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先日電車の中で奴の事を考えたせいだろうか?
あれから三日後の夕飯時に、ふらりと奴が現れた。
噂をすれば影が差すと言うには、些か時間が経ってからの登場だが、実に奴らしいと思う。
奴の名前は武井・巳善。
年齢は私と同じ二十八歳で、私の数少ない友人の中でも、最も普通と言う言葉から縁遠い人物だろう。
私は巳善を邪気の掃除人だと認識しているが、奴自身が名乗る肩書は、退魔師だったり悪魔召喚師だったり、或いは妖怪交渉人だったりと様々である。
巳善の言葉を全て信じるならば、奴はまるで伝奇小説の主人公の様な人生を送っているらしいが、私から見ればただの社会不適合者だ。
そう、つまりは私の同類だった。
因みに私は巳善の手伝いで邪気は何度も見たが、奴の言う悪魔だの妖怪だのには、未だ一度も遭遇していない。
尤も奴に頼まれる手伝いは、ある場所に大量の御札を貼ったり、指定された時刻に警察に通報したり、絶対に開けるなと言われた謎のトランクを預かったりする位なので、そもそも遭遇の機会がないのだろう。
興味があるかと言われれば是であるが、見たいかと問われれば否なので、この先も見ないで済む事を願ってる。
私はそれなりに知識欲はあるが、少し知ればそれで満足出来るから、実際に面倒を背負ってまで見たいとは思わない。
例えるならば、動物なら図鑑で見て知れば満足できるから、わざわざ動物園には行かないのだ。
悪魔やら妖怪に関しては、巳善から聞かされる話だけで充分である。
さてそんな巳善だが、割と律儀な所もあり、手土産に立派な鯛を一尾持って来た。
どうしたのかと問えば、釣ったと言うので、溜息一つ吐いて台所を奴に貸す。
多少の料理は私もするが、流石にこんな大物を、今から自分で鱗を取って捌く気には到底ならない。
「鯛しゃぶで良いか?」
なんて風に聞いて来るので、私は頷き、床下収納に仕舞ってある焼酎を取りに向かう。
私が普段嗜む日本酒は常に冷やしてあるが、奴の好みは焼酎だ。
台所に向かう巳善の後を、十歳位の、見知らぬ少女がちょこちょこと追いかけて行くが、……まぁ物盗りの類には見えないし、別に良いか。
あんな年齢の少女に酒を呑ませる訳にも行かないし、彼女には茶でも入れてやるとしよう。
食卓に鍋と野菜と鯛の切り身、そして取り皿等が三人分並んでいるのを見、先程の少女はやはり巳善が連れて来たのかと納得をする。
全く無関係に家に乗り込んで来て居たら、食後に親か警察にでも連絡し、引き取ってもらわねばならない所だった。
尤もその少女の風体を見る限り、巳善の関係者に間違いないとは思っていたが。
何せ十歳位の見た目にも拘わらず、その少女の髪は真っ白で、何より子供とは思えぬ程に疲れた目をしていたから。
まぁ真っ当な子供でない事は、察しが悪いと言われる私にだってわかる。
恐らくは、今日巳善が我が家を訪ねて来たのも、この少女が関係しているのだろう。
つまりは、何らかの厄介事の種と言う訳だ。
「じゃあそろそろ紹介しようか」
だから巳善がそう切り出した時、私は迷わず首を横に振ってから、ぐびりとグラスの酒を呑む。
実際の所、巳善の知り合いであるのなら、別に正体が何であれ私にとってはどうでも良い。
巳善と同じく、目障りな邪気を発しないなら、客として好きな風に振る舞ってくれて構わないのだ。
しかしふと見れば、少女は鯛しゃぶの食べ方には少し戸惑ってる風だった。
成る程、大人の男である私や巳善なら、座ったままでも楽に鯛の身を湯にくぐらせれるが、少女の身長では些か厳しい物がある。
察するに、食事中に膝立ちになるのは行儀が悪いとでも躾けられているのだろう。
ならば仕方ない。
私は少女と巳善の側へ鍋を押しやると、敢えて膝立ちになってから箸で掴んだ鯛の身をゆっくりと湯にくぐらせ、ポン酢に浸けてから口に運ぶ。
そしてもう一度、ぐびりと酒を呑む。
家の主である私が率先して行儀の悪い真似をすれば、客である少女が同じ行いをした所で失礼には当たらない。
まぁ酒は流石に余計だが、これなら少女も食べ方と、膝立ちになっても構わないのだと伝わっただろうか。
少しだけ、ほんの僅かに口元を綻ばせた少女が私を真似て膝立ちになり、しゃぶしゃぶと鯛の身を湯にくぐらせる。
楽しそうで実に結構だ。
その姿に満足した私が、座り直して手酌で杯に酒を注げば、巳善は何故だか呆れた風にこちらを見ていた。
「御前って本当に面倒臭い奴だなぁ」
そんな風に言うけれど、一体何の事であろうか。
大体の場合において、私に面倒事を持ち込むのは巳善の方である。
私から誰かに面倒を持ち込んだりは、……まぁ稀にしかしない。
そもそも働いていないし、外との関わりは少な目なので、然程面倒事に遭遇しないのだ。
私がそんな風に反論すれば、巳善は溜息を一つ吐く。
「はぁ、まぁ御前はもうそれで良いよ。取り敢えず仁木、その子、タテリを暫く預かってくれ」
そして物凄く唐突に、そんな事を言い出した。
突然の巳善の申し出に、当たり前だが私は首を横に振る。
この家に部屋は多く余っているが、そう言う問題ではない。
私が二十八歳の独身男性で、この家に一人暮らしをしている事は、付近の住民なら殆どが知ってる話だ。
そんな私の家に、十歳位の少女が住み付いて出入りしている姿を誰かが目撃したら、果たしてどうなるだろうか?
恐らく九割九分九厘、面倒臭い騒ぎになるだろう。
樹家の名を傷付けぬ為に、即座に通報とまでは行かないだろうが、そうなってもおかしくない案件だ。
この件に関しては、私に疚しい所などなくとも、世間や警察はそう考えてはくれやしない。
そんな事になってしまえば、先程の話に出た、面倒事を持ち込んで来る巳善と違って、私の抱えた面倒事を助けてくれる別の友人、士業を営む彼に、弁護を頼む羽目になる。
未成年者略取及の疑いで捕まり、友人に弁護を頼むなんて、恥晒しも良い所だった。
そもそもタテリって、どこの国の名前なのだろうか。
「大丈夫だって。荒芽の爺さんには俺から、事情のある子供を預けたって話はしておくし、そもそもこの辺りで樹の家を訴えようなんて奴はいねぇよ」
しかし巳善は私の心配を、カラカラと笑って切って捨てる。
巳善が口にした荒芽の爺さんとは、この辺りの纏め役でもある自治会長の事だ。
そう、巳善は何故かあの爺様と仲が良い。
確かに巳善から爺様に話を通しておいてくれるなら、子供一人が私の家に出入りしていても、付近の住民は何も言ったりしないだろう。
……面倒ではあるが、断る理由はなくなった。
否、勿論面倒である事自体を理由に、断る事は出来るのだけれど、そう、先程巳善が口にした通り、事情があるのだろう。
巳善が態々私の家に連れて来るのなら、この少女には他に行き場がないって事だ。
一度私が断りを口にしたにも拘わらず、巳善それでも尚と言うのなら、大体の場合はそれなりの理由がある。
だから私は溜息を吐くのを堪え、それならばと頷く。
何より行き場のない少女の前で、滞在を二度、三度と断るなんてのは、私にとってはとても億劫な事だから。
「助かるよ。流石は仁木、頼りになるな!」
なんて風に巳善は言うが、奴に褒められた所で嬉しい事は一つもない。
まぁ鯛が美味かったから、そう言う気分になっただけだ。
そして巳善は、ひとしきり私に感謝の言葉を述べた後、急に真顔になってタテリと呼んだ少女に向き直る。
「タテリ、暫く仁木の家に居ろ。但し与える必要はないからな。仁木は充分以上に持っているから、寧ろ偶には御前が分けて貰え。御前には休息が必要だ」
そう言った巳善の言葉に、タテリと呼ばれた少女は驚いた風にこちらを見るが、勿論何のやり取りが行われているのか、私には意味がわからない。
でも子供一人を家に滞在させた程度で、宿代を請求せねばならぬ程に生活に窮しては居ないので、取り敢えずは頷いておく。
好きなだけ居れば良い。
私がそう口にすれば、何故だか直後に少女はハラハラと涙を流し始めたのだが、その涙の意味を、タテリの抱えた事情を知るのは、もう少しばかり後になってからだった。