知ってほしいこと
「孫にも見せてやりたいんだ」認知症の父はいきなりそうつぶやいた。今まであまりにもしゃべらないものだから二度と口を開かないと思っていたのに。驚いて夫と目を合わせ、母の仏壇を見つめている内に、父の姿は窓の外にあった。認知症の老人を外にやるのは非常識だとも思ったけど、昔の父を思い出すと、止められなかった。
「覚えてるか、洋介。おじいちゃんはな、昔ガキ大将だった」後に市場のおばちゃん達に聞いた話だと、父は一人で何かつぶやきながら満面の笑みを浮かべて歩いていたそうだ。
不気味だと嫌がったおばちゃんもいたが「洋ちゃんのあんな顔、久々に見たわ、昔みたいで嬉しいわぁ」そういうおばちゃんも少なくない。父は市場を通り抜け町のはずれの駅へ歩いて行ったという。何かに手を引かれているような歩き方をしていたそうだ。
「昔な、ここの玩具屋の一番多きな飛行機に乗って戦争に行った、でもわしは帰って来た、家族のために、将来のお前のためにもなぁ」父は戦争に行った、そして泣いて帰って来た。お国の為に死ねなかったと、そう嘆いていた。そんな父を大黒柱とする我が家はとても厳しく、それでも平和だった。
父は何もない空き地で昔玩具屋があった場所を眺めていたそうだ。これは駅員さんに聞いた話。「洋さん、調子よくなったのかい?話しかけるにも忙しくてねぇ、洋さんいい顔してたよ」小さな駅で人も少ないけれど、まじめな駅員さんは仕事熱心だ。
「洋介、お前もおじいちゃんみたいに立派に戦えよ。ん?いいや、戦争の事じゃねぇよ、家族のためにさ」父は本当に家族の為に、町の為に尽くしてくれた人だ。自分はガキ大将だったって自慢するくせして、子供には人一倍厳しくて怖かった。おかげで町の子供はいい子ばかり、温厚で平和な町だった。
「お前もあの飛行機に乗りたいって?あぁいずれ乗ることになるかもなぁ、でも本当はな、乗っても得したことはないんだ」一人、父に声をかけたという人がいた。「おぉ!洋ちゃん、調子治ったのかい?元気かい?」「おう、洋介は元気だよ」父はそう言った。声をかけた魚屋のおばちゃんは「やっぱり認知症だね」と家にきてまでそれだけ言って帰って行った。
いつの間にか父は縁側に腰を掛けて空を見上げていた。「いいか洋介、空には気を付けろ、戦争になるとな、空から危ない物がたくさん降ってくる、その時はあの穴に隠れるんだ」父はおもむろに40年は使っていないであろう防空壕のふたを開けた、何やら気持ちの悪い虫が飛び出してきた。それとは違う理由で父は悲しい顔をした。「戦いなんかよりな、守る方が大切だぞ、それを忘れちゃいけない」父は一粒二粒の涙を流し、防空壕のふたを閉じた。
「洋介、お前はこれからたくさん頑張らなきゃいけない、俺の孫として、家族の為に、お国の為に、大切な人の為に、もちろん将来のお前の為にな、頑張れよ」父はそういうと自らの部屋に入り、眠りについた。
長年の付き合いである近所の人や、私の夫でも、父がなにをしているのか理解できなかったらしい。でも私にはなぜだかわかった。翌日の朝、父は目を覚ますとすぐに私にこう聞いたからだ「洋介、洋介はどこだ、あいつにも見せてやりたい」
私は子供を産めない体なのだ、なのでもちろん父に孫はいない。それにだって「洋介はあなたですよ、お父さん。洋介はちゃんと飛行機に乗って、ちゃんと帰って来ました。こんなに立派に子供を育てて、その子供には立派な婿もいます。だから、安心してくださいね」父は一度笑顔になり、以前の何も言わない父に戻った。
「洋介、よく頑張ったな」
翌日、父は旅立った。