90話 魔界側
盥に注がれた程好いお湯にタオルを浸して適度に絞り、疲れ果ててソファーの上に倒れているネフィの顔に乗せたアシェリー。
「生きてる?」と問うと「いや……魔力使い過ぎて死にそう……」とかなり眠たげ声が返ってきた。
空いているスペースに座って肘掛けに肘を置いて頬杖をついた。
「いきなり過ぎてぼくも意味が分からない」
突然だった。
今日は成人を迎えた記念にとアイリーンとユーリが二人、護衛としてナーディアを連れて人間界へ降りた。多少の興味はあれど、態々行く程でもないアシェリーは断った。ネフィは気が乗らない、ソラも同じ理由、ハイネは二人……特にユーリを気にして行かなかった。
五大公爵家の嫡男であるアシェリーとネフィは成人すると毎日妻の座を狙う令嬢達に追われる羽目になった。気になる相手がいるのなら何時でも言えば良いと言うのが父レオンハルト。優秀な女性をと候補を絞っているのがネフィの父アリス。
アシェリーとネフィ、二人して共通するのは特定の相手はいらない、というもの。誰と接しても退屈ですぐに飽きてしまう。淫魔の血が半分流れるアシェリーですら異性の体を欲しないのだから、夢魔のネフィが遊ばないのも頷ける。
今日も退屈な一日が始まる。一応、人間界から戻ったユーリにアイリーンと進展があったかだけ聞く楽しみはあった。誰がどう見てもアイリーンが好きユーリであるがナーディアが護衛として同行しているから、期待する成果は上げられないだろう。魔王城にある談話室でソラを交えて盤上遊戯を楽しんでいた時だった。
息を吸って、吐いただけのとても僅かな時間の間に非常に大きな変化が起きた。
今まで当たり前のように忘れていたアフィーリアの事を突如として思い出した。
駒を盤上に置こうとしていたネフィの手は時間停止でも受けたのかと言いたくなる程に止まった。アシェリーやソラも同様。コトリと駒を落としたネフィは何度も瞬きを繰り返し、漸く出せた一声が――
「は……?」だった。
「お……おい、なんだよこれ……なんで今になって……」
退屈と渇き、楽しいと思える事が極端に減ったのは十三年前から。どうして退屈なのか、毎日登城していた魔王城に行きたくなくなったのか理由は本人でさえ分からなかった。大人達に諭されても足を向けなくなった理由を漸く解した。
怒涛の勢いで頭に流れる記憶。
ずっと一緒にいたのに、突然記憶から削除された存在。消えたのが突然なら、戻るのもまた突然。
アフィーリアの記憶が完全に戻ったと自覚した途端、外からけたたましい爆発音が響いた。魔力を感じる方向から察せられるのは謁見の間。
「どう考えてもアフィーリアだよな」
「それしかないよ。って、気になるから早く行こう」
頭をガシガシと掻いて厄介だと言いたげに紡ぐソラに同意し様子を見に行くアシェリー。ネフィやソラもアシェリーに続いて謁見の間へと急いだ。
三人が駆け付けると謁見の間の半分が吹き飛ばされた後だった。中には魔王であるロゼと荒れに荒れているロゼを何とか落ち着かせようとしているリエルとアリスがいた。三人が着いた直後にレオンハルトとシャルル、ガルディオスが到着した。
「陛下!どうか、お気を確かに」
「あいつが、あいつがアフィを奪いに来ていると警戒していたのに、この十三年間たったの一度も気付けなかったっ。あいつからアフィを連れ戻さないとっ」
瞳孔が開き、側近達の声に耳を傾けず、ひたすら名前を言わない誰かへの激しく重い怒りに満ちているロゼからは息をするだけで酸素を根こそぎ奪われる濃い魔力が溢れていた。
ガルディオスがリエルとアリスに変わってロゼに近付き、冷静さを取り戻すよう諭してもロゼの耳には届いていない。状況を見兼ねてレオンハルトがガルディオスを退けてロゼの前に立った。
「落ち着けロゼ。じじいがアフィーリア嬢を粗末に扱っているとは思えない。お前の娘でも大事にしている筈だ。いや絶対に大事にしている」
「何を根拠に」
「……ネフィ!」
「え」
いきなりレオンハルトに名を叫ばれたネフィは呆気に取られつつも、手招きをされては行くしかない。大爆発寸前のロゼに近付きたくない気持ちは強いままにレオンハルトの許に着いた途端。
「悪く思うなよロゼ。お前がアフィーリア嬢の所に行ってもアフィーリア嬢は絶対に魔界へ戻る気はないだろうからな」
ロゼが口を開く前にすかさず強制睡眠に掛ける魔術を最大出力で当てた。抵抗も無理なまま眠ったロゼを玉座に座らせ、呆気に取られるネフィを更に手招きで寄せたレオンハルトはこう告げた。
「ネフィ。暫くロゼが起きないよう夢の主導権を握るのだよ」
「は!?なんでそんな」
「いいから。このままロゼが起きていては、すぐに人間界へ飛んで行ってアフィーリア嬢を連れ戻そうとする。それだとあのじじいと全面戦争になってしまうんだ」
「なんだかアフィーリアを人間界に置いて置きたいように聞こえるんだけど。つうか、誰だよあのじじいって」
「後で説明してあげるから、我輩の言う通りにするのだよ」
「……分かったよ」
チラリと父アリスに同意を求め、頷かれたのを確認後眠るロゼの前に立ち夢魔の力を使った。
――ロゼを暫く夢の世界から抜け出せなくした後、十三年前何が起きたのかとアフィーリアが人間界へ行きたがっていた理由をレオンハルトとシャルルから聞かされた面々はそれぞれ頭を抱えた。始祖の魔王が関わっていながらアフィーリアを助ける手立てがない時点で他ではどうこうする手段がない。
「あの人は何時フィーちゃんに接触していたの?」とリエルに訊かれるレオンハルトは肩を竦め「さあ?少なくとも木に登って頭を打って以降だろう」と答えた。アフィーリアが人間界に行きたがった時期はアイリーンに木登りを教えるとかで足を滑らせ頭を打った日以降。
「父さん達なんか覚えてたっぽい感じだったけど?」
「覚えてたよアシェリー。あのじじい相手に準備万端なんて言葉は存在しないから、過剰なくらいの準備をしたお陰で我輩とシャルル殿だけ覚えている状態になったんだ」
「……で、なんでアフィーリアをぼく達は思い出したの?」
「魔界の誰かと接触したんだろう」
一番可能性が高いとすればユーリやアイリーン。人間界にアイリーンに似ている人間を見たら、興味をそそられるだろうというのが予想。
「ふむ」と何か納得した声色を出したシャルルに反応したレオンハルトが目をやると「アフィーリア様の居場所が分かった。恐らくウアリウス様も一緒だろう。少し様子を見て来よう」と言うが早いか、一瞬で姿を消した。
「アフィーリア嬢を手元に置いておきたいだろうじじいの考える事としたら……」
幾つかの予想を立ててもどれもほぼ同じ。なら、自分も行くか、と呟いてレオンハルトも消えた。
「行っちゃった……」
「……」
レオンハルトがいた場所を見つめ、呆然と呟いたアシェリーの視界の端に揺れる青が映り、振り返るとネフィが床に膝を付いていた。眠らせたのは魔王。夢の世界は夢魔が王だろうが相手が相手なだけに魔力を大量消費して疲労が濃い。ソラと二人でネフィを支え、談話室に行くとだけリエルやアリスに伝え談話室に向かった。
到着するなりネフィをソファーに寝かせ、今に至る。
向かいに座るソラが呼び鈴で使用人を呼びつけ、冷たい飲み物を指示して背凭れに体を預けた。
「はあ……あの場にハイネがいなくて良かったかもな」
「どうして」
「アフィーリアがおにばばと同じになるって聞いた時、昔アフィーリアがユーリに引っ付いていた時のこと思い出したんだ」
木登りをして頭を打つ前までは、よくユーリに引っ付いていたアフィーリア。嫌がろうが文句を言われようがユーリの側を離れなかった。ハイネが何度か苦言を呈してもアフィーリアは離れようとしなかった。但し、側にアイリーンやハイネといった自分以外の誰かが来ると側を離れていた。
「体を乗っ取られなくてもアフィーリアはユーリが好きだろうってな」
「違うだろう」
タオルを額にずらしてネフィも会話に参加をする。
「あいつがユーリの側にいたのは、おにばばからユーリを守る為だって。まあ、本人が無自覚だったから勘違いされても仕方ねえけど」
「無自覚だったのかよ」
「ああ。ただ、ユーリは気付いていた筈だ」
一番コーデリアからの虐待を受けていたのがユーリだ。アフィーリアがいるとコーデリアは迂闊に手を出せなくなるとユーリも解し、しつこく側にいようとした理由を知っている筈。
もしもアフィーリアが魔界にいたままでしつこくユーリに迫る光景を想像してみた三人。無言になった。とても想像し難い。
「……にしても」とネフィ。
「気になるな…………」
記憶が戻った本当の理由が。
この後、大怪我を負ったユーリと泣きじゃくるアイリーンが戻って違う騒動が起きるとはまだ知らない。
読んでいただきありがとうございます。




