80話 人間界へ行こう
――どうして、なのかな
夜空を女王の如く独占し、君臨する黄金の月が今日も魔界の夜を照らす。月の向こう側には悪魔達の天敵が住む天界がある。
天界の姫の血を半分引く魔界の第一王女アイリーンは先日成人を迎えた。昔からの幼馴染達や異母兄弟達、両親や周囲の人々から祝福されても心の底にある寂しさが埋められる事はなかった。何時から抱いているのかもう分からない。少なくとも十年以上は感じている。
大好きな母や父といても、仲良しな侍女トリオといても、密かに想いを寄せる彼といても、心の底に空いた穴は塞がらない。空洞を通っていく冷たい風は何時になったらアイリーンの中から消えるのか。本人にだって分からない。
誰に貰ったか覚えのない不細工なクマのぬいぐるみを抱き締めたまま、テラスへ出ていたアイリーンはマファルダの「姫様、お部屋に戻りましょう」と言う声に従って戻った。長く夜風に当たって体は冷えていて。部屋の中を魔術で温めてもらう。ベッドに腰掛けたアイリーンは強くぬいぐるみを抱き締めた。
不細工で形は歪。侍女トリオに何度も捨てましょう、新しいぬいぐるみを買ってもらいましょうと勧められても決して手放そうとしなかった。
与えた覚えがない母シェリーはどんな形をしていようとアイリーンが至極大事にしているのなら、ずっと置いておきましょうと侍女トリオを止めてくれた。
「……」
このぬいぐるみをくれたのはどんな人なのか、思い出そうとしても思い出せない。お城の誰かなのだろうが、誰に聞いてもあげた記憶がない。そもそも、魔王のたった一人しかいない愛娘に形が歪で不細工なクマのぬいぐるみを渡す度胸のある者はいない。アイリーンは優しいから相手に気遣って貰ったのだと周囲は言うが、そうなのかと自分自身で問うてみて――結果は違う、と断言した。ただ、そんな答えを得てもプレゼントをしてくれた人が誰か分からないまま。
埋められない寂しさとクマのぬいぐるみを与えてくれた人は繋がりがあるのだろう。何を思ってぬいぐるみを与えてくれたのか。職人ではなく、明らか素人が作ったぬいるぐみ。既製品でもない。
誰に何を言われても手放さないのは、自分自身がこのぬいるぐみに込められた思いを知っているから、相手を知っていたから手放したくない。そんな気がしてならない。
今日残るのは眠るだけ。部屋が温もったお陰で眠気が強みを増した。目元を擦るとナーディアが前に出た。
「本日はお眠りになられますか?」
「うん……そうする」
起きていてもする事がない。本を読むのは嫌いじゃないが気分でもない。ナーディアの言葉に頷くも、扉を叩く音が。ベルローナが出ると訪問者はユーリだった。
母親違いでアイリーンと同い年。青みががかった銀髪を縛りもせず下ろしているのは、彼も就寝前。ユーリに入ってもらうと寝台の隣を叩いて座ってもらった。
「悪いな、こんな時間に」
「いいんだよ。でも珍しいね」
「アイリーンを誘いに来たんだ」
「誘い?」
ユーリの訪問理由は、アイリーンも成人を迎えた事もあり、人間界へ行ってみようという誘いだった。
ずっと魔王城で生活をし、両親や周囲から大事にされ続けたアイリーンにとっては未知の世界で恐怖心はある。
「ユーリも行くの?」
「当然だろう。そうでないとアイリーンを誘ったりしない」
「そうだよね。人間界か……」
授業や大人達が偶に話して知るだけの世界。行ってみたい気持ちはないわけじゃないが、積極的に行きたいとも思わない。ユーリが行くのなら自分も行ってみたい気持ちはある。そう伝えると微かな笑みを浮かべたユーリに頭を撫でられた。同い年なのに幼い子供扱いをされて頬を膨らませた。
「そういうところが子供っぽい」
「揶揄わないで!」
「はは、ごめん」
もう!と怒ってみせてもユーリの揶揄いが含まれた瞳はアイリーンを見つめたまま。これ以上剝れたらずっと子供扱いをされる。機嫌を直して急に人間界へ行きたいと思った理由を訊ねてみた。
ユーリや双子の弟ハイネ、幼馴染トリオのアシェリー、ネフィ、ソラも成人を迎えて好きに動き放題となった。
ただ、人間界へ行ったという話は聞かない。まだ魔界で行動しているだけ。
「皆より早く人間界に行きたいの?」
「そうじゃない。クリスタおばさんが長期休暇を取ったら人間界へバカンスへ行くだろう?そんなに良い場所なら俺も行ってみたいなって」
長期休暇の度に人間界へ行き、楽しい生活を送れるなら、外の世界を知らない子供からしたら未知の世界でワクワクが止まらない。大人になったばかりで、ついこの間まで子供だったユーリからしたら魅力的に見えるのだ。ユーリと一緒なら父ロゼも了承してくれる。
アイリーン自身も少しだけ人間界に興味を抱いた。
「ユーリの話を聞いてたら私も行ってみたくなった。明日、父様にお願いしてみようかな」
「おれが一緒なら、一日だけならいいと父上には了解を貰ってる」
「そうなの?」
アイリーンが行かないと言ってもユーリ一人で行くつもりだったらしく、その時も一日だけという条件付きらしい。まだまだ心配みたいだ。
「人間界に行ったらお土産を沢山買わないとね」
「どんな物があるか楽しみだな」
「うん!」
帰ったら沢山の話が出来るように色んな物を見たい。一日だけと条件付きだが、短い時間の中でも得られる物はきっと多い。
ユーリに微笑みながらアイリーンの心には別の人がいた。
ユーリの淡い紫の瞳と違い、本物の宝石にも負けない美しさを持つ濃い紫水晶の瞳を持つ人。
昔、数百年に一度しか咲かない特別な花『月の花』の花弁を抽出して出来た水晶でペンダントを作ってアイリーンにくれた。そして、隣にいるユーリも彼――ベルベットから『月の花』で作られたペンダントを貰っている。ほぼ初対面でお互いをあまり知らないのに特別な水晶を渡してきたベルベットの真意は不明のまま。
彼は一言こう言っただけ。
『君達二人に渡してほしいって、頼まれたから』
誰か、とはベルベット自身も分からない。
これは何度もベルベットを訊ね、漸く話してくれた時に喋ってくれた。
この時からアイリーンはベルベットを少しずつ気にしだした。ベルベットからは素っ気なくされ、訪ねても相手にされないどころか折角会えても姿を消される。見兼ねたユーリがベルベットを非難するも、アイリーンは止めてきた。
このせいなのか、ユーリはベルベットを快く思っていない。何となく初めて会った時からお互い合わないと思っていたらしく、会っても必ずベルベットが先に姿を消す。殆ど面識がないのに合わないのは元からの性質からくるのだろう。
「あ、ねえユーリ。人間界に行くなら他の人も誘おうよ。アシェリー達もきっと行きたいって言うよ」
「なら、あいつ等には明日おれの方から声を掛けておくよ」
「じゃあ、ベルベットも誘おうよ。ベルベットは成人してすぐに人間界へ行ってるから、とても頼りになると思うよ」
ベルベットの名を出すとあからさまにユーリの機嫌は悪くなった。顔を顰めてもアイリーンは気付かない。
「……ベルベットは少し前から人間界に滞在してる。アシェリーが言ってた」
「そうなんだ。シルヴァ公爵家の血がそうさせてるのかな」
「詳細は知らない。ただ、アシェリー曰くベルベットは探しものをしてるんだと」
「何を探してるの?」
「本人も分からないみたいだ。何を探しているか知りたくて人間界に行ったと聞いた」
「たった一日だけだけど、ベルベットが探してる物を手伝うっていうのはどうかな」
人間界に詳しいベルベットの側にいれば安全というのは建前で、本音はベルベットの側に少しでも長くいたいだけ。アイリーンは自分の想いがベルベットに届いていなくても、周囲の何人かには気付かれているとは知らない。眉間に皺を寄せたユーリの雰囲気が一瞬怖い物になるも、気付いていない振りをしてアイリーンは話し続けた。
「それにベルベットは人間界に詳しそうだし」
「事前準備はする。大体、おれ達が行ってもベルベットの邪魔をするだけだ。人間界の何処にいるかまでは分からないからな」
「そう……なんだ」
なら仕方ない。残念な気持ちは大きいが無理に探してまでベルベットの側に行っても折角誘ってくれたユーリに申し訳ない。気を取り直して人間界のどんな場所へ行く予定なのかとユーリに訊ねた。幾つか候補があるらしく、その中でも特に繁栄している国に行きたいとか。
「その国は、大昔、人間と大天使が恋に落ち神が祝福したことにより造られた国らしくて。王族は皆大天使の末裔なんだとか」
「天界との繋がりが強そうな国だね。行って大丈夫なの?」
「明日、父上に相談するよ。魔力を使い行為を一切しなければ大丈夫な筈だし」
些かの不安はあるものの、騒動に巻き込まれる確率は低そうで。
明日、ユーリとロゼの話し合いによって決めるが人間界行を楽しみに待つアイリーンである。
「…………お前も…………あいつが……」
浮かれているアイリーンの耳にユーリの言葉は届かず、自分で言っておきながら自分の言葉に矛盾を感じた彼に気付きもしなかった。
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