セーフティネットがどーたらして、障る憑き物が沸いたとかそんな話(仮題)
冒頭で、少し遊んで変な文体になっていますが、後は大体、普通なのであまり気にしないでください。
1.
えっと、この世の中はままらなくて、色々と不都合な事が起こったりするもので、どんなに素晴らしい制度でも、それが上手く使われなかったりそもそも悪用されたり本人も薄々、「駄目なんだろうな」なんて思っていても、結局は反省しきれず、その制度におんぶにだっこで甘えてしまって、しかも罪悪感を感じてはいるものだから、少し非難されると敏感に過剰に反応してしまって、怒ったり逃げたりして、それで家族や周囲と軋轢が生まれたりして、どんどん状況が悪くなっていって……。
「どうして、こんな事になってしまったのだろう?」
的な呟きとかをする破目に陥ったりもしてしまう。
つまり、なんというか、えっと、上手く言えないのだけど、この物語は、セーフティネットがどーたらして、障る憑き物が沸いたとかそんな話だったりするので……
……ちょっと、たんま。
あの、さ、ここまで語っておいてなんだけど、やっぱりわたしに語り部は向いてない気がするから、辞退したいのだけど。
ほら、なんか主語とか述語とか、ぶっ飛んで説明している気がするし、実際、みんな、白い目でわたしを見ているし。
「ま、最後まで語れとは言わないけどさ」
と、そんなわたしの訴えを聞くと、稲塚くんはそう言ってからわたしを見て、ちょっとの間を作ると軽くため息をついてからこう続けた。
「“きっかけはわたしがあのブログを見つけた事だから、わたしがまずは語る”なんて言っていたのは、唄枝さんじゃない」
そうだけどさ。
やってみたら、やっぱり難しかったのよ。ね、お願い。稲塚くん、代わりにやってよ、語り部役。ほら、他の人が語る方が、客観的にどーたらってので、いい気もするし。
わたしが、そう拝むようにしてお願いをすると、稲塚くんは頭をかきながら、こんな事を言った。
「まぁ、いいけどさ。断っておくけど、僕は初めの方の事情を詳しくは知らないからね。その辺りはテキトーにやるよ」
……えっと、そんなこんなで唄枝さんの我侭で、地の文の担当が変わりました。稲塚という者です。初めまして。
この物語は簡単に言うと、「セーフティネットがどーたらして、障る憑き物が沸いたとかそんな話」らしい。僕はそもそも初めの方の詳しい経緯を知らなくて…
「ちょっと、待ってよ!」
と、そこまでを語ったところで、唄枝さんがクレームをつけてきた。
「なんで、“セーフティネットがどーたらして、障る憑き物が沸いたとかそんな話”って、わたしの説明をそのまま採用しているの?
上手く言えなかったらお願いしたのに。意地悪は止めてよ!」
「いや、けっこう良い説明だよ、これ。タイトルにもしちゃおう」
「あ、酷い! 本当にタイトルにしている! “(仮題)”ってなってるのは、せめてもの良心?」
そのやり取りを聞き終えると、園上さんが口を歪ませた厭な笑い顔を浮かべて、こんな事を言って来た。
「唄枝、これはあれよ、“小学生のような愛情表現”っての。好きな子には、ついつい意地悪をしたくなるのね」
この園上さんは、冷ややかな印象の女性で、どちらかと言えば綺麗系。髪形はロングで、前髪はヘアバンドで全て上げている。つまりはおでこ丸出しで……
「なんで、稲塚君は私の外見的特徴を説明しているのかしら?」
と、そこで園上さんがそんな事を訊いて来た。僕は淡々と答える。
なんでって、キャラ紹介だよ、キャラ紹介。導入部には付き物だよね?
「唄枝のキャラ紹介はしてなかったじゃない。あなた自身のも。せかっく、からかったのに、変な躱し方はやめてよね」
唄枝さんは背が小さくて、良く言えば天真爛漫で天衣無縫。悪く言えば、騒がしくて幼い性格をしている。外見も、その性格ほぼそのまんまで……。
「今更したって、もう遅い。誤魔化さないでよ。そもそも、稲塚君がこの件…… というか、うちに関わったのって、唄枝の色香に迷ったからでしょう」
それを聞くと唄枝さんは、明るい声を出した。
「え?! そうなの? 稲塚くんってそうだったんだ」
いやいや、話が飛躍し過ぎだと思うよ。どうして、そうなるの?
そんな感じで僕が困っていると、五反田という男が助け船を出してくれた。
「唄枝ちゃんの色香って言われても、なんか説得力ないなぁ」
いや、助け船じゃなくて、単なる素直な感想かもしれない。唄枝さんにとっては、失礼な一言だろうに、全く気にした様子はない。五反田は、真面目な男で恐らくこの中で一番の常識人。が、遠慮なく本音を言うようなところもある。因みに、身長がこの中で一番高い。
「ちょっと、稲塚君。何を本当に、キャラクタ紹介をやっているのよ。まだ、私達の所属も何も説明していないし、どんな話なのかも分からない状態なのよ?
そんな状態で、キャラの説明だけをされたって読者側は“なに、これ?”って、頭に“はてな”が浮かぶわよ」
こう文句を言って来たのは、園上さん。僕はそれにこう返した。
なら、園上さんが導入部を担当してよ。僕はそもそも、最初の方は関わっていないのだし。
それを聞くと、園上さんは軽くため息を漏らした。
「しょうがないわね。分かったわよ」
……という訳で、語り部担当は、私、園上になったので、よろしく。
まず、そもそもの始まりは、唄枝というこの子共のような性格をした女の、無警戒に男女の区別なく他人に触りまくる行動で、そこにいる稲塚君が簡単に籠絡されたことだった。
彼女はスキンシップを好み、まだ知り合って間もない相手の手を握ったり、背中に抱きついたり、足を撫でたりといった行動を頻繁に繰り返すものだから、成長していない外見でありながら、多くの男どもを勘違いさせているのだ。そして、その中の一人に、この稲塚君もいたという訳だ。
「ちょっと待って」
と、そこで稲塚君が言った。
「それ、今回の件の始まりじゃないよね?」
あら? 何が始まりかなんて、その人の主観によるのじゃない? 私にとっては、この物語の始まりは、ここからなのよ。
「いや、それだと、後で付け足しの説明が多くなり過ぎるよね?」
それはそれで、オーケーなのよ。セオリー、定石の類は、壊してなんぼよ! 物語の構成はアクロバティックに!
五反田君がそれを聞いて言った。
「偏っているなぁ、園上さんは」
唄枝が口を開く。
「ねぇ、わたしって、色々な男の子達から勘違いされていたの? そっかぁ、みんな、わたしを子共みたいとか言ってるくせにねぇ」
ストーリーが進行しないとか、そういう事情を気にかけない発言。流石、唄枝だ。稲塚君が言った。
「いや、園上さんが言う台詞じゃないよね? こりゃ、園上さんでも、語り部は駄目だ。もう、こうなったら、五反田しかいない。五反田。導入部は、お前が担当してくれ」
私はその提案を素直に受け入れた。はっきり言って、今いる四人の中で、もっとも導入部に適しているのは彼だろう。いや、彼しかいないと言ってもいい。ぶっちゃけ、語り部役なんて、そんな面倒そうなのを私はやりたくないし。
「さては、最後のが本音だな」
と、稲塚君。
2.
はい。
茶番はここらで終わりにして、いよいよ物語を始めたいと思います。先ほどの説明にもあった通り、導入部は、僕、五反田五郎が担当したいと思います。
既に章番号は“2”が振られちゃっていますから、本当に導入部なのかどうなのかは怪しいですが、まぁ、よろしくお願いします。
先ほどまで、無為な会話をしていた僕ら四人は、ネット文化研究部という高校の部活動に所属しています。正確には、稲塚君は準部員といった感じなので、三人なのですが……
あっと、この説明に稲塚君は異議があるようです。
「ちょっと待てよ、五反田。僕は本来は演劇部だぞ?」
「分かってるよ。だから、準部員ってしたじゃないか」
このやり取りを聞いて、唄枝ちゃんが言います。
「あ、五反田君の台詞が“地の文”じゃない」
園上さんが続けました。
「まぁ、本格的に物語が始まったって事でしょう。これからは、このルールで進行するのじゃない?」
……いちいちツッコミを入れていると、先に進まないのでスルーでいきます。
他にも部員はいるのですが、よく顔を出すのはここにいるメンバーです。このネット文化研究部の活動内容は、ネットに生まれた文化や現象、事件などを集めて分析していこうというもので、決して、毎日、ネットサーフィンをして遊んでいるというだけの部活動などではなく…… と、完全には否定し切れないのですが、とにかく、それなりに真面目に活動してもいます。
そんなある日の事でした。唄枝ちゃんが妙なブログを見つけたのです。そのブログは、ある生活保護受給者の方が管理人でした。個人情報保護や、個人攻撃は避けるという観点から、名前は仮称で、Aさんという事にします。
「え? 名前は伏せるの? 甘いわね。五反田。甘いわよ」
なんて事を、園上さんに言われましたが伏せます。
「どうしてよ?」
「いや、園上さん。そもそも、これを始める前提条件が本人を特定できる情報は伏せるってことだったじゃない」
「そうだったかしら? ま、それならそれでいいけど」
……とにかく、進めます。
このAさんは、自分が生活保護受給者であることを全く隠してはいませんでした。それどころか、積極的にアピールしている感じ。普通は、働いていない事を恥じてか、批判を恐れてか、隠すものなのに。そうですよね? 唄枝ちゃん。
「そうね。むしろ堂々とアピールしているってことを、誇りにしているみたいだった」
園上さんがそれに続けます。
「でもって、それがカッコいいとか思っちゃう人もいるのよね。唄枝、あんたみたいにさ」
「だって、本当に、凄い事は凄いじゃない。普通はできないわよ」
それを補足するように僕は言いました。
「まぁ、実際、一理ある主張ではあった訳だけどね」
園上さんがそれに文句を言います。
「甘いのよ、五反田君は。一理はあっても、それ以外の駄目要素で差し引き、大幅にマイナスでしょうよ、あんなの!」
もう少し詳しく説明をすると、そのAという人はこんな主張していたのです。
『生活保護制度は、人の命を救う素晴らしい制度だ! ところが、これを“恥ずかしいこと”とする誤った考えがある。この制度を活用していれば、命を失わずに済んだ事例は数多くあるんだ。僕はそれを解決する意味でも、自分が生活保護受給者であることを包み隠さずに公開し、この制度の利用を訴える! 皆、利用しよう!』
確かに、中々、立派に思えますね。
そして、Aさんは生活保護を利用して生きる自分の生活を、赤裸々に日記に綴っていたのです。この人の主張に感動したネット住民達の一部は、いわゆる“信者”となって、この人の活動(?)を支えていました。
時折、この人の主張に反発して批判の書き込みをする人もいるようでしたが、“信者”の方々が、擁護しまくってこの人を助けてしまっていたようです。それでますます元気になって、この人はこの主張を繰り返すのですが。
本人(或いは“信者”の何名か)は、生活保護受給者で、時間は充分過ぎる程にあるので、ネットでの喧嘩に有利だったという事もあるのかもしれません。
それと、この人はある政治団体に所属もしていて、その団体からの支援も、どうやらあるようでした。そもそも、生活保護を利用できたのも、その政治団体のお蔭のような内容がブログにはありましたから、結びつきは以前から強かったのかもしれません。
僕らがこの人の存在を知った時、既に唄枝ちゃんは何度かこの人のブログに書き込みをしていて、“準信者”的な立場になっていました。唄枝ちゃんは温かい言葉で迎えられていたらしく、それで“良好なブログだ”と安心をしたのか、彼女は園上さんにこのブログの存在を報せてしまったのです。
「園上ちゃん、この人凄いんだよ…」
唄枝ちゃんが、何故真っ先に僕ら… というか園上さんにこのブログの存在を報せなかったのか、その理由は、何となく察しがつきます。
園上さんは学園内では“炎上姫”とも呼ばれていて(“そのうえ”が別読みで“えんじょう”になるからだと思いますが)、そのカッとなり易い性格と、歯に衣着せぬ発言で、ブログ等を直ぐに炎上させるという特技(?)を持っているのです。園上さんの怒りに火が灯れば、それはそのままこのブログが炎上する事を意味します。慎重になるのも無理はないでしょう。とは言っても、やはり唄枝ちゃんは浅はかです。もう少し冷静に、園上さんの性格を考えるべきでした。
はい。つまり、
「なんじゃ、こいつはー!」
ってな感じで、案の定、そのブログの存在を知って、園上さんの怒りに火が灯ってしまったのです。
「真っ当に働いて、お前の生活を支えている真面目な納税者達の負担を考えた事はあるのかぁ!」
――生活保護制度。
というのは、早い話が、『生活に困窮する人達を救うためにある制度』で、セーフティネットの一つです。様々な事情で収入が少なかったり、全くなかったりする人達の生活を、国が支えるのですね。もちろん、国の収入を支えているのは、納税者ですから、生活保護受給者達の生活を支えているのは、実質、一般の国民… 納税者達という事になります。
ネットの炎上に慣れていて、喧嘩をよくやる園上さんは、ネットを利用して手早く情報をかき集める能力に秀でています。直ぐに生活保護制度の問題点を調べ上げ、そのAさんの主張内容と生活態度に対して、批判を始めました。
『生活保護制度は、本来、一時回避の為の手段だ! 確かに、国民の生活を護る為、かつセーフティネットとしての役割を果たす為、恥じずにそれを利用するべきだという主張は分かるが、何も事情がないのなら、さっさと社会復帰するべきだ!
それが、生活保護制度を利用し易くする助けにもなるだろう!
一体、何年間、生活保護に頼り続ける気だ!?』
はい。
日記の内容を見る限り、そのAさんはもう五年以上も生活保護制度を利用しているようなのです。因みに、アメリカの生活保護制度に当たる制度は、生涯で受けられる期間が五年なので、それを当て嵌めるのなら、この人はもう生活保護を受けられない事になります。
他にもそのAさんには、様々な問題点がありました。生活保護制度に従うのなら、護らなくてはいけない数々の義務を完全に無視していたのです。
例えば、“贅沢行為の禁止”なんてものがありますが、平気で海外旅行に行っていますし、“借金は禁止”のはずなのに、家族から大金を借りていたり、“健康的な生活を送らなくてはならない”はずなのに、昼夜逆転をした生活をして、酒や煙草をやっていました。もっとも、これらを破っても、懲罰の類はないはずなのですが。
更に、Aさんには稀に貰い物やその他の収入があるようでしたが、それを自治体に報告してもいないようでした。
生活保護受給者が、収入を隠している場合、最悪、詐欺罪になる可能性もあります。もっとも、多分、自治体が訴えなければこれは成立しません。そして、あまり酷くなければ、自治体はそこまではしない。なので、勧告程度で終わりなってしまうはずです。
つまり、このAという人は、不正対象になるかどうか曖昧なグレーゾーンの細かい違反を、たくさんしてはいますが、致命的と言える程の不正は犯していない事になります。
「甘ーい! 五反田! スピードワゴンの小沢さんよりも甘いわよ! (……ちょっと古い)。これだけ駄目要素がいっぱいあれば、合わせ技で“数え役満”でしょうが。アウトじゃあぁ!」
しかし、園上さんはそう主張し、“こんな奴には、絶対に負けない”と言って、戦いまくっていたのでした。それを横で見ていた唄枝ちゃんは、
「ちょっと、園上ちゃん。やめてよぉ」
なんて言って、戸惑っていました。彼女にしてみれば、まさかこんな事態になるとは思っていなかったのでしょう。僕からすれば、当然の帰結ですが。
ここで少し僕の意見を主張させてもらいます。生活保護制度は、“労働力が余っている時代”の今は、実は経済を支えてもいます。彼らが制度を利用できなくなり、消費を止めれば、それだけ景気は冷え込むからですね。だから、働いている人達にとってもこの制度は役に立っているので、一概に否定はできないと思います。
それに、細かい生活保護法違反をしている人達は、恐らくは山のようにいるでしょうから、その人達を全て受給対象外にすると、制度自体が成り立たなくなりますし。
ですが、一点、そんな僕の目から見ても、どうしても許せない行動がそのAという人にはあったのでした。
「医療費無料だからって、不健康な生活をしてないで、もっと健康に気を遣って、納税者達の負担を減らす努力をしろぉ!」
はい。
生活保護受給者は、実は医療費が無料なのです。病気になって病院に行っても、原則、お金はかからない。タダ。それでなのか、不健康な生活を送る人が多いらしく、結果的に生活保護の医療費は膨大になっているのです。
そしてこのAさんは、不摂生の所為で体調を壊して、何回か入院をしているらしいのです。もしかしたら、既に一財産が吹っ飛ぶくらいの出費を自治体に強いている… つまりは、納税者達に強いているかもしれません。
因みに、こういう道徳意識の崩壊を、“モラルハザード”と呼びます。
「でも、医療費も消費の一つでしょう? 病院でお金を使えば、経済に好影響なのじゃないの?」
と、そんな質問をして来たのは、唄枝ちゃんでした。
「いや、それがね。医療に関しては、その理屈でも問題ありなんだよ。何故なら、今は高齢化の影響もあって医療資源がどんどん不足していっている時代だから。生活保護受給者達が、医療資源を使ったなら、他の困っている人達が、利用できなくなるんだね。当然、医療費高騰の原因にもなるし」
「はぁ、なるほどねぇ。そんなに簡単な話でもないんだ」
「最近になって、生活保護の支給費が減らされたけど、僕はむしろ、この優遇され過ぎの医療費無料の方を何とかするべきだと思う。その方が色々と良い効果があるよ。
健康管理に気を遣うようになれば、社会復帰だってし易くなるだろうし。どうしてもって事情がある人には何らかの対策をすれば良いだけだし……」
あ、説明ばっかになって物語の進行が止まっていました。続けます。で、それで、園上さんが起こしたブログの炎上、ネットでの喧嘩が最終的にはどうなったのかと言いますと………。
「勝ったぁ!」
園上さんは、辛くも勝てたようでした。ワーキングプアの問題と財政赤字問題とを見せ、「次に制度を必要とする利用者の為に、できるだけ早く社会復帰して、生活を支えてくれた納税者達への感謝を示すべきだ」と訴えた事で、なんとか相手を論破したようです。ただ、論破と言っても、“相手からの反応がなくなった”、という事であって、決してAさんがそれを認めた訳ではありません、ただ、ネット上での議論は、こういった終わり方をするケースが多いので、まぁ、“勝てた”でも、良いと思います。ですが、
「あっ、酷ぇ! こいつ、私の事をブロックしやがった」
まぁ、こうなる事は分かっていましたが、論破したはいいのですが、彼女はAさんのブログを立ち入り禁止にされてしまったのです。実は、彼女がブログ等をブロックされるのは、これで何度目なのか分からないのですが。
「ちょっと、唄枝。あんたのアカウントを貸しなさいよ。更生しているかどうか、監視してやるんだから」
「やだよぉ 園上ちゃん、どうせ、また荒らすでしょう? わたし、もう、常連の人達と仲良くなっちゃったんだから」
一応、園上さんと唄枝ちゃんが知り合いという事は伏せていたので、唄枝ちゃんは彼らから無警戒で、相変わらず、Aさんのブログで和気あいあいと過ごせていたのでした。
「当たり前でしょう? そうやって油断させておいた方が、唄枝を通して、Aからの情報を仕入れ易くなるじゃない」
というのは、園上さんの言。
「流石、園上さん。計算高いね」
そこでそう発言したのは、稲塚君。
「なによ? 稲塚。この段階では、まだ物語に関わっていないくせに、発言するな。ずうずうしい」
「いや、なんか忘れられそうな気がしたからさ」
……はい。
物語を続けます。
唄枝ちゃんは、園上さんにアカウントを貸しはしませんでしたが、代わりにそのAさんの様子を見てはいました。彼女からの報告によると、園上さんに論破された後も、Aさんは何事もなかったかのように、それまでの生活をし続けていたようです。
もちろん、周囲の信者達もそのまんま。
大騒ぎをしたのに、結局、何も変わらなかったのですね。もっとも、これも予想できていた展開でしょうが。
ネットを介して文章のみで、赤の他人から説得されただけで、問題のある人の生活態度が改まるのならば、苦労はしません。そんなに簡単にはいかないからこそ、この類の問題の根は深いのです。
「この野郎… どうしてくれようかしら?」
なんて、それからしばらく園上さんは悔しがっていました。ただ、僕が「もう、忘れた方が良いよ」と忠告をした…… からなのかどうかは分かりませんが、少し経つと彼女はこの件について、何も言わなくなったのです。
それで僕は、もうこの件については、これで終わりになるかと思っていました。
……ところが、
「なんか、Aさん。大変な事になっているみたいよ?」
と、ある日、唄枝ちゃんがそう言ったのでした。それで、このAさんの件は、これだけでは終わらなくなってしまったのです。
3.
……えっと、導入部の小難しい説明のとこは、五反田くんが担当してくれたので、その流れを受け継いで、今度はわたし、唄枝奏が語り部役をやることになったので、よろしく。因みに、こんな名前だけど、歌も歌わないし楽器も弾かない。
「いや、それはいいけどさ。大丈夫なの? さっきは、ボロボロだったじゃない」
と、そう茶々を入れて来たのは、稲塚くん。
「大丈夫よ。今度は、ちゃんと整理したもの」
「なら、さっきもちゃんと整理すれば良かったじゃない?」
このツッコミは、園上ちゃん。
……とにかく、進める。
ある日、久しぶりにAさんのブログを何気なく見てみたわたしは、そこに書かれてあった内容を読んで驚いたのだった。
“宗教?”
なんでも、Aさんの自宅に新興宗教の方々が攻め込んで来たのだとか。どうやらその方々は、Aさんのご両親の依頼を受けて、Aさんを更生させるべく、Aさんの許を訪れたらしかった。
えっと、これが真っ当な更生方法だったなら、何事もなかった……、かどうかは分からないけど、少なくともわたし達が関わることはなかったのかもしれない。ところが、この宗教団体の方々は、Aさんが病気なのは、“憑き物”が障っているからで、だからそれを祓うと主張していたらしい。
「ちょっと、唄枝ちゃん。Aさんの病気についてまだ何も説明してないよ。これじゃ、読者は何の事なのか分からないって」
そんな指摘をして来たのは、五反田くん。
「やっぱり、不安だな」と、稲塚くん。
「うるさいな。これから、説明するつもりだったのよ」
と、わたしはそれに返す。
そのやり取りを受けて、園上ちゃんが「二人とも過保護よね。愛されキャラだわ、唄枝は」なんて言った。
……とにかく、進める!
“病気”という言葉を見つけて、わたしは一週間ほどさかのぼって、ブログの内容を確認してみた。すると、Aさんは病院に一日だけだけど入院していたことが分かった。理由は、軽い栄養失調らしい。このAさんは、お酒は飲むけど、食べ物はあまり食べないのだ。でもって、そこで病院の先生から、「うつ病かもしれない」とそう言われたとかなんとか、そんな事が、日記には記されてあった。
うつ病。
そして、その話がAさんのご両親に伝わり、以前からAさんの生活を心配していたご両親は、新興宗教に頼ってしまったと、どうやらそんな流れっぽかった。
たぶん、うつ病は心の風邪とか言われてるから、霊との結びつきを想像したのだろうと思う。
『“餓鬼憑き”です』
でもって、新興宗教の方々は、Aさんに憑いた憑き物は“餓鬼”だとそう言っていたのだとか。
これは、栄養失調だからかもしれない。
「“餓鬼憑き”って、本来は、飢えて一歩も動けなくなるとか、そんな状態に陥るのを言うから、まったく違うんだけどね。食べ物を食うと治るし」
と、そこでそう言ったのは稲塚くん。
「そうなの?」
「うん」
それに園上ちゃんが、「なんで稲塚君は、そんなのを知っているのよ。気持ち悪いわね」なんて言う。
「いや、その知識のお蔭で、今回は助かったのだし、言い過ぎだと思うよ」
と、わたしは珍しく、稲塚くんをフォローした。
「うん。いちいち、こんなのに紙面を割いていたら、全然進まないから、気にせず、先にいくのが良いと思うよ」
なんて五反田くんが言うので、先に進める。
Aさんの所にやって来た宗教団体は、Aさんが病院から薬を貰うのも否定していた。彼らによれば、近代科学に侵された薬は、不浄のものなのだそうだ。だから、そんなものに頼ってはいけないと、激しくAさんを攻め立てたのだとか。しかもそれは、Aさんのご両親の許可を得た上での行動。というか、さっきも書いたけど、そもそもこれはAさんのご両親の依頼だったから、警察はほぼ何もしてくれなかったらしい。
それでAさんが頼ったのは、例のAさんの所属している政治団体だった。で、何名かが派遣されて来て、宗教団体の方々と軽い言い合いまでし始めてしまった。そうなると当然、近所迷惑になる。それで通報までされてしまったらしく、そこに市役所の職員さん達までも登場してしまった。市役所で生活保護を担当している人達だ。でもってその所為で、近所の人達に、Aさんが生活保護を受けて生活している事を知られ、更に宗教団体や政治団体とも関わりがある怪しい人だと思われるようになってしまったぽかったのだった。
はっきり言って、事態は混沌。カオス状態!Aさん、大困り!
「なんか、Aさん。大変な事になっているみたいよ?」
――そして、ブログを読み、大体の事情を把握したわたしは、その内容を園上ちゃんと五反田くんに話したのだった。
五反田くんはわたしの話を聞き終えると、疑問を口にした。
「うーん。どうして、このAさんの両親は、Aさんが病院で“うつ病かも”って言われたことを知ったのだろう?」
「それがさ、」
と、わたしは答える。
「このAさん。今年の正月に“年賀状を下さい”って言って、自分の住所をブログに書いているのよね。
で、そこから情報が洩れて、どうもご両親の耳にも届いたみたいで、このブログを知っていたのよ。それで、毎日、見られていたと」
それを聞いて、園上ちゃんはコケた。
「え? マジで、そんな事をしていたの? 情報社会のリスクを全く理解していないわね。アホか、こいつは。
それに、ウェブサービスの何かを利用すれば、そんな事をしなくても年賀状くらい受け取れそうだけど……」
そう言いながら、園上ちゃんはわたしのパソコンを覗き込んで、ブログに書かれている住所をチェックした。
「うあ。本気で書いてるわね、こいつ。どっからこの自信が沸いて来るのやら……」
そして、チェックし終えるなり、驚いた声を上げるのだった。
「ちょっと、こいつの住所、この近くみたいよ?」
その声に五反田くんも反応する。パソコン画面を見て、「本当だ」と呟いた。園上ちゃんは言う。
「面白い。見物に行こうか? はっきり言って、ざまぁみろだわ! 困った顔でも拝めたら、もう、痛快! 痛快! 痛快!」
「黒いなぁ、園上さんは。そこまで悪い人でもないと思うよ。確かに、考え方は色々と甘いけどさ」
それを聞いて、五反田くんはそう言った。
――そして。
わたしはそれを受けると、
「なんとか、助けられないかなぁ?」
と、そう提案したのだった。
「何を言っているのよ? あんた」と、園上ちゃん。
「だって、この近くなら、何とかできるかもしれないじゃん」
と、わたしは返す。
「いや、そういう事じゃなくてさ。こんなの、ほとんどこいつの自業自得じゃない。身から出た錆。どうして、助けてあげる必要があるのよ?」
それを聞くと、五反田くんは腕を組んで「うーん」と唸ってからこう言った。
「園上さんが、このAさんの問題点を指摘していたのって、Aさんに罰を与えたかったから? それとも、Aさんに更生してもらって、少しでも真面目に働いている人達の負担を減らしたかったから?」
その言葉に、園上ちゃんは止まった。明らかに反応をしているみたい。五反田くんは実は何気で、園上ちゃんの急所を突くのが上手かったりするのだ。五反田くんは、園上ちゃんの返答を待たずに続けた。
「まぁ、後者だよね。更生してもらうのが目的。なら、この状況を利用して、Aさんを更生させられるかもって思わない?
ただ単に言葉で説得するだけじゃ、どうにもならなくても、これだけ材料が揃っていれば何とかなるかもよ?」
それからしばらく五反田くんは黙る。園上ちゃんの様子を確認しているみたいだった。園上ちゃんは、軽く鼻で「ふぅ」ため息をつくと、
「分かったわよ。確かに、その通り。更生してもらうのが目的」
と、渋々、それを認めたのだった。
「でも、具体的な方法は、考えてあるの?
どうすれば、この状況を利用して、このAってのを更生できるのよ」
わたしはそれを聞くと、こう言った。
「その点はきっと大丈夫だよ。ほら、そういう計画を立てるのが得意な人がいたじゃない。他の高校だけど。綿貫さん!」
「綿貫ぃ?」
綿貫さんというのは、園上ちゃんの中学時代の友達で、わたし達とは別の高校に通っている女子高生だ。メディア・ミックス部とかいう変な部活をやっている。
「確かに、あの悪賢い女なら、なんか考え付くかもしれないけど、私が頼むのは嫌よ? 唄枝。あんたがやりなさいな」
「えぇ? だって、園上ちゃんが一番仲が良いじゃん」
「仲が良い? 冗談は止めてよ。私、あいつの事が嫌いなんだから」
「いや、すっごく仲良しに見えたけど?」
「仲良しな訳ないでしょう? あいつの傍若無人な態度に、いつも私は、イライラしているんだから」
それを聞くと五反田くんは「近親憎悪かな?」とそう言った。でも、園上ちゃんが睨んだので、そっぽを向いたけど。
「そぅ? わたしには、普通の人に見えたけどなぁ」
「あいつは人見知りが激しいから、慣れていない相手には、意外に大人しいのよ。慣れてきたら我侭は言うし、無茶は言うし、ノリで行動するし、唄枝みたいに平気で男にスキンシップだってするのよ?」
「スキンシップ?」
「プロレス技をかけるの」
「それ、絶対に、わたしと同じじゃないよね?」
とにもかくにも、それから園上ちゃんは、さんざん渋った挙句、結局、綿貫さんに電話をかけたのだった。
3(オマケ).
メディア・ミックス部の部室。
パソコン画面に向かっていた村上アキは、綿貫朱音の携帯電話に着信が入った時の彼女の表情、更にそれに出た時の彼女の態度、口調から早くも悪い予感を覚えていた。
「あら、久しぶりじゃない、園上」
明らかに作っているぞんざいな口調。“嫌々”を、演出してはいるが、実は会話を楽しんでいるのが分かる。これは、会話の相手を彼女が好きという事だけが理由ではないように村上には思えた。
恐らくは、彼女が“面白がる”話をしているのだろう。
“綿貫部長が面白がってる。しかも、校外の相手からの話で。やだなぁ。また、なんか変な事を始める気かも”
などと村上は思う。
園上というのは、綿貫の中学時代からの友人で、何度か村上も会った事がある。妙に相性が良い二人だという記憶が彼にはあった。
「……へぇ、なるほど、確かにそれはむかつくわね。なんとかしてやりたいんだ? で、何か案はないかって? そうねぇ」
そんな声が聞こえて来て、村上は更に不安を強くした。パソコン画面に視線を向けてはいるが、意識は集中できない。
「なら、こんなのはどう?」
そう言ってから、綿貫は声を小さくする。一応、いかがわしい内容の会話をする時は、声を抑えるくらいの気は彼女も遣うのだ。しかし、小さくなって聞こえにくくなった事で、村上は更に気になってしまう。
“ああ、もぅ、やだな。何をするつもりなのだろう?”
「そりゃ手伝うけどさ、メインは飽くまでそっちだからね? 人材はあんたが用意しなさいな。それに、まだこの手でいけるか分からないわ。もっと詳しく調べてからまた連絡寄越しなさいよ。それからこっちは動き始めるから」
会話が終わる辺りで、再び綿貫は声を大きくしたので、そう言っているのが聞こえて来た。
“あ、少しはマシかも”
と、それを聞いて村上は思う。
受話器を切ると、綿貫は「さて」と言って、村上に話しかけた。
「村上。仕事よ」
村上アキはそれを聞くと、少しだけため息を漏らして
「なんですか? 随分と楽しそうに話していましたね。仲良しの園上さんからだったからですか?」
などと言ってみる。それだけじゃないとは分かっていたが。綿貫はその言葉に眉を歪めて反応をした。
「わたしが園上と仲が良い? 冗談は止めて。わたしは、あいつが嫌いなんだから」
「仲良しにしか見えませんよ」
「あぁ? そんな事を言ってると、プロレス技をかけるわよ! ……まぁ、とにかく、仕事よ。ちょっと問題アリの生活保護受給者をハメるの」
「ええ? そんな事をするんですか? 嫌ですよ。校外だと、もしばれた時のダメージがデカイじゃないですか」
「大丈夫よ。メインは向こうで、人材もほとんど向こうが出すから。
つまり、こっちは少ないリスクで、この計画を楽しめるって訳!」
それを聞いて村上はまた軽くため息を漏らした。
「向こうは向こうで、“これで、リスク分散ができた”とか思っている気がしますけどね。いざとなったなら、責任を押し付けられるとかって……」
4.
ども。
三番目の語り部は、大体予想していたかもしれないけど、私、園上ヒナが担当するわ。面倒くさいから、チャチャッと済ませる気でいるからそのつもりで。
昔からの知り合いって理由で、私は綿貫という妙な小細工が得意な連中を従えるメディア・ミックス部の部長に連絡を取った。因みに、こいつは私達とは別の高校。
この綿貫って女は悪戯好きという問題アリの性格をしているので、少し私が内容を説明すると直ぐにノって来た。
チョロイ。
そして、Aを嵌めて更生させる為の大体の案を直ぐに出す。本当に、こういう事にはこの女は頭が働く。案を話し終えると、“人材はこっちが出せ”みたいな事を言って来たので、私はこう返した。
「安心しなさいよ。あんたにこれ以上、借りをつくる気はないわ。人材くらい、こっちで用意するわよ。
じゃ、もう切るわよ」
そう言ってスマートフォンを切ると、いきなり唄枝が話しかけて来た。
「随分と楽しそうに会話してたね。交渉は上手くいったっぽい」
「楽しそう? 演技よ、演技。まぁ、これでリスク分散できたってのは嬉しいけどね。もし、問題になったら、あっちにも責任を押し付けてやる」
それを聞くと五反田君は『向こうは向こうで“リスクなしで楽しめる”とかって考えているんじゃない?』とでも思っていそうな顔で私を見つめてきたが、敢えて私はそれを華麗にスルーした。
「いや、実際、あの時、そう思っていたけどね」
と、それに対して五反田君が言って来たが、チャチャッと終わらせたいので、やっぱりスルーする。その後、私が五反田君を華麗にスルーした後で、唄枝はこんな事を訊いて来た。
「ところで、電話で人材がどーのこーの言っていたけど、どうするの?」
私が何かを言う前に、五反田君が言う。
「と言うか、どんな人材が必要なのかをまず僕らは聞いていないけどね」
それに私はこう返した。
「人材の前にまずあれよ、本当に綿貫の作戦でいけるかどうか調査するの」
「調査って?」と唄枝。私はこう答える。
「そのAってのに関わっている宗教団体と政治団体とあと、病院の先生の事について… かしらね。あ、もう、ほとんど分かっているけど、A自身のことも。ネットでの性格とリアルの性格が違うってのはよくあるし。まぁ、こいつに限ってはなさそうだけど」
「うん、ちょっと待って。それ、どうやって調べるつもりでいるの? ネットで調べるっていっても限界があるし…」
なんて五反田君がやや心配そうな顔をして尋ねて来た。恐らくは、私が無茶をしないかと不安になっているのだろう。
「簡単よ、簡単。Aってのの住所は分かっているんだから、実際に乗り込めば良いじゃない。どうせ、四六時中、家の中にいるんでしょうし」
「つまり、直接、Aさんに会って情報を集めるっていうの?」
「そうよぉ。幸い、唄枝はAに信頼されているみたいだし、女子高生から連絡が来たなら小躍りして喜ぶでしょうよ、Aは。警戒心ゼロみたいだし、きっと簡単に引っ掛かってペラペラと情報話すわよ。
メールで根掘り葉掘り聞いたら、不審がられそうだけどさ。それに、証拠が残るから、できれば避けたいし」
「いや、唄枝ちゃん一人で行かせるのは危険じゃない? 男の独り暮らしだよ?」
「誰が唄枝に一人で行かせるなんて言った? 私も行くわよ。唄枝だけに行かせても情報を上手く聞き出すなんてできそうにないでしょうが。それと、そうねぇ… 猪俣さんにも頼んでみましょうか」
「猪俣さん?」
「あのひと、うちの部員じゃない。幽霊だけど」
猪俣種。
彼女は、非常に特徴的な性格をしている。何しろ、まったく喋らないのだ。無口を通り越して何にも喋らない。しかも、スキンシップ… というか、ハグを得意技としている。年中無休でフリーハグをやっているような女なのだ。男に勘違いをさせる破壊力は、唄枝の非ではない。恐らくは、この高校で一番だろう。
ただし、唄枝のように誰彼舞わずにスキンシップする訳ではない。“怒り”、或いは“落ち込み状態”といった負の感情にその人間が陥った時に、どうやら彼女はほぼ条件反射的にその人を抱きしめるのだ。男女の区別なく。そして、その相手を癒してしまう。
しかも、その眼力は鋭く、演技で怒った振りや泣いた振りをしてもまるで引っ掛からない。
そして、彼女に癒された人間が数多くいるからなのか、彼女は密かに妙なカリスマ性を持ってもいる。皆から、母性的存在として認識されているというか。
ある意味では最強キャラだ。
教師ですら勝てないかもしれない。
例えば、こんな逸話がある。授業中に高圧的な指導で有名な教師に「教科書を読め」と言われた時、猪俣さんは口だけ動かして声を出さなかったらしい(本人は出していたつもりだったのかもしれない)。それでその教師から怒られたらしいのだけど、最終的には教師の方が悪いことにされてしまったのだという。
実際にその場にいた訳じゃないから、詳しい経緯は知らないけど、教室の雰囲気が「猪俣さんに、何をするんだ?」的なものになってしまったのだとか。その雰囲気に、教師は負けたのだ。
しかもその時、猪俣さんは落ち込んだ教師をハグして癒したとか、そんな伝説までも。もっとも、真相は知らないけど。
とにかく、その伝説のフリーハグ女の猪俣さんはうちの部員だったりする。何故かというと、一年の頃、この部活を立ち上げる時、人数合わせの為に、唄枝が彼女を勧誘したからだ。
「何言ってるの? 園上ちゃんがわたしに勧誘しろって言ったんじゃない」
なんて、そこで唄枝が文句を言って来た。無視しようかとも思ったが、更に思い出したのか、
「そう言えば、稲塚君の時もわたしが勧誘したよね? なんか、園上ちゃん、こーいう時、いっつもわたしを利用してない?」
なんて続けて言って来た。今更、そんな事を言われてもね……
「何言っているのよ?」
と、仕方なしに私は言う。
「唄枝はそーいうのが巧いから、頼んでいるんじゃない。私じゃ、あんたみたいにできないもの」
もっとも、猪俣さんは誰が頼んでも断らなかったかもしれないが。
「え? そうなの?」
その言葉で、簡単に唄枝は気分を良くしたようだった。こいつも、チョロイ。
「でも、猪俣さん。ほとんど部活に出て来ないけどね」
と言ったのは、五反田君。
「まぁ、そもそも、部を始めるのに人数が足りないから、名前だけでも貸してって頼んだからね」
「そんな猪俣さんを、今回の件に強引に巻き込んだんだ……」
そう言ったのは、稲塚君。
「いやいや。あんな感じで誰かを癒すのって、彼女は嫌いじゃないはずよ。むしろ、積極的に参加するはず」
と、私はそれにそう言った。
「本当?」
「本当」
これに関しては、私の強引な誤魔化し、詭弁の類ではなくて本当だろうと思う。実際、私が頼んだ時、彼女は直ぐに頷いたのだ。
「いや、猪俣さんなら、大体の頼み事は聞いちゃうと思うけど?」
と言ったのは、稲塚。
うるさい。
続ける。
「物凄く不健康な生活を送っている人がいてね。その人に健康的な生活を送ってもらおうと思っているの。
でも、真っ当な方法じゃ、説得は無理そうだから、ちょっと猪俣さんにも協力してもらいたいのだけど、いい?」
そう私がお願いした時、猪俣さんは首を軽く傾げた。多分、“それ、なんなの?”って感じの事を言っている。
あっと、書き忘れていたけど、猪俣さんは口を閉じたまま最低限の表情と動きだけで効率良く意思を伝えるという特技も持っている。何となく、言いたい事が分かるのだ。
「部活動の一環みたいなもんね。猪俣さん、一応、うちに在籍しているでしょう? 偶には活動に参加してよ。
て言っても、大した事はしないわ。色々と近況を聞いて、その人が困った時に、連絡をくれるように頼むだけ」
私の説明を聞くと、今度は反対側に猪俣さんは首を軽く傾げた。
これは“どうして、そんな事をするの?”って感じかな?
そう判断した私は、こう説明する。
「さっきも言ったけど、その人はとても不健康な生活を送っているの。だから、いつ体調を壊すか分からない。連絡をくれるように約束していたら安心でしょう?」
少し間があったけど、猪俣さんはすんなりと頷いてくれた。にっこりと笑っている。多分、“分かったわ、わたしなんかで役に立てるのなら”とか、そんな事を言っているのだろうと思う。
この子も本当に、簡単に人を信用する。騙され易そう。多少、これから先の人生が心配な子でもあるけど、周りの誰かが助けそうな気もするから、平気かもしれない。いや、眼力は鋭いから、案外、本当に危険がある時は軽やかに避けてしまうかも。
とにかく、こうしてA宅に突撃するメンバーは揃ったのだった。唄枝と、猪俣さんと私。女子高生三人が揃えば、無敵だ。
ある説に拠れば、どんな男でも、ロリコンかマザコンかのいずれかに分類できるのだという。ならば、ロリと母性の第一人者とを揃え、おまけにクールビューティーが集まった今、Aくらい、簡単に落とせるはず!
それが私の計画だった。
「酷い偏見だね」
と、そこで稲塚君。唄枝が続ける。
「一応、訊いておくけど、クールビューティーってのは園上ちゃんの事だよね?」
無視。
とにかく、私達はAの自宅に乗り込んだのだった。放課後、学校帰りに寄ったのだけど。前もって唄枝から「女子高生三人が訪ねる」と連絡していた所為か、ドアのチャイムを鳴らすと、その瞬間にドアが開いた。
……もしかしたら、ドアの前で待ち受けていたのかもしれない。
言葉巧みに籠絡するまでもなく、Aは既にヘラヘラと笑って上機嫌だった。これなら、何でも話してしまいそう。正直、私は非常に不愉快になったが、表情には一切、それを出さなかった。
部屋の中はとても汚かった。私達が訪ねる事は伝えてあったのに、掃除すらしなかったのだ、この男は。本当にダラシナイ。一応、窓を開けて換気はしているみたいだったが。
因みに、滅多に嫌悪を表情に出す事のない唄枝でさえ、表情を歪めていた。まぁ、直ぐに顔を作ってくれたけど。
「ブログをよく見させてもらっています」
部屋の中に入って落ちくと、まず私はそう言って頭を下げた。これは事実だ。嘘じゃない。ただし、私は批判目的で、しかも実際に説教をした事もあるが。まぁ、もちろんそんな事は言わない。
「本当に、素晴らしい主張ですね。時々、批判をする人がいるのが信じられない。Aさんの活動に、私達は感服しているのです。ですが、だからこそ、最近の宗教団体からの被害をとても心配しています。
とんだ災難ですね。大丈夫ですか?」
唄枝が私の言葉を聞いて、“よく、言うわ”ってな顔をしていたので軽く小突いた。猪俣さんは、部屋の様子をゆっくりと観察していた。更に、その流れでAの顔色も。
Aはかなり痩せていたが、顔色は普通だった。ただし、よく観察すると、疲弊しているというか、病気っぽいというか、とにかく、負のオーラがあるような気がした。
眼力の鋭い猪俣さんは、Aの不健康っぷりに直ぐに気が付いたのだろう。軽く手を挙げて、合図を送ると表情で訴える。
「ん? どうしたの?」
Aはそれに気付いて、そう尋ねて来た。私は猪俣さんの意思を通訳する。
「大人しい子で、無口なのですが、この子は、特に優しいんです。それで、あなたの健康を心配しているのでしょう」
それから猪俣さんは、部屋の様子を見回した。恐らくは、“掃除をした方が良いですよ”と言っている。今度は、その意図にAも気付いたのか、こう言った。
「いやぁ、ちょっと体調が悪くてさ。片付ける気力が沸いてこないんだよ」
“なんじゃ? その言い訳は”
と、私はそれを聞いて思う。体調が悪いのは、そもそも自己管理を欠片もしようとはしないお前のそのダラシナサの所為だろう。でもって、ダラシナイからこそ、部屋だって片付けないのだろう。体調に責任を押し付けるな。自分が悪いと言え。
もちろん、口には出さない。
それから猪俣さんは指でゴミの山を指し示し、それから自分に指を向けた。多分、“わたしが、片付けましょうか?”と言っている。何かで読んだが、不潔な部屋というのは、それだけで身体に悪影響らしい。だから猪俣さんはまずは部屋を綺麗にするべきだと思っているのかもしれない。ただ、それを見て私は“まずい”と思った。
猪俣さんの母性が暴走してしまいそうな気がしたからだ。
「猪俣さん。取り敢えず、今日は初対面だし、話を聞くだけにしましょうか?」
それでそう言った。一瞬、このまま猪俣さんに任せてしまえば、小細工を弄するまでもなくAは更生するかも、とも思ったが、それでは猪俣さんが“だめんず”になってしまうかもしれない。こんな男の為に、彼女が犠牲になるのだけは避けたいので、その案は直ぐに却下した。
それで猪俣さんの母性の暴走は治まったが、表情で「お身体、気を付けてくださいね」とそう彼女は言っていた。それを受けてAは照れて頭を掻いている。私もさんざんブログで「健康管理しろ」と説教したはずだ。同じ内容でこうまで反応が違うものか。流石、猪俣さん。
「いや、園上さんの言い方に問題がある気が…」
そう言ったのは五反田君。
これも、無視でいく。
「えっと、とにかく、その宗教団体のことの話とか聞かせてもらえますか? Aさんの事が心配で…… いざとなったら、私達の友達もAさんに協力しますから」
それから私がそう言うと、Aは嬉々として宗教団体の人間達について語り始めた。芋づる式に、彼の所属している政治団体や市役所の職員の話も聞けた。恐らく、かなり脚色してはあるだろうと思えたが、それを考慮しても、その内容は私達の予想通りだった。
綿貫の案でいけそう。
私はそう思う。
少し病院について質問をすると、簡単に病院での事についても語ってくれた。どうやら、彼の病院に対する印象は良いようだった。
「いやぁ、もしかしたら、僕が部屋を片付けられないのは、うつ病だからかもしれない。だとすれば、僕は完全に犠牲者ですよ。あの先生は、それも心配してくれていた。いずれは薬を出してくれるかも」
なんて事を言っていた。
“いやぁ、普通、昼夜逆転で酒を飲んで、煙草を吸ってってな暮らしをずっとしていれば、誰でも気分が塞ぐものじゃないっすか? 病気だっつーなら、あんたのその性格こそが病気だと思いますよ”
と、私は心の中で文句を言ったが、なんとか表情には出さないようにした。そこで、唄枝がこんな事を言う。
「いや、園上ちゃん。あの時、青筋がいくつも浮き出てたよ。わたし、よくバレないなって不思議だったもん」
まぁ、バレなかったんだから、良いじゃない。
とにかく、その流れで私達はAと「何かあったら、唄枝のケータイに連絡をください。絶対に協力しますから」ってな約束をする事に成功したのだった。
Aは可愛く綺麗な女子高生達から心配されているという現実に、それはもう分かり易過ぎるくらいに浮かれていた。単純な男なのだろうと思う。元気いっぱいに、
「うん。絶対に連絡するよ!」
と、力強く返して来た。
……ちょっと効果があり過ぎだったかもしれない。
「今、思い出したのだけど」
と、そこで唄枝。
「園上ちゃん、この時、わたしのケータイのメールアドレスしか教えなかったよね? どうして?」
「当たり前でしょう?
あんな男に、私のアドレスを教えてたまるかっての!」
「ずーるーいー!」
私はAの自宅を出ると、直ぐに綿貫にメールを送った。
『あんたの作戦でOKよ。ただ、ちょっと効果があり過ぎだったから、早く決行した方が良いかも』
直ぐに、返事があった。
『オーゲー。問題なし。準備は万端だから』
何が“オーゲー”よ?
と、私はそれを見て軽く笑った。
4(オマケ).
『あんたの作戦でOKよ。ただ、ちょっと効果があり過ぎだったから、早く決行した方が良いかも』
綿貫朱音は、そのメールを受け取ると、にこやかに笑った。
「村上! このままの作戦で大丈夫みたいよ! どんどん、いっちゃって!」
そう言うと手早くメールを書き込んで、返信を打つ。村上アキは、直ぐに反応をした。
「わぁ やったぁ! 作業が無駄にならないで済んだ!
……てっ、無駄になるかもしれない作業だったんですか? これ。なんで、やらせたんですか?」
「わたしの勘で、大丈夫な気がしていたからよ!」
「もー! いつも、そうなんだからぁ!」
と言いながら、村上アキはネット上のある掲示板に書き込みをする為に、エンターキーを押した。それは生活保護制度と病院に纏わる黒い噂に関する内容で、更にその掲示板の利用者には、例のAを責めている宗教団体関係者が多くいたのだった。
ここでの書き込み内容が簡単に宗教団体内部に広がる事は、既に確認してあった。
「案外、直ぐにかかりそうだから、あっちも急がないと間に合わないわよね、これ。急ぎなさいよ、園上」
綿貫はそう独り言を言った。
5.
チャチャッと済ませるつもりだったのに、けっこー長く語り部役をやってしまって「もう、やりたくない」と園上さんが言うので、ちょっと中途半端だけど、続きは、僕、稲塚薫がやります。
でも、僕はそもそも、僕を勧誘することになった経緯を知らないのだけど、いいの?
「まぁ、その辺りはこちらでテキトーに補佐するから、始めちゃって」
なんて園上さんがそう言うので、まぁ、始めます。
僕はネット文化研究部がそんな活動をしているなんて全く知らなかったので、いきなり唄枝さんが話しかけて来た時には驚いた。彼女とは同じクラスではあったけど、これまでほとんど会話をした事もなかったからだ。
「ねぇ、稲塚君って、演技が凄く上手いんだよね?」
彼女は明るい表情で僕に向かって、そう言って来た。正直、いきなりだったので、戸惑っていたと思う。
「まぁ、上手いと言われる事もあるけど、賛否あるよ。どちらかというと、アドリブの実力を買われているのかも」
それに嬉しそうな声を彼女は上げる。
「ああ、聞いた、聞いた。
最初の公演で、いきなりアドリブでストーリーを変えちゃって、しかもそれが好評だったものだから、その後もずっとそれでいったっていう……」
「演劇部からしてみれば、迷惑なのか有難いのか微妙なエピソードよね、それ」
と、そこでそう言ったのは、園上さん。
「ちょっと、いきなり話に割り込んで来ないでよ、このタイミングだと読者が混乱するじゃんか」
「いや、これはちゃんと意味があるのよ。私達があなたを勧誘しようって決めたのは、当にそのアドリブ能力にあったのだから」
それを聞いて僕は「ああ」と思う。納得したのだ。
「大体の筋書きは予想していたけど、連中の性格や立場から言いそうな台詞や反応を予想してつくっただけだから、実際はどうなるのかなんて分からない。当たり前だけどね。だから、まぁ、臨機応変、融通無碍に対応できる役者じゃなくっちゃ、あれは無理だと思っていたのよ。で、そんな人材を探していたら、稲塚君がいたと」
「でも、それだけじゃないよね?」
「まぁね」
あの時、唄枝さんは僕にこんな事を訊いて来た。
「それ、民俗学の本よね? 噂通り、そういうのも読むんだ」
「うん。演劇を勉強していたら、こういうのも関係があるって分かってさ。ちょっと凝り性なもんだから」
神話を題材にした劇をやった時、神に奏される歌舞、“神楽”ばかりではなく、演劇というものが宗教や習俗と深い関わりがあると僕は知った。それでそれ以来、暇を見つけては、その手の本を読むようになったのだ。読み始めてみると、案外、面白かった。
「でも、知識を集めるだけじゃ、つまらなくない?
実際に、活用したいと思わない?」
唄枝さんがそう言って来る。恐らくは、僕が勧誘されたもう一つの理由はそれなのだ。その手の知識を僕が持っていたから。ただ、その時の僕は、その言葉の意味をはき違えて捉えたのだけど。
「いや、僕はちゃんと実践しているよ? 演劇にこれを活かしている。ただのテキスト型人間じゃない」
それでそう言った。すると、唄枝さんはこんな事を言って来たのだった。
「わぁ、素敵! それなら期待できそう。ねぇ、ちょっとお願い事があるんだけど……」
「はい??」
その予想外の返答に戸惑った僕は、その後、なし崩し的に彼女、というか、彼女達に協力をする事になってしまったのだった……
「異議あり」
と、そこで園上さん。
「被告は事実を、意図的に隠蔽歪曲して伝えています」
「誰が被告だ!」と僕。
「面白そうだから、物陰からそっと眺めていた私の観察による客観的事実に基づいて説明をさせてもらうのなら……」
「あれ、見てたの?」
「稲塚君は、唄枝がお願いしながら自然と手を握ると、分かり易過ぎるくらいに顔を赤くして挙動不審となり、そして絶対に何かを期待した感じで首を縦に振っていたわ。浮かれているのが傍目にも分かって、こっちが恥ずかしくなるくらいだった」
「いや、いきなり手を握られたら、誰だってああなるって!」
「あらぁ… わたしも案外、罪つくりねぇ」と、そこで唄枝さん。
ああ、もぅ!
誰かさんの所為で、なんか話が逸れまくっているので、強引に元に戻します! えっと、協力すると約束した僕は……
「物語の流れ的にそれはどうかと思うわよ、稲塚君」
と、園上さん。
「誰の所為だと思っているんだ?」
僕は喚いた。
「取り敢えず、これを読んで」
ネット文化研究部に協力すると言った僕は、その日の昼休みに早速、部室に連れて行かれ、そこで何かの台本原稿を手渡された。しかも、それなりに量がある。
「これ、全部、覚えろっての?」
「全部とは言わないわ。覚えたって、これは演劇じゃないから、その通りの台詞には絶対にならないし。ただ、何となくの流れと要点は掴んでね」
その時、僕は初めて園上さんと話したのだけど、妙に淡々としているなという印象を持った事を覚えている。
「大丈夫よ。量があるように見えるけど、パターン数があるからそう見えるだけで、実際の量は大した事ないわ。どうなるか分からないから、数パターン想定しているの」
僕が訝しげに思っていると、園上さんはそんな事を言って来た。唄枝さんは、横でパンを食べていて、会話には参加して来ない。居心地が悪くなった僕は、なんとなく原稿をパラパラと捲ってみた。
「VS宗教団体?」
そう僕が呟くと、唄枝さんが言った。
「うん。その演劇、宗教団体だけじゃなくて、病院の先生と、もしかしたら政治団体と、市役所の職員さん達の前でもやる事になるかもしれないから、よろしくね」
「正確には、演劇じゃないけどね」と、園上さんが続ける。
「ちょっと、待って。これ、何なの?」
「まぁ、簡単に言っちゃえば」と、唄枝さん。
「それを参考にして、宗教の人達と、病院の先生とを説得するの。でもって、彼らを味方にした上で、そのAさんって人を更生させるって計画」
その説明を聞いて、僕は益々分からなくなった。
なんなの? これ。
園上さんには順を追って説明する気はなかったようなので、僕がこの計画の意味をなんとなく理解するのは、その後、五反田が現れてそれを説明してくれた時だった。
内容を聞かされて、正直、凄い計画を立てるものだと思ったけど、一度、引き受けるといった手前、断る事もできなかった。内容をよく確認しないまま、オーケーを出した自分が悪いと、僕は仕方なしにそれをやる事にしたのだ。
「ま、つまりは、唄枝の色香に迷ったのよね?」
しつこいよ、園上さん……
急いだ方がいい。という話だったので、僕は大体、二日くらいでその台本原稿を覚えた。そして、三日目の夕方にそれは起こったのだった。
「来たよ、来た来た。Aさんからのメールが来た!」
そう言って唄枝さんがやって来た。そして、放課後になるなり、僕を連れて、部室へと駆け出したのだった。
「ああ、そういえば、この時も唄枝は稲塚君の手を握っていたわね」
「園上さん、もうやめない、それ?」と言ってくれたのは、五反田。
部室にはネット文化研究部の面々と、そして何故か猪俣さんがいた。
「ま、私が呼んだのよね。もしもの時の最終兵器として。Aがピンチかもって言ったら、直ぐに来てくれたわ」
僕の顔を見るなり、五反田が「じゃ、行こうか。多分、急いだ方がいいだろうから」と言う。それから僕らは直ぐに病院に出かけた。
実はAという人は、その前の日から病院に入院をしていたらしいのだ。だから病院にいる。その事はメールでも送られて来ていたし、ブログにも書かれてあったから間違いはないという話だった。
「ひょっとしたら、仮病かもしれないけどね。Aは女子高生に心配をしてもらいたがっていたから」
というのは、園上さんの言。
「ま、何にせよ、病院にその宗教団体が来てくれたのは、こちらの狙い通り。舞台設定は整ったじゃない」
五反田がそう続けた。
演者は僕一人だけどね、と僕は思う。
もっとも、実を言うのなら、僕に不満はなかった。と言うか、むしろ燃えていた。僕は演劇が好きなのだ。こんなシチュエーションで演じられるなんて、滅多にない機会じゃないか。
病院に着く。Aさんの病室に向かうと、何やら言い争いをしている声が聞こえて来た。
「生活保護制度を利用すれば、簡単に金が稼げると知って、Aさんを病気だと偽り、お金を国から騙し取ろうなんてそんな不届きな真似は許しません!」
女性の声。これは、宗教団体の人間だろう。
「Aさんに薬を与えるなどといった事も、絶対にしてはなりません!」
それに病院の医者らしき人が、「何の話なのか、まったく分かりません!」と、そう怒鳴る声が聞こえて来た。
それを聞いて、園上さんが「おぉ! 綿貫達の仕込が、効きまくっているみたいね」と、そう呟く。
後で聞いた話だけど、他の高校にあるメディア・ミックス部という変な部の部員達が、宗教団体に対してこんな黒い噂を伝えていたらしい。
『生活保護受給者は、医療費が免除される。代わりに国、つまり国民の税金で支払われる。それを利用して、医療費をかさ上げして、病院が悪徳に稼いでいるという噂がある。その場合、無理にでも生活保護受給者を病気に仕立て上げている可能性もある』
もちろん、いかにもAさんの事例が、そのケースだと思わせるような、伝え方をしたらしい。それで、その宗教団体の人達は病院に抗議をしにやって来たのだ。現代医学、いや科学の類を敵視している彼らが病院に抗議するのは、それほど珍しい事でもないらしいから、それは充分に予想できる行動でもあった。
でも、一歩間違えれば、情報操作でこういうのを促すのって犯罪のような気もする。みんなは、絶対にこんな事はやっちゃ駄目だぞ!
僕は病室が近づくと、立ち止まって演劇で使う神官の衣装を身に纏った。これは、相手へのこけおどしと僕自身の精神統一の為だ。
衣装を身に纏うと、僕は変わる。演技できる自分に変わるのだ。
「これは、かなりの場違い感ね」
と、その衣装を見て園上さんが僕の精神統一を邪魔するような事を言って来たけど、気にしない。この人、どうして妨害してくるのだろう?
「面白いからに決まっているじゃない」
と、園上さん。
さいですか。とにかく、続けます。
「確かに、病院によっては、そんな噂もありますが、ここの病院では聞きませんよ。それに、そんな証拠は何処にもないですし」
衣装を纏って、病室に近付くと、更にそんな声が聞こえて来た。この声は、政治団体か市役所の職員か……。
「そうですよ。あなた達は、私達に対しても誹謗中傷をするし。いい加減にしてもらいたい」
どうやら二団体とも代表の誰かがこの場に来ているらしい。言葉の内容から判断して、前者が市役所の職員で、後者が政治団体かな?
僕はそう判断すると、病室に乗り込んだ。
場違いかつ、異様な衣装を身に纏っている僕は、非常によく目立った。全員の視線が僕に集中をする。
「どうも、少しお邪魔しますよ」
僕はそう言った。まだ、少し照れがある。これはいけない。そう思って、精神を集中するよう努める。
トランス、トランス。
「なんだね、君は?」
そう言って来たのは、病院の医者(らしき人)だった。敵意がこもったその視線からは、僕を宗教団体のメンバーだと考えているだろうことが察せられた。それで、
「なに、そこにいるAさんの知り合いの知り合いですよ。Aさんとは初対面ですが。初めまして、Aさん」
と、僕はそう言う。続けた。
「宗教とは無関係です。これは、ちょっとした余興の為の衣装のようなもので」
「ひょっとして、あの女子高生達の知り合いなのかな?」
Aさんがそう言った。僕が高校生くらいに見えたから、そう思ったのだろう。
「はい。そうです」
と、笑顔で僕はそれに返す。医者が言った。
「その知り合いの知り合いが、ここに何の用なのだね。病院で、不謹慎にもそんな恰好をして」
「ふむ」と、僕はそう言う。
「それは、すいませんでした。ただ、僕にはこの喧嘩が無為に思えましてね。宗教の方々と病院の先生、更に言うのなら、政治団体の方々、市役所の職員の人も、実は最終的な目的は同じなのじゃないですか? だとしたら、この言い争いはまったく無意味だという事になる。だから、どうしても、口出しをしてしまいたくなってしまったんです」
「最終的な目的が同じ?」
そう疑問を口にしたのは、宗教団体の女性。どうやら、その人が代表を務めているらしかった。
「はい。更に言うのなら、目的どころか、手段すらも」
「どういう意味かな? 私達とこの方々の主張はまるで違うように思えるが」
そう言ったのは、医者。
恐らくは政治団体の人だろう人が、こう言う。
「うん。科学と宗教。相反する主張だよ。これは、同じだとは思えない」
僕はそれにこう返した。
「科学と宗教が相反するとは限らないと思いますが、疑問に思われるのなら、少し整理して考えてみましょうか」
そう言って医者に視線を向ける。
「先生。あなたは、このAさんを治療する為に、どんな指導をするつもりでいますか? いや、既にもう指導されているのかもしれませんが」
それを受けると医者は、少し訝しげな顔をしていたけどこう言った。
「規則正しい生活と適度な睡眠。それと、充分に栄養を取るようにと指導したよ。酒や煙草はできる限り控えるようにとも言って。栄養失調に関しても、うつ傾向に関してもそれが一番だからな。
病院に入院していれば、それが徹底できるんだが、経費や他の患者の事も考えるとそうもいかない」
もしかしたら、治療内容を話すのは個人情報漏えいになりかねないから、一瞬だけ躊躇したのかもしれない。ただ、この程度なら平気だろうし、それでこの騒ぎが治まるのかもしれないのだったら、話すべきだと判断したのだろう。
「それは、聞いていた話と違います。確か薬を与えるとか……」
それにそう宗教団体の女性が抗議した。ところが、それに医者は文句を言ったのだ。
「薬? 何の話かね? 栄養状態が悪かったから点滴を打ちはしたが、薬など彼には必要ないぞ」
「うつ病だから、その為の薬を出すと聞きました」
「うつ病? 何を言っているんだ。うつ傾向だと言っただけだ。しかも、彼がうつ傾向なのは、間違いなくその生活態度の所為だろう。私は、生活態度を良くしろとしか言っていないぞ?」
そう言い終えてから、医者はAさんの事を睨み据えた。
「Aさん。あなたは、他で一体、どんな事を言っているんだ? 私は生活態度を整えて、それでも良くならなかったら、うつ病かもしれないから、薬を出す事になるかもしれないとは言ったが、あなたがうつ病だとは一言も言っていない」
その言葉に、Aさんは目を泳がせた。どうやら、Aさんは日記の内容をかなり自分にとって都合良く捻じ曲げ、誇張していたらしい。まぁ、予想できた事ではあったのだけど。僕はそれを受けると、「なるほど」と言い、今度は宗教団体の女性に目を向けた。
「次は、あなたの話を聞きましょうか。あなたは、Aさんを治療する為に、どんな事を行うつもりでいたのですか?」
すると、彼女はこう言った。
「まずは、薬を断ちます」
「それはいいでしょう。そもそも、お医者の先生の話を信じるのなら、Aさんは薬をもらっていないそうですし。それ以外で」
少しだけ悩んでから、女性はこう返した。
「もちろん、穢れを祓うのです。憑いている餓鬼を追い出します」
それから女性は、どこからか玉串を取り出して、ザッと振った。僕はそれを受けて「なるほど」と言う。
「つまり、それは先のお医者さんが言った事と同じ事をするという話ですよね?」
それに、女性は目を丸くした。
「何を言っているのです? 私は穢れを祓うと言いました」
「ええ。ですから、健康的な生活を送らせて、穢れを祓うのでしょう? それとも、まさか、あなたは穢れの本来の意味を知らないのですか?」
その言葉に、女性は止まった。
さっきまでの知識は、台本に書かれていた事だったが、ここからは僕も勉強をして知っている話だ。むしろ、僕の方が詳しく知っていた。だからやり易かった。僕は続ける。
「“穢れ”とは、本来、“気が枯れる”と書いて“気枯れ”だといいます。早い話が、活力がなくなる事を言うのですね。だから、健康管理を確りやって、身体を整えたなら、穢れを祓えるのです」
それに女性は反論した。
「確かに、それも必要かもしれませんが、それは、穢れを祓うのとは違います。この方の中に憑いた餓鬼を追い出す事こそが、穢れを祓うことで……」
そして、また玉串を振る。
僕は尋ねる。
「その玉串で、ですか?」
「その通りです」
僕はそれに少し笑う。この人は、充分な知識もないままに、こんな宗教活動をやっているのだ。
「その玉串が、何を模ったものなのか、あなたは知っていますか?」
女性は何も答えなかった。僕は続ける。
「玉串、或いは神籬などもそうですが、本来、それらは森を模ったものだといいます。では、どうしてその森の雛形でもある玉串で穢れが祓えるのか?
それは、穢れの本来の意味が、“気が枯れる”だったからですよ。田畑に作物が生えなくなる。その状態こそが“気枯れ”。作物が育つ田畑に水や栄養を与える源は、森ですからね。それで、森を模った玉串で穢れが祓えるのです。人間に対してもこの考えを当て嵌めたのが、本来の穢れ祓いなのでしょう。活力を与える事こそが、その目的。
詳しくは知りませんが、公式には組み込まれていなくても、あなたの宗教は古神道の流れを受け継ぐものなのでしょう? ならば、これを否定するのはおかしな話です」
僕が言い終えると、女性は声のトーンを落としてこう言った。
「もちろん、否定はしません。活力を失っている状態こそが、餓鬼に憑かれ、障っている状態で、それを祓うのが私共の目的です。矛盾はしません」
僕はそれを聞くと、ゆっくりと笑って「はい、そうですか。それでは、どうやら、お医者さんと目的も手段も同じなようですね」と、そう言う。
「ほら、確りと分かり易く整理すると、同じ事を言っていると分かるでしょう?
宗教も科学も、それをどんな風に解釈するかの違いで、実は同じ事を言っているというケースも多いのですよ」
僕はそれから、市役所の職員さんだろうと思われる人に顔を向ける。
「生活保護受給者には、本来、健康的な生活を送るよう努めるという義務があります。その意味でも、Aさんの生活改善に反対する理由はないのではないかと思います。異論はありませんよね?」
職員さんは、それに大きく頷いた。
「もちろんです。お医者さんだろうが、宗教だろうが、Aさんが健康的な生活を送ってくれるのならば大助かりです」
実は、それを指導する役割は、市の職員が担っていたりする。権限的にも仕事量的にも難しいかもしれないけど。
その時、Aさんは悲壮な表情を浮かべていた。この人は、恐らく、今の生活態度を改める気などなかったのだろう。酒や煙草を控えたくもないし、ダラシナイ生活も続けたい。いや、それより何より、自己責任を追及されているこの状況にこそ、危機感を抱いているのかもしれない。Aさんは救いを求めるように、政治団体の人達に顔を向けた。
“その逃げ道も使わせない”
僕はそう思うと、こう言った。
「Aさんは、ネット上で少しばかり有名人です。怠惰な生活を、政治団体が認めたとなると、支持率低下に繋がってしまうでしょうね」
それを聞くと、政治団体の方々の一人は弁解をするようにこう言った。
「いや、私達は初めから、Aさんが健康的な生活を送る事に反対などしていませんよ。生活保護を受けている限り、それは義務でもあるのだし」
それを聞いて、Aさんは愕然とした表情を浮かべた。きっと、臆病で自分が責められる立場に極度に弱いのだろう。狼狽えた様子で、それから彼はこう言った。
「誰も、他人の生活に対して、とやかく言う事なんて……」
僕はそれを聞くと、冷ややかに笑った。
「さっきも言いましたが、あなたは生活保護受給者です。本来、健康に生活する義務があるのですよ。その自分に与えられた義務を果たせと言っているだけです」
その時、Aさんは軽く震え始めていた。目には薄らと涙を溜めていたかもしれない。
「僕は悪くない…」
そして、そう言った。
何というか、そこで僕に変なスイッチが入ってしまった。妙に、このAという人に苛ついて嗜虐的になってしまったのだ。それで、
「宗教団体の方々の主張じゃありませんが、確かにAさんには憑き物が障っているのかもしれませんね」
つい、そう言ってしまったのだった。
今にして思えば、これはやり過ぎだったと思う。失敗だった。
「まぁ、失敗だったね。Aさんを追い込み過ぎだよ」
と、言ったのは五反田。
「確かにね。もっとも、見ていて気分は良かったけれど。私でも、もっと苛めていたかもしれない」
この言葉は、もちろん、園上さん。
「なんで、“もちろん”なのよ?」
「いや、分かってよ」
とにかく、この時、僕は続けた。
「良くない物は、淀んだ構造。悪いつくりの中にこそ沸くのだと言います。そして、この社会にも悪いつくりがある。
生活保護制度。
セーフティネットは確かに重要ですが、この制度には問題点が多過ぎる。もちろん、果たしているその役割は評価すべきでしょうが、それでも改善すべき点も多くあるでしょう。ところがそれを放置し続け、結果として、この制度には悪い障る憑き物が沸いてしまった。Aさんは恐らく、その憑き物に障られているのですよ。
本来、他の人が稼いだお金で暮らしている立場ならば、謙虚になって、できるだけ迷惑をかけないよう健康に気を遣って、病院を利用しなくてもいいように努めるものですが、Aさんにはそんな意識すらなかった。真面目に働いている人達を苦しめている。普通なら、早く社会復帰をして、自分を救ってくれた社会に対して恩返しをする、というのが筋だと思いますが、何故かそうは思わず、ずっと制度に甘え続けていて、それを正当化してすらいる。
労働力が余っている今の時代なら、それでもまだ良いかもしれません。他の人の職を奪いませんし、Aさんが消費をすれば、それが経済効果にもなる。ですが、これから先、労働力不足の時代になった後でも、こんな生活を続けるというのなら、それは弊害にしかならない。社会的負担も大きくなり、Aさんのような人を養えなくなるかもしれない。もし、そうなったら、Aさんは生活ができなくなってしまいます。それを考えるのなら、Aさん自身の為にも、何かしら生活手段を得る為に努力すべき……」
正直に言うのなら、僕は軽いトランス状態に陥っていたのかもしれない。言葉が次から次へと自然と出て来てしまっていたのだ。Aさんの表情が、僕が言えば言うほど崩れていくのが分かった。泣き出しそうな顔で、怒っている感じ。
“まずい”
僕はそう思っていた。でも僕は、言葉を続けてしまった。
「無理をしろとは言わない。ただ、アルバイトくらいは始めてみるべきだ。一部だけ生活保護を利用するという方法もあるのだから……」
因みに、この辺りの知識のほとんどは、例の台本に書かれてあったものだ。なんでも、あの台本を書いたのはメディア・ミックス部という部活動だというから、向こうには物知りな人がいるのだろう。
「うるさい! なんで、社会に出てもいない高校生に、そんな偉そうな事を言われなくちゃいけないんだ!」
そして、遂にAさんの怒りは臨界点に達してしまったらしかった。涙を流しながら、そう叫んだのだ。
「僕は悪くない!」
大声で、そう続ける。
“まずい。どうしよう?”
そこで僕はそう思った。だけど、何も良い手段が浮かばない。泣いている駄々っ子をあやすのは至難の業だ。なにしろ、理屈も言葉も通じないのだから。
駄々っ子を抑えられるとすれば、それは母性的な大きな愛くらいだろう。残念ながら、僕にはまったく、その要素はない。
そんな事を思った時だった。
白い影がふんわりとした動きで、病室に入って来たのだ。そして、気付くとその白い影はスムーズな動きで、真っ直ぐにベッドの上で泣いているAさんのことを抱きしめていた。
ハグ。
その白い影は、猪俣さんだった。
彼女には、落ち込んだり、怒ったりしている人に反応して、条件反射的にハグをするという妙な特性がある。だからそれで、今のAさんにも反応をしたのだろう。
Aさんは驚いた表情のまま固まっていて、猪俣さんは、Aさんを慈しみの表情でじっと見つめていた。
“大丈夫よ。皆、あなたを心配しているだけだから。だから、そんなに怖がらなくても良いのよ”
その表情はそう言っているように思えた。Aさんはそれからフルフルと震え、涙を流しながら訴え始めた。
「本当は駄目だって分かっていたんだ。でも、ネットで言い始めたら、皆が僕を褒めてくれるようになって、皆に悪いから、そんな自分が駄目なんてもう言えなくなっていて。もう止めるなんて言えなくなっていて。気が付いたら、何年も過ぎていて。
ずっと働いてないから、今更働き出すなんて怖くてできないし。でも、このままじゃ駄目だって分かっていたから、どんどん不安になって……
でも、不安だから、怖いから、少しでも責められると直ぐにカッとなっちゃって……」
猪俣さんは泣きながら訴え続けるAさんを抱きしめ、そして頭を撫でて、“うん、うん”と頷いていた。
“大丈夫よ。少しずつ、前に進みましょう”
彼女は、そう言っているように思えた。
……まぁ、何というか、猪俣さんの完全勝利だと思う。いや、ま、勝利とか、そういうんじゃないのかもしれないけど。
6.
更新されているブログの内容から判断すると、その後、少しずつAさんは生活態度を改めているようでした。
酒や煙草は控えるようにしているみたいだし、少なくとも昼夜逆転なんて生活を送ってはいない模様。
あ、申し遅れましたが、最後の“地の文”は、後半に入って、急速に存在感を薄くした僕、五反田五郎が担当します。よろしく。まぁ、語り部が一巡してしまったので。
僕の率直な意見を言わせてもらうのなら、やっぱりこのAさんはそれほど悪い人でもなかったのだと思います。制度を悪用してやろうなんて意識はなくて、ただ単に自己管理能力がないのと、甘い制度の所為で、ああなってしまっていただけなのでしょう。だからこそ、必死に自身を正当化する為の言い訳を探していたのかもしれません。
制度に問題があると、それに合わせて問題アリな人が出てくる… どころか、育ててしまうものなの…… でしょうかね。
Aさんに関しては、ブログでその決意を宣言した事で後には引けない状況を作り、『ついつい制度に甘えてしまう自分』という問題点をクリアしたようです。体調が整えられたなら、今度はアルバイトにチャレンジしてみるつもりだとか、書いていました。
どうなるかは分かりませんが、まぁ、成功をお祈りします。
……って、まだ高校生の僕らに、こんな偉そうなことを言われたくないかもしれませんが。
「いやいや、私達だってアルバイトの経験くらいあるじゃない」
そう言ったのは、園上さん。
「まぁねぇ」
僕はそう返します。
因みに、この件以来、稲塚君はネット文化研究部の部室に、時折、顔を見せるようになりました。それで、準部員の称号を与える運びとなったのですが。おめでとう!
「つまり、唄枝の色香に迷ったのよね?」
と、園上さん。
「それは、もういい」
そう稲塚君は返しました。
「ところで、あの時は猪俣さんを呼んでおいて、本当に良かったわよね」
ある日、Aさんのブログを見ながら、部室で唄枝ちゃんがそんな事を言いました。園上さんが鼻を高くして言います。
「そうでしょう。それに関しちゃ、機転を利かせた私に感謝してもらわなくちゃ」
「本当に感謝するべき相手は、猪俣さんだと思うけどね」
と、稲塚君。園上さんは、それを無視しました。
「でも、問題がない訳じゃないんだよ」
そう言いながら、唄枝ちゃんはケータイを取り出しました。画面には、何らかのメッセージが書かれてあるよう。
「あれから、Aさんから何回かメールが来るのよ。猪俣さんとは、もう会えないのか?って」
「うわぁ、それはちょっとあれね。ストーカー規制法の違反で逮捕されなきゃいいけどね」
そう言いながら、園上さんは笑いました。
「笑いごとじゃない気がするけど」
と、僕。
まぁ、大丈夫だとは思いますが。
6(オマケ).
「例の生活保護受給者の件、どうやら上手くいったみたいよ」
と、そう綿貫朱音が言った。だが、その報告内容に反して、それほど嬉しそうな表情を見せてはいない。村上アキは不思議そうな声を上げる。
「どうしたんですか? それにしては、浮かない顔ですね」
「なんか、あんまり楽しくなかったのよ。やっぱり、ある程度関わってないと、こーいうのって盛り上がらないわ!」
そう喚く綿貫を見ながら、村上は“もし、次があったら、嫌だな”と、そう思っていた。