お母さん
「んんん……ふあー」
ベッドの上で伸びをして、ゆっくりと上半身を起こす。
ついた手に伝わる沈み込む感触に違和感を覚えつつ、朧気な意識を覚醒させる。
「……あれ、ここは」
寝ぼけ眼に映る部屋の風景が見慣れない。
間取りも、家具も、天井の高さも違う。
「……そっか、泊まったんだっけ」
遅れて、理解が追いついた。
昨晩、九十九の襲撃を撃退して、孤児院に泊まったんだ。
わざわざ空き部屋を掃除してくれたんだっけ。
「いまは……朝か」
窓のほうを見ると、柔らかい光に照らされたグラウンドが見える。
昨日の夜、あの場所で命を取り合った。
黒羽は、恐らく生きているだろう。
死ぬまえに、蛇女が連れ去っていったからだ。
出来れば二度と会いたくはないものだが。
「……随分と減っちまったな」
この身体は自然治癒を行えない。
負った傷は、すべて妖力で治すほかにない。
黒羽に負わされた刀傷。
そして神通力による重圧での負傷。
そのすべてを治すのに、かなりの妖力を消費した。
これまでの貯蓄が吹き飛んでしまうほどだ。
残存妖力は、せいぜい一週間分ほど。
ひどく心許ない量だった。
「今夜から狩りをしないとな」
知識を読み解くのは、しばらく休みにしよう。
命あっての物種だ。
いま優先するべきは、肉体の維持。
戦いの後には、休養が必要だ。
「――よう。起きてるか」
考え事をしていると、不意に扉の外から声がかかる。
「あぁ、起きてるよ」
そう返事をすると、凜が扉を開けて入ってきた。
「そろそろ飯だ。顔洗って歯ァ磨いとけってさ。姉貴が」
「わかった。すぐいく」
「あぁ、そんだけだ」
用件を手短に伝えて、凜は部屋から去って行く。
凜ともかなり打ち解けられた。
相変わらず、会話自体はすくないけれど。
初対面を考えると、とてつもない進歩を感じる。
あの時は、まさかこうなるとは思ってもみなかったな。
「さて、と。いくか」
ベッドを下りて、部屋を出る。
昨日の記憶を探りながら廊下を歩き、洗面所を目指した。
それから手早く顔を洗い、歯磨きを済ませる。
歯ブラシは、昨夜のうちに凜がコンビニで買ってきてくれたものだ。
「居間はたしか……」
霞がかった記憶を探りながら歩いていると、いい匂いがした。
「こっちだな」
その匂いを頼りに足を進めると、なにやら騒がしい声が聞こえてくる。
たぶん、子供たちのものだろう。
俺たちがグラウンドで戦っていた時には、すでに子供たちは眠りについていた。
だから、会うのはこれが初めてとなる。
一応、鈴音と凜から話は通っているはずだけれど。
「怖がられなきゃいいが」
一抹の不安を胸に抱きつつ、居間の扉に手を掛ける。
そして、ゆっくりと押し開いた。
「あ、おはよっ。創也」
「あぁ、おはよう」
居間に入ると、すぐに鈴音が声を掛けてくれる。
しかし、それとは対象的に、子供たちの反応は沈黙だった。
沈黙というか、驚いているような、そんな雰囲気だ。
まぁ、自分の家に見知らぬ男が突然現れたら、誰だってそうなるか。
「ほら、みんな挨拶して。お客さんだよ」
鈴音に促されて、子供たちの何人かが集まってくる。
「お、おはようございます」
恐る恐ると言った風に、子供たちは声を揃える。
だから、俺はゆっくりと膝を折って目線を合わせた。
「あぁ、おはよう。俺は天喰創也って言うんだ。よろしくな」
「うん!」
どうやら俺の心配は杞憂だったみたいだ。
俺が自己紹介をすると、次々に名前を教えてくれた。
怖がられては、どうやらいないらしい。
みんなと仲良くなれてよかった。
「はいはい。じゃ、次ぎは手を洗っておいで。朝ご飯にするよ」
「はーい」
鈴音の号令に、子供たちは素直に従った。
次々に洗面所へと向かう中、そのうちの一人。
翔太が、俺のところにやってくる。
「お兄ちゃん、ご飯食べたら一緒に遊ぼ?」
「え? あー……」
かるく、思考を巡らせる。
今日、なにか用事はあったかと記憶を探る。
思えば、鈴音にあったのも、黒羽と戦ったのも、突発的なものだった。
お陰で日常生活に関する諸々が、今の今まで吹き飛んでいた。
「――わかった。じゃあ、朝ご飯を残さず食べられたらな」
「うん!」
とはいえ、吹き飛ぶということは、大した用事はないということで。
元々、知識を読み解くための時間を造っていたのだから。
予定が空いているのは当然だった。
「子供の扱いがうまいね」
洗面所へと走っている翔太を見送っていると、鈴音にそう言われる。
「こう見えて子供好きなんだ……あぁ、変な意味じゃなくてな」
「ふふっ、わかってる」
くすくすと、鈴音は笑った。
「あ、そうだ。ねぇ、創也。遊んでくれるってことは、まだここにいるんだよね?」
「ん? あぁ、そのつもりだけど」
「じゃあさ、お母さんに会ってもらえないかな?」
お母さん。
恐らくは、この孤児院の責任者にあたる女性。
「昨日のことか?」
「うん。お母さんに創也のこと電話で話したら、是非とも直接会ってお礼が言いたいんだって。お昼までには帰るって言ってたよ」
「お礼、か」
襲撃の一因である俺に、その資格があるのかは疑問だけれど。
会って話さない訳にもいかないだろう。
この孤児院で起こったことの詳細を、責任者である人にきちんと話さないと。
「じゃ、うちに帰るのはそれからだな」
「よかった。さ、席について。ご飯たべよっ」
時期に子供たちも手洗いから戻り、各の席に着く。
俺は鈴音と凜の間に席を用意してもらい、そこに腰を下ろした。
「それじゃあみんな」
「いただきまーす」
朝食は、とても賑やかだった。
これだけの人数がいると、常に誰かが何かを話している。
終わることのない喧噪は、どこか小学校の給食を思い出す。
そう言えば、一人暮らしを始めてからは、朝食を食べないようになってたっけ。
「どう? 口に合うかな?」
「ん? あぁ、どれも美味しいよ」
すくなくとも、俺より上手に造れている。
まぁ、俺はあまり自炊をしないほうだが。
「なら、よかった。ときどき、自分の料理の腕が不安になるんだよねー。凜とか、いつも黙って食べるだけだし」
「いいだろ、別によ。不味いときだけ不味いって言ってやるよ」
「なんだとー、このー!」
非常にほのぼのとした時間が過ぎていく。
時の流れがゆっくりになったような錯覚すら覚える。
なんだかとても、居心地がよかった。
「ごちそうさまでした」
朝食が終わると、子供たちは慌ただしく外へと遊びに駆けていく。
それを微笑ましく思いつつ、食器を重ねて台所へと持っていった。
「あぁ、ありがと。ごめんね、手伝ってもらっちゃって」
「いいよ、馳走になった礼だ。どれ、俺も皿洗いを」
そう腕まくりを始めたところ。
腰の辺りに、かるい衝撃を受ける。
見れば、翔太に抱きつかれていた。
「お兄ちゃん、遊ぼ!」
「あー、えーっと」
「いいよ。遊んできて。こっちは大丈夫、慣れてるから」
「悪いな」
翔太に手を引かれて、グラウンドに出る。
それから子供たちと、色んな遊びをした。
鬼ごっこや、けんけんぱ、だるまさんが転んだに、影踏み。
子供たちは夢中で遊び、俺もそれに釣られるようにグラウンドを駆け回る。
年甲斐もなく、童心に帰れた気がした。
「――ほら、メリーゴーランドだ」
「わー!」
「きゃー!」
両腕に子供たちをぶら下げ、その場でぐるぐると回る。
子供たちが落ちないように、ゆっくりとしたものだったけれど。
それでも楽しんでくれているようで、楽しそうな声が聞こえてくる。
そうして何度か回転し、子供たちを地面に下ろす。
回転のしすぎか、すこしくらりとした。
「ふー、ちょっと休憩」
「えー、もっとあそぼーよ」
「えぇ? 元気いいな、子供は本当に」
先にこちらの体力が尽きてしまいそうだ。
そう思いながら、観念して子供たちに手を引かれていると。
「――あらあら、随分と仲良しになったのね」
グラウンドに、見たことのない人物が現れる。
風に靡く、美しい金色の髪。
目を奪われるような端正な顔立ち。
身に纏う雰囲気は、とても柔らかだ。
そんな感想を、一瞬にして抱かせるような妙齢の女性。
「あっ、おかーさんだ!」
「おかーさん!」
そんな彼女を発見した子供たちは、一斉にそちらへと駆け出した。
「お母さんって……じゃあ」
あんな若そうな人が、孤児院の責任者なのか。
勝手なイメージで、それなりに歳を召した人だと思っていたから驚きだ。
一見して二十代後半から三十代前半のように見える。
「あらあら、今日も元気いっぱいね。お母さんがいない間、ちゃんといい子にしてたかしら?」
「うん! いい子にしてた!」
子供たちに優しく語りかける彼女の姿は、母親の理想を体現したかのよう。
慈愛に満ち、すべてを包み込むような包容力がある。
そんな子供たちの母親と、目と目が合う。
「あなたが、創也くん?」
「あ、はい」
「そう。この家を守ってくれてありがとう。とても感謝しているわ」
彼女の言葉は、不思議とすんなり受け止められた。
最初は礼を言われる資格などあるのかと懐疑的だったのに。
いまはもう、素直に嬉しいと感じている。
彼女は、とてもとても不思議な人だった。
「中で詳しい話を聞かせてもらえるかしら?」
「はい。あぁ、でも」
ちらりと、子供たちのほうを見る。
離れたくないという意思の表れか、みんな彼女に貼り付いていた。
「ふふ、大丈夫よ。お母さん、今日はずっと家にいるから。だから、ね?」
優しく、彼女は子供たちに言い聞かせる。
すると、我が儘を言うこともなく、子供たちは素直に離れた。
「いい子ね。じゃあ、行きましょうか」
颯爽と、彼女は孤児院へと向かう。
俺はその姿に、ただ者ではない雰囲気を感じつつ。
その後を追うように、玄関口へと向かった。