ王子に託した。
彼は大変悩み、けれど決意をした。
既存の言葉をアレンジしてまったくあたらしい音に仕立てたそう。あたらしい彼女にふさわしいように。
「桃」
桃から生まれた桃姫様。
だって死んでしまうきっかけは毒品種の小桃だったそうで。
緑の国、奥が深いぞ深すぎる。
「妖精の泉を通って、すぐに谷底にまいりましょう。タウシュエが、連れていってあげる。タウシュエがね、タウシュエが!」
嬉しいようで何度も繰り返していた。
それを聞いたハオラウ王子は「発音があまりできてない、しばらく『タウ』でいい」と文句をつけていた。キビシー。なんかそういうところだと思うぞ。
けれど妖精の泉に入るときに、彼の口元はほんのりと苦笑していた。タウに、笑いかけることができたんだね。
読んで下さってありがとうございました!
₍˄·͈༝·͈˄₎◞ ̑̑




