第六話「波の花ノスタルジック」
大好きなお店が閉店してしまいました。
もっと早く産まれてたら年間360日ほど通いつめたのにと思いました。
盆正月だけお休みですね。はい。
昔を思い出すと私はのたうち回って恥ずかしくなりますね。ええ。
「変わったなぁ」
男性の声は何処か寂しさを含んだような声だった。隣の女性が、ええ、と頷く。
年の頃は、40半ばくらいだろうか?寄り添っているので夫婦なのかもしれない。ゆっくりと、日が落ちた街を歩く。周囲を見回しながら、一歩一歩、ゆっくりと。
「変わってしまったなぁ」
呟くような声だった。あなた、と女性が気落ちしたような男性を励ますように笑顔を作って、顔を覗き込む。大丈夫よ、と笑いかける。
「ほら、その通りを曲がった所よ。変わってないわ、此処だけは。」
そうは言ったが、前より見通しが良くなっている気がした。街灯も多くなっている。
道を曲がり、少し歩くといい香りがしてきた。それに少しホッとして肩を撫で下ろす。大丈夫だ、あの店だけはきっと、何があっても変わらない筈だ。
「・・・・・ほら、あったわ!」
女性が声を上げた。記憶通りの場所に、その店は変わらず佇んでいた事に安堵の笑みを浮かべるが、次の瞬間、頭を上げて唖然とした。
「・・・・・・・・【Automne ciel】・・・・・名前が、変わったの・・・・?」
「・・・・いや、どうやら店が違うようだ。」
うろたえた様に呟くと、男性はガラス越しにそっと中を伺いながら、ほら、と指差す。覗くと、若い男性と女性が接客をしているようだ。確か前は、ご婦人が一人で接客をしていた気がする。
「・・・・わ、私、間違えたのかしら?もしかしたら、通りを」
「いや、この通りだよ。間違える筈が無い。」
「で、でも・・・・・。」
キィ、と音を立てて扉が開く。穏やかそうな青年がいらっしゃいませ、と頭を下げる。
「ご予約のお客様でしょうか?」
「ああ、すいません。違うんです。」
あの、と女性は焦ったように青年に尋ねる。
「この辺に、フランス料理の店がありませんでしょうか?」
「こら、失礼だよ。」
「すいません、でも。あの、確か『秋空亭』という昔からある店で」
ああそれは、と青年は微笑んで店を手のひらで指した。
「この店の前の店ですね。」
「・・・・―――――え?」
「前のオーナーが亡くなりまして・・・・・・色々あって、私がこの場所を譲り受けたんです。」
そこまで言うと、そんな、と女性は顔を青くした。流石に様子がおかしいと声をかけようとすると、男性が頭を下げた。
「そうですか、お若いのにご立派ですね。忙しいのに申し訳ありませんでした。さ、行こう。」
「・・・・・・あなた、ごめんなさい。」
「大丈夫だよ。さぁ、今日は疲れたろう。」
「え、あの」
「本当に失礼しました。」
まだ何事か話しかけようとした青年に頭を下げ、夫婦は寄り添ってその場を後にした。女性の瞳には、薄い膜が張っていた。
「・・・・・何もかも、何処かへ行ってしまったみたい。」
涙ぐんだ妻の頭を引き寄せ、男性はゆっくり慰めるようにその頭を撫でる。そして空を見上げて呟いた。
「変わってしまったんだなぁ。」
今にも泣きそうな声で、呟いた。
「・・・・・・私達の思い出の町は、どこへ行ってしまったのだろう。」
夜の闇に、小さな嗚咽が溶けて、消えていった。
□■□
13:00。オータムシエルのランチタイムが丁度終了した時間。この時点で店内に客は三組、既にてオーダーは終わり、メインに移行、その後様子を見て注文を受けているデザートを出す。今日は少し客足が悪かった。11:00を廻った所で空が曇りだし、ランチタイムの30分前から生憎の雨が降り出したのが原因の一つだろう。天気ばかりはどうしようもないが。
しかし、前々から咲と話しているが、もう少しランチタイムを延ばしたい所だ。開店をもう30分早くするか、ラストオーダーまでの時間をもう少し延ばすか・・・・・そう言えばお腹が空いてきた。今日の賄いは何だろうと考え出した所で、ドアがカランカランと鳴った。慌てて耕は振り返る。
「すみません、もうLO過ぎて・・・・・」
言いかけて、耕は見覚えのある人物に瞳を丸くした。
「やあ、こんにちは。」
「あ・・・・葛丸、先輩・・・?」
久しぶり、とその青年は穏やかにふんわりと笑った。
「お任せでいいよ。LOは過ぎたんだろう?」
営業中の看板もかかったままだったので、どうぞと席に案内すると葛丸はそう首を傾げた。「そういう訳にも」と苦笑いで首を傾げる耕に、一瞬きょとんとした後に、にこっと笑って
「僕は好き嫌いが無いし、オータムシエルの料理は全部美味しいから。」
だからおすすめをお願い、と微笑まれ、にやけそうになる口元を押さえながら、はい、と頷いて引っ込む。先輩はたらしだ。絶対。「おすすめで」と厨房に告げると、「「うぃーす!」」とやけに気合の入った返答が帰ってきた。これは聞こえていたな。振り返ると、気付いたのか咲が挨拶をしていた。
どことなく緊張しているように見える。先輩相手教師相手でも傲岸不遜な所の多い咲だったが、葛丸を前にするとわりかし大人しい。苦手というか何というか、と珍しく言葉を濁していたのを思い出す。見ていると耕、と呼ばれて慌てて営業終了のプレートをかけにいく。
葛丸露(かつらまる―あきら)。
以前訪れた、竹嶋、表林と同じく耕達が通っていた高校の先輩に当たる人物である。穏やかな優しい先輩で、いいお兄さん、といった表現がしっくり来るだろうか。確か耕達の学年に一つ違いの弟がいた筈だ。個性の強い三年生の中では目立たない存在だが、まとめ役や場を穏やかにする技には長けていた。交友関係も広く、呼吸をするような自然な動作で他人に親切に出来る、稀有な人柄の持ち主だった。怒ると凄く怖い、なんていう噂も聞いたが多分ガセだろう。怒った所を耕は見た事がない。
「よし、プレートはこれでよし。」
本日のおすすめの書かれた黒板はしまっておく。これは後から夜用のメニューに書き換える。
「オーナー、ごちそうさま!」
「また来ますね!」
「あ、有難う御座います。またお願いします。」
丁度食事を終わらせて出てきたのだろう二人組のお客さんに頭を下げて見送って、耕は空を見上げる。雨は止んできたようだった。出来れば、夜までには止んで欲しかった。
□■□
「ふぅ、ごちそうさま。美味しかったよ。」
「食後はどうしますか?」
「紅茶を貰おうかな。ミルクは多めで。」
分かりました、と咲は紅茶を淹れに戻る。時刻は14:00を既に回っていた。
「ああ、もう気を使わないでくれないかな。午後もあるだろうし、気楽にして欲しい。」
その言葉にほっと肩を撫で下ろしながら、耕達も昼の賄いに移る。奥から大きめのポットとカップ、ミルクとレモン、砂糖の1セット持ってきた咲がことりと無言でそれをテーブルに置く。
口端を持ち上げたいつもの顔で、葛丸は首を傾げる。
「ポットサービスを始めたのかい?」
「いいえ。でも二杯目以降はセルフサービスですので、ご自分でお願いします。」
素直にサービスと言えばいいのに。そう耕は思ったが、余計な事を言って神経を逆撫でするのは止めて置こうと素直に昼食を運ぶ。本日はベーコンと大葉に黒ゴマを加えた、和風パスタだ。因みに耕が作った。恵に「こんがらなきゃ普通に作れるよねぇ」と言われて涙が出た。
「俺達も此処で頂いていいっすか?」
「どうぞどうぞ。ああ、美味しそうだね。とても香りがいい。」
「あ、先輩もどうですか?少し取り分けましょうか?」
「いや、今はお腹一杯だから遠慮しておくよ。また機会があったら是非食べたいな。」
そうにっこりと微笑まれてしまえば、まるで辺りに花でも咲き乱れたようだ。外は雨こそ降っていないものの今だどんよりとしているが、店内には穏やかで暖かい空気の元、可愛らしくも華やかな花々が咲き満ち、甘い香りを含んだ風が吹いている。そんなマイナスイオンに癒されている厨房組の隣で、咲だけがぶるっと悪寒でも感じたように渋い顔で震えた。
「・・・・・先輩は、イタリアにいったと風の噂で聞きましたが。」
パスタをフォークで弄びつつ、歯切れ悪く咲がそう切り出した。ああ、と恵がちゅるんと麺を口に含む。
「そういや先輩、美術部の部長だったんですよね?」
「うん、好きが高じてね。学芸員の資格を取ったんだ。卒業してからは絵を描きながらとある美術館に勤めていたんだけど、そこがとある理由で閉館してしまってね。」
「そ、それは」
「だからちょっと一月ほどイタリアに行ってきたんだ。いやあ、楽しかったよ。食事も美味しかったし、美術館巡りも夢だったしね、あ、オペラも立ち見で何回か見たんだ。」
いやぁ、素晴らしかったね。少し高揚しているのか顔を紅くして、葛丸は話す。
失職→海外旅行。物腰柔らかで穏やかな印象ばかり受けがちだが、この人物はこれで打たれ強くて中々に腰が座っている。悩んでいる時間は最小で、その後導き出した答えへの行動はアグレッシブだ。
「時間があったらフランスやオーストリアの方にも行きたかったなぁ。ああ、ブルガリアにも。」
オランダでフェルメールも見たかったと興奮気味に語る相手に押されていると、早く食べろ、と咲に急かされ、慌てて耕と蜜は麺を啜る。
「で、何しにこんな所にいらしたんですか?まさか食事に来ただけじゃないでしょう?」
「うん、それだけじゃ無いよ。ちょっと聞きたい事があって。」
檜胡って名前に、聞き覚えはない?
「かいこ?」
急に放たれた言葉を、恵が繰り返した。一同首を傾げ、顔を見合わせて首を振る。おかしいな、と葛丸も首を傾げる。
「その檜胡、さんですか?どうかなさったんですか?」
「ああ、イタリアでは結構名前が知れている日本人画家でね。20年以上前に絵の師匠に着いて来たそうなんだけど、丁度その人の個展が向こうであってて、見に行ったんだ。」
素敵な絵だったよ、と葛丸は紅茶を注ぎ、ミルクを加える。
「ご本人と話す事が出来てね、たまたまこっち・・・・日本でも個展を近々開くらしくて、手が足りないとかで僕にその美術館での仕事を世話してくれたんだよ。」
だから一応今は無職じゃないよ、と笑っているが、要するに、失職→海外旅行→絵画巡り→新職場ゲットという流れだろうか。何という無駄なく美しい流れ。実は葛丸は漫画か小説の主人公なんじゃないだろうかと馬鹿な考えが耕の頭を過ぎる。
で?とやや苛立ったように咲が話を促す。言われた方はそれでね、と紅茶をティースプーンでかき回す。
「日本に帰ったら、一番に“秋空亭”って思い出の店に行くんだってご夫婦で話していたんだよ。」
え、と4人の口が一斉に開く。来てないかい?と葛丸は首を傾げる。あ、と耕が口を変形させた。
「2、3?日前に、少し年配の・・・・・確か、ご夫婦だった。“秋空亭”を探してて・・・・」
「おい、そんな話聞いてねーぞ。」
「いや、だって店が変わった事を伝えたら、そのまま帰っちゃったし・・・・・。」
おいおい、と蜜は頭を抑える。
「え、でも常連さんなら大体店が変わった事は知ってませんでした?」
「いや、檜胡氏は若かりし頃、この店で奥様にプロポーズをしたらしい。まだ生活に苦しくて大変だったけど、極々偶に、この店で食事をしたそうだよ。そして日本を発つ前々日、思い出のこの店で食事をしたらしい。その時また再び、この店に来ようと誓い合ったそうだ。」
「・・・・だけど、“秋空亭”は無くて・・・・」
「ああ、自分達の年齢を考えれば仕方ない事だとは仰っていたけどね。大分落ち込んでいたよ。考えれば当然か、久しぶりに帰ってきた故郷には懐かしむ場所が何処にもなくなっていたんだから。」
一瞬胸が詰まった。自分も、自分達も今に至るまで親元を離れ、進学して、修行をして、何度も何度も挫折しそうになってそして今ここにいる。でもそれでも、故郷があって、帰ってもいい場所があった。帰ってきた場所があった。それが、何度も何度も夢見ていた帰りたい場所で、そしてその場所が、以前の面影も何もなくなっていたら。そんなの。
「寂しすぎる」
耕がポツリと呟いた。
「そんなんじゃ、寂しすぎます。あんまりだ。」
「僕もそう思う。」
だから、お願いなんだ。
「このままじゃいけないと思うんだ。折角帰ってきたのに、このままじゃ寂しさしか残らない。」
「そうですね。確かに、俺達はまだまだだけど、」
「折角来てくれたお客さんをそのまま帰しちゃ、レストランの名折れだよな。」
「おおう!久々の帰国をこのままにしてはおけないね!」
耕も蜜も恵まで拳を握り締めて立ち上がった。咲は既に食べ上げられた食器を片付け始める。
「でも、一回帰っちゃったんでしょ?もう来ないんじゃない?」
「ぇうあ、それは、そうだけど・・・・」
「いや、何とか僕が説得するよ。必ず御二人を連れてきてみせる。だから、どうか君達の料理で、御二人を元気付けて上げて欲しい。お願いだ。」
任せてくれ、とばかりに三人は胸を張る。安心したように葛丸は微笑んで、ありがとう、と立ち上がって頭を下げた。
「いやいや先輩、まだ早いですよ。」
「そうそう、お礼は全部終わってから、ね!」
「・・・・・そうだったね、うん。分かった。」
「お前達、夜の仕込みはいいのか?」
あ!と三人は声を揃えて立ち上がる。時刻は大分下がっている。このままではまずい。
蜜と恵は急いで仕込みをするため、すいません、と一言残して席を立った。耕は、えっと、と焦って口篭もる。
「すみません先輩、今日はこの辺で。また連絡を取れますか?」
「大丈夫だよ。アドレスは書いておくね。」
詳しい事が決まったら知らせる、と言う葛丸に、耕は、ありがとうございます、と頭を下げると、自分も急いで調理場の方に走っていく。その様子に小さく溜息を漏らし、咲は葛丸に向き直る。
「先輩、あの」
「ああ、ごめんね。長居をしてしまって。」
「いえ、別に。」
そう言いながら鞄からメモ帳を取り出し、さらさらと連絡先を書き上げると、び、とそれを破って咲に葛丸は渡した。それを無言で受け取ると、いくらかな、と葛丸は尋ねる。
「1200円です。」
「じゃあ、丁度だね。ご馳走様。」
千円札が一枚と、百円玉が一つ。五十円玉が二枚。それを渡すと、もう一度、長居してごめんね、と誤りながら葛丸はかららん、とドアを鳴らして去っていった。
「・・・・・ありがとうございました。」
見送って、もう一度深い溜息をついて、咲は卓上の片付けを始めた。
□■□
蜜は頭を抱えて卓上に突っ伏していた。耕はうんうん唸りながらレシピブックやら色々を捲っている。恵は天井を見上げて苛々したように呟いている。
咲は一人、珈琲を入れて運んできた。どうだった、と蜜が尋ねる。
「聞いてみたが、残念ながら特に覚えていないそうだ。」
はぁあああ、と深く長い溜息が三人の口から漏れた。
翌日すぐ、葛丸から連絡はあった。夫妻を連れて行けるようになった、一週間後の夜に予約を入れても良いだろうかという事だった。結構急だと思われたが、二人は個展期間中しか滞在しない事と、久しぶりの帰国で私事が色々忙しく、出来たらその日に、という事だった。一週間後は店は定休日ではなく、予約で一杯ということもない。という事は、お客様の希望を断る事など出来ないのだ。
「・・・・・本人に聞くわけにもいかないから、せめて、と思ったんだけど。」
「まぁ無駄足だったな。」
咲は容赦なく言い捨て、カップを四つ卓上に置いて座り、自身が入れたそれを口に含む。
一週間、いや既に4日後だ。それまでに「特別メニュー」を用意しなければならない。最初は誰だったか、そうだ、蜜だった。蜜が「・・・・やっぱ先代の味を知っているお客さんって緊張するな」と、夜の仕込みだったか朝の仕込みだったかをしながら呟いたのだ。それに耕と恵もハッとなった。
相手は20年以上日本を離れており、久々の帰国。そこで楽しみにしていた料理店が閉店(語弊があるが)していた。そんな人物が客としてくるのだ。秋空亭を継ぐ者達として、オータムシエルの調理担当者達として、変なものも下手なものも出せない。これはいつもの客とはまた違うのではないか。そんな、咲から言わせれば今更な結論に思い立ったらしい。
それからは大忙しだ。三人で顔を突き合わせてああだこうだと昼休みや就業後に話し合っている。昨日は朝の仕込みの間にまで話がエキサイトしていたので、「調理中に無駄話をするな!」と咲は怒号を飛ばした。ちらりと時計を見る。時刻0:00。ジャストだった。
「そろそろ上がる時間だぞ。」
三人からはやっぱりあーうーと返された。
久しぶりの日本だから、ここは和風的な食材を使って、いやいや、先代からの客なんだ、ここは重厚なフランス料理で、そもそも、先代の味と比べられたらどうする?大体いつも此処で三人は撃沈していた。受け継ぐというものは大変な事だという事を、咲はこの三日ほどで痛いほど感じた。蜜や耕のみならず、恵もやはりこれでプレッシャーというものを感じていたらしい。
「あー、やっぱ無理だったか。その頃のメニューを出すってのも有りかと思ったんだけどな。」
という訳で、先ほど三人に急かされ、外国に在住の先代夫人に電話をかけてみたが、特に収穫はなかった。質問内容は「当時の人気だったメニュー」というものだったが、そもそも20年も営業していたら色々メニューも変わってくるだろうし、客の顔ぶれも変わるだろう。変わることが悪いことじゃないというのが、先代の流儀だったのだから。
「で、そろそろ上がる時間だぞ。」
「やっぱ、今回は流れを変える方がいいんじゃないか?アミューズの後にスープを挟んで、勿論、スープは変化球じゃなくて、コンソメにして」
「いや、でも相手の年齢も考えたら、フルコースってのはキツイんじゃないかな?それに此処に来て今のオータムシエルのコースを変化させるのも気が引けるし・・・・・。」
「メインが肉か魚か決まってないのも問題でしょー?それに合わせてデセール考えるんだから、早く決めて欲しいんだけど?あ、それとチーズがいるかいらないかもかなり重要。」
「チーズは無しだろ。メインは、魚が好みって言ってたか?でもそれじゃ俺的には満足できねーな。やっぱり俺は、この店で一番好きだった鴨でいきたい。」
「それはおかしいよ蜜。お客さんの好みを優先するのが筋じゃないか。前のメニューを見たけど、この時期だと使われていたのは、メバル、タコ、イサキが多い。このメニューの中から、俺達流にアレンジを加えて改良する方が俺はいいと思う。」
「そういうけどさ、時間がないってのも正直な話じゃん?焦ってもうまくいかないでしょ?てゆーかもう言うけど、アタシはデセール、氷菓を出すから。」
「待てよ、お前その日寒かったらどうすんの?」
「だったら暖房効かせて!アタシが一番自信のあるのはソルベかグラースなの!」
聞いていない。
真剣なのは大いに結構だが、何だかずれているような気が咲にはした。
話を統合するとこうか。蜜は先代の味に真っ向から挑戦する気で、耕はまだまだ及ばないからこそ、客の嗜好を優先しつつも、自分達に出来る最大限の努力を。そして恵は今自分が一番自信があって、一番全力投球できるものを、とこういう事だろう。ふむ、と咲は首を傾げる。
咲は今自分が提供しているサービスが、先代の頃と全く同じとは思っていない。比較されたら駄目出しされてもおかしくないと思う。だからこそ日々に惰性する事無く、今日より明日、明日より明後日、と成長を重ねていかなければならないと勤めている。だが、今店を開いて営業している以上、そこに何のこだわりもなければプライドもなく仕事をしている訳ではない。それこそ毎日真剣勝負で取り組むことは忘れていないつもりだ。ここまでいうと咲の意見は蜜には傾いていないように思うが、咲は蜜と自分は、いや、調理場の出来るサービスと客席の出来るサービスは別物と思っている。立場が違えば、人間が違えば、それこそ考えは星の数などより数多くあるだろう。用はつまり、
「蜜は自分の考えを客に押し付けるな、相手は金を払って食事に来ているんだ。満足すべきは客であって、お前じゃない。お前の自己満足料理なんか出される方が迷惑だ。」
「ぐ」
「耕はメニュー改良御結構だが、時間がないのを分かっているな?それと一応聞いておくが、客の好みという割にはやたら先代メニューを引っ張ってくるのは何故だ?お前は今出しているメニューに満足がいっていないのか?今自分が提供するものに自信がないなら店なんか開くな。」
「う」
「それと恵、売り買い言葉に買い言葉なんだろうが、暖房効かせろとはなんだ。他の客は無視か?お前の出す皿に店も客も合わせろというのか?そう言うのならお前はフランスで何を学んできた。」
「うへぁ」
「三人揃えば文殊の知恵というが、三人寄っても下種は下種という言葉は知っているか?知らないならば教えてやる。い ま の げ ん じょ う だ よ!」
バァン、と拳がテーブルに叩きつけられた。三人の体がビクッと跳ねる。カップも跳ねた。ごめ、と誰かが口を開きかけたが、喧しい!と一喝された。そこで咲は振り返り、時計を見る。
「私は帰る。後は無駄話をするなり建設的な話をするなり勝手にしろ。但し、少しでも明日の仕事に影響を出したならど突き回すからな。」
ちょ、と蜜が立ち上がりかけたが、ギロッと凄い目で睨まれたのでそのまま座り直してしまった。咲は飲み上げたらしき自身のカップを持ち、奥に片付けに行ってしまう。残された三人は一言も発せなかった。そして片付け音が止んで暫くして、咲は荷物を持ち、もう一度顔を覗かせた。
ものすごく不機嫌な顔だった。
「昔から言われたが、私は性格がひねているらしいからな。お前達の欠点しか言わないぞ。精々、調理場の担当チームで盛り上がっていろ。」
ふん、と鼻を鳴らすとそのまま引っ込み、バタン、と大きな音を立てて裏口が閉まった。はぁあ~と三人は脱力する。
「咲が怒るとマジメに怖い~・・・・・久々。」
恵の呟きに、うんうんと耕と蜜は頷く。さて、どうするか。
「や、耕の意見正しいわ。俺の言う事って、かなり一人よがりだしな。」
「蜜の気持ちも分かるよ。俺も正直、逃げ腰だったのは否定できないし。そう思うと恵が自分の一番自信のある料理を出したいっていうのも、その通りだよ。」
「でもお客さん蔑ろにしちゃ駄目だよね。うん、ごめん。ていうか他にもお客さんいるもんね。特別扱いはしちゃいけないよね。」
「そうだよな。するなら全員特別だもんな。いや、俺はいつも一皿一皿真剣だけど。」
頷いて耕はカップに口をつける。冷めた珈琲は苦かった。うん、と耕は頷いて。
「要するに・・・・・先代の受け継ぐべき所は受け継がないといけない。でも、俺達が先代の真似事をしても駄目なんだよな。良い所は真似しても、コピーじゃ駄目だもんね。」
「出来なければ別の方法を考える。悪かった所は反省して、良かった所は更に良くして、日々成長をする。毎日、変化をしていく。日々の繰り返しはいけない。」
「そんで、プライドは持つ。卑屈じゃ駄目。今自分に出来る、一番を繰り返す。」
言葉にすると簡単で、行動するには難しい。
毎日が挑戦で、毎日が修行で、偶に挫折して、逃げ出したくなって、息抜きして、だけどもう一度やって。楽しいけど辛い。好きな事をやっているから文句はないし、言えない。昔目指していた夢が現実になったけど、楽しい事ばかりじゃなくて、報われないこともあって。それでも続けている自分が、どこかおかしいんじゃないかと思ったりする。悩んでばっかりのカッコ悪い現実。
でも、辛いけど楽しくて、ワクワクする。それが、自分で選んだ人生だから。
うん、と耕が頷いた。
「お客さんに対して、俺達に出来る最大の事をしよう!自信をもって、今一番だって言える事を!それが一番、先代から受け継いだ事で、挑戦だよね!」
「最初言ってた事より、難易度上がってるけどな。」
そう言いながら、蜜も笑い声を上げた。横からねぇねぇ、と恵がぷすぷす笑いながらテーブルに前のめりになる。
「咲、仲間外れにされて、拗ねてるよ。」
『調理場担当チームで盛り上がっていろ』。
思い出して、ぷーっと耕と蜜は噴き出す。やっだー、わかっりやすぅ。
「あはっ、ははははっ、咲、らしっ・・・・!」
「あいつ昔っからああだよな!どこがひねてるんだよ!分かりやすいっつーの!」
「あ――――ははははは!!はははっ、はっ、はひ、ぷ、ふふ、で、でっ、どうすんの?」
一頻り笑い、恵が涙を浮かべながら尋ねてきた。うん、と耕も涙を拭いながら口を開く。
「今日はとりあえず、明日怒られない為にも早く帰って寝ようか。」
咲、怒ったら恐いから。
その耕の言葉に、また一頻り三人で笑って、既に明日でなく今日だという事に気付いた三人は、大人しく帰宅する事にした。笑うって凄いな、すっきりするなとか言い合いながら。
□■□
「まさか葛丸君の後輩君達がやっている店とはね、いやいや、世間は狭い。」
「とても素敵なお店ね、葛丸さん、招待して頂いてありがとう。」
「いえ、向こうでお世話になったささやかなお礼だと思って下さい。」
4日なんて起きて仕事して日常生活をしてまた寝たらすぐだった。
店がどこなのかは言っていなかったのだろうか、連れられて来た檜胡夫妻は驚いていたが、耕を見ると「あの時は、」と謝罪をして来た。苦笑いをして首を振り、奥の席へと案内する。アペリティフとしてシャンパンとグレープフルーツジュースの、ホワイトミモザで乾杯して、三人は穏やかに談笑している。
「お任せだなんて楽しみねぇ、どんな料理かしら。」
「葛丸君が熱心に勧めるんだ。期待してしまうな。」
会話は穏やかに盛り上がっているようだが、店側は一杯一杯だった。耕、と呼ばれて耕の背がびっと伸びる。運んでくれ、と言われて耕は頷く。蜜の顔は、いつも通り真剣だった。
「お待たせ致しました、前菜、アミューズの盛り合わせです。」
コトリと皿が置かれる。まぁ、と婦人が声を上げた。正直、手が震えるかと思った。
「素敵、こんな風に少しずつ色々食べられるなんて嬉しいわ。」
「おお、これは綺麗だね。ゼリー寄せかな?」
説明をして頂いていいかな?と尋ねる檜胡氏に、はい、と耕は頷く。
「御察しの通り、此方はブイヤベースのゼリー寄せになります。鮪、甘エビ、帆立、タコ、イカなどの魚介類を使って作り、具を小さく角切りにしてゼリー寄せにしました。本来、本場のマルセイユではイカ、タコは使用しないのですが・・・・・此処は日本ですので、そこは臨機応変ということで。」
「色取り取りの具が黄金色のブイヤベースゼリーの中に散りばめられて、とても綺麗だね・・・・うん、味もとても素晴らしい。」
ありがとうございます、と軽く会釈して、耕は他の品の説明に移る。
「手前のカップは、グリンピーススープです。冷製にして、ポタージュ仕立てです。」
「緑が綺麗だと思ったけど、グリンピースか。ビシソワーズみたいだね。」
「此方はアーティーチョークのバリグール、茹でたアーティーチョークをみじん切りのベーコン、パセリと軽く炒めてあります。隣は鴨のリエットをバゲットに乗せたものです。」
「リエットって何かしら?」
「本来は豚で作られる事が多い、フランスの肉料理です。豚のバラ肉や肩肉を角切りにして、強めに塩を振り、ラードでほぐれるまで弱火でゆっくりと加熱したものです。パテのようにペーストにして、こんな風にバゲットなどに塗って食べます。本日は鴨肉を使用してみました。」
「ん、結構塩が効いてるね?」
「いや、効いているが効き過ぎということはないな。これは気に入ったよ。」
これは酒が進みそうだなぁ、と笑う夫を、檜胡婦人が笑いながら嗜める。
「貴方、そんな図々しい・・・・。」
「まぁまぁ、いいじゃないか。葛丸君、ワインは私にご馳走させてくれないか?」
「それじゃあお言葉に甘えましょうか。」
「よし、すまないが料理に合わせたワインを頂こうかな。」
分かりました、と耕は首だけを動かして振り返る。咲が頷いた。
「もう、調子に乗って。飲み過ぎないで下さいね。折角美味しいお料理を頂いているのに。」
「ちゃんと味わって食べるともさ。うん、だけどもっと沢山食べたかったなぁ。」
折角こんなに美味しいのに、と悪戯っぽい笑顔で言われて、まだ前菜ですので、と耕も笑顔で返した。そこで咲がワインとグラスを持って来た為、耕は入れ替わって厨房に戻る。別のお客さんの皿が丁度上がった所で、蜜が「3番」と言った。
「評判いいよ、前菜。」
小さく言うと、聞こえた、とだけ返ってきたので、そのまま耕は目の前の皿を別の席へと運んだ。
ワゴンで運ばれてきたその大きな皿を見て、まぁ!と檜胡婦人が声を上げた。周囲の席からも、あれ、何?と声が上がっている。
「これは・・・・・塩、かい?」
「はい、真鯛の岩塩包み焼きでございます。」
サーブさせて頂きます、と言いながら耕はスプーンと、ナイフを持つ。魚の周囲に沿ってスプーンで叩き塩に切れ目を入れ、端を持って取り外す。綺麗に取れたが、ここからだ。塩を出来るだけ取り除いて、鯛を別皿に取る。鰓に沿って切れ目を入れ、頭を外す。次に背びれをフォークで引っ張り取り除く。腹側の切り目から皮を持ち上げ、身から剥がす。中骨に沿ってスプーンを入れ、身を崩さないように細心の注意を払って皿に盛り付ける。勿論これを両面分しなくてはならない。身を盛り付けたら、パセリのみじん切りとオリーブ油をかけ、輪切りにしたレモンを添える。
そして最後に、安堵の溜息を堪えて、お客様の前のテーブルに提供する。
「お見事、さすがシェフだね。素晴らしい手捌きだ。」
「本当に素晴らしいわ。見ていてドキドキしちゃった。」
「そう言って頂けると光栄です、どうぞ。」
「・・・・ん!ソースが無いのかと思ったけど、鯛の旨味がたっぷりで、このままで十分美味しいね。」
「はい、塩釜焼きからヒントを得て作りました。塩の中で蒸されて、味が凝縮していると思います。」
「日本料理とフランス料理の融合ね、見ても面白いし、食べても美味しいのね。」
私もワインをお代わりしようかしら、と笑う夫人に、おいおい、と檜胡氏は苦笑いをする。
「・・・・・この後ですが、よろしければチーズもご用意できます。如何しましょう?」
「あら、でもデザートがあるならそちらを頂こうかしら。貴方は?」
「私も折角だからデザートを頂こうか、だけど葛丸君は足りないんじゃないか?」
年寄りに遠慮しないでくれよ、と笑う二人に、じゃあ、と葛丸は頭を下げる。
「僕はお勧めのチーズを貰おうかな、お二人にはお先にデザートを。」
「かしこまりました。後ほどお持ちします。」
「・・・・・・すまないが、」
ごゆっくり、と頭を下げて立ち去ろうとした耕に、声がかけられる。はい?と耕は振り返った。
「何か御座いましたでしょうか?」
「ああ、いや、違うんだ。すまないが、デザートは何になるのか先に伺ってもいいかね?」
檜胡氏の言葉に、はあ・・・・と首を傾げたが、隠すような事でもない。お客様が希望しているのだからよかろうと、耕はすぐ笑顔に戻る。
「デザートは、岩塩キャラメルアイスとバナナのソテーです。」
「そうか・・・・・。」
「あの、何かご不満がありましたでしょうか?」
不安になって、不躾だがそう尋ねると、いや、と苦笑いした後、少し考えて、檜胡氏は口を開いた。
「随分、“塩”が効いているな、と思ってね。」
きた、と耕は、ぐ、と言葉に詰まる。そしてぎゅ、と拳を握る。
「日本料理では、素材の味を壊さないように味を感じ取れるギリギリの量の塩を使うそうですが、フランス料理では素材の味を壊さないギリギリまで塩を使うと一般的には言われています。」
そこで、先輩、すみません、と耕は頭を下げる。葛丸が首を傾げた。
「あの、すいません。葛丸先輩から、昔この店のお客様だという事を聞きました。」
夫婦が目を丸くして、葛丸を振り返る。すみません、という風に苦笑して葛丸は頭を小さく下げる。
「あ、先輩を責めないで下さい。お二人を元気づけたかったんだと思います。・・・・・・・・えっと、きっと、懐かしい店がなくなってて、それで、今はこの店になってて、がっかりしたと思われます。」
だけど、此処は今、俺達の店です。
「まだまだ、俺達では先代には及ばないと思います。思い出の味でなくて、がっかりされたかもしれません。でも、その、自分達で考えて、出した結果がこのコースです。色々考えて、自分達の“基本”に行き着きました。それが、これです。そして、この店です。」
うまく言えずに、すみません、と耕は頭を下げる。
「今の自分達の、最善を尽くして、自信を持って、先代へも出せる皿です。」
そこでワインを持ち、失礼します、と咲が進み出てきたので、慌てて頭を下げて耕は奥へ引っ込む。何事も無かったように咲は、よろしければ、と口を開いた。
「此方のお料理、魚料理ですが赤ワインも合うと思います。グラスでもご用意できますので、一度お試しになりませんでしょうか。」
「あ、ああ、それじゃあ頂こうか。」
頷くと、新しいグラスにワインを注ぐ。その様子を見ながら、ここは、と檜胡氏が尋ねる。
「何時頃から、経営されているのかね?」
「恥ずかしながらまだ数ヶ月です。至らぬ所ばかりですが、お客様に支えられております。」
「失礼ながらお若いけど、何人で経営されてらっしゃるの?」
「厨房に二人おります。オーナー、シェフ、パティシエール、そして私ですか。自己流もいいところですが、サービスとソムリエの真似事、それから経理などの裏方作業をさせて頂いてますね。」
彼女、学生時代もその方面に強かったんですよ、と葛丸が笑う。そしてかぱっと何でもないようにグラスを開ける。ワインは水じゃないんだから。
「それは・・・・・大変でしょう?ご苦労も色々あるでしょうに。」
「まぁ・・・・・そうですね。」
心底心配するように檜胡婦人が咲の顔色を伺う。ちょっと考えて、に、と口端を吊り上げて咲は笑う。
「塩を舐めている最中、ですかね。」
「・・・・・あら。」
ぷっと葛丸が噴出した。吊られるように婦人が笑う。そうか、と檜胡氏も頷いた。
「・・・・・お忙しい所を悪いが、デザートが終わったら先程の青年をもう一度呼んで貰えるだろうか。」
分かりました、と頭を下げて、咲はパンをスライスする仕事に戻った。
「美味しかったわ、しょっぱいアイスなんて初めて食べたけど、夏場なんかにもいい感じね。」
「チーズもいいセレクトでしたよ。」
「ううむ、そう言われるとやはりチーズも食べてみるべきだったかな?」
「駄目よ、もう貴方若くないんだから、デザートが入らなくなるわ。」
夫人の言葉に一瞬面食らって、ハハハ、と檜胡氏は笑う。その横で、耕は今から死刑宣告でも受けるかのような顔で立っていた。既に店内BGMは鳴り響く心臓の爆音で聞こえていない。必死の思いで、口を開いて声を絞り出す。
「如何、でしたでしょうか?」
「素晴らしかったよ。」
「ええ、とても美味しかったわ。」
ありがとうございます、と返しながらも、耕はまだそわそわと落ち着きなくその場で口ごもる。
うん、と檜胡氏は頷いた。
「思い出だからね、もしかしたら美化されているのかもしれない。」
そこは勘弁して欲しい。そう前置いて、耕を真っ直ぐ見つめる。
落胆は酷かった。大事なものが、何もかも失われていた。今のささやかな成功をつかむ為に、いったいどれほど大事なもの達を投げ捨てていったかを思い知らされた気がした。お前が大事にしてたものはもう無いよ、と過去の自分が囁いた。
「正直な話をすると、先代と比べるにはまだまだだと思う。」
でもね、と二人は顔を見合わせて微笑んで、また耕を見た。
「また、必ず食べに来るよ。」
でもここに残っているよ、と言われた気がした。足元から囁きが聞こえてきた。懐かしい形をしたものはどこにも無くても、形の無い何かが、変化をしてここにいると、教えてくれた。
一番大事なものを、教えてくれてありがとう、と彼は笑った。
「今度は子供達も連れて、絶対に来ます。」
夫人がそう微笑んだ。
一瞬呆気に取られて、ありがとうございます!と耕は頭を思いっきり下げた。そしてそのままの体勢で、失礼しますと言って厨房に駆け込んだ。さあ、食器達が待っているぞ、と意気込んで、振り返る。蜜と恵は黙々と作業をこなしている。
「・・・・・あの、今さ」
「「聞こえてた!」」
聞き耳立ててた舐めんな!と怒鳴られたが、それはそれでどうなんだろうと笑いながら、耕は腕を捲くってゴム手袋を着けた。ぐし、と鼻を啜る。これは仕方がない。
だってまた食べに来るなんて、料理人殺しもいい所じゃないか。そう思いながら、取り敢えず丸皿から手に取った。
「先輩は、文系が苦手でしたっけ?」
「ううん、そんなに苦手でもなかったかな。寧ろ理数系の方が公式が苦手で」
「おかしな話だと思ったんですよ。」
一番初めには「檜胡夫妻来てない?おかしいな?」と話し出したくせに、話が進むと「久しぶりの日本は変わり果ててしまったと落ち込んでいた」とちぐはぐな話をし出した。そう、あの時から何か違和感があった。それが何なのかは、今分かったけど。
「最初から「落ち込んでいるから励ましてくれ」と言えばいいものを、態々めんどくさく他人の過去話までして持ち出して、耕達を焚き付けましたね。」
本人達のやる気を引き出したかったのか、それとも本人達からやりたいと言わせたかったのか。もしくは耕達が断れないようにしたのか。最後だったら見くびられたものだと咲は思う。
だけど、振り向いた葛丸はいつものきょとんとした顔で、いつものように首を傾げた。
「そうだったかな?」
「そうやってまた」
「そうだったとしても」
僕は嘘はついてないよね、と言って、にっこりと葛丸は笑った。何が人畜無害だ。何が邪気の無い笑みだ。何が聖人君子だこの笑みを見てみろと咲は叫び散らしたくなった。物腰柔らかで穏やかな印象ばかり受けがちだが、この人物はこれで打たれ強くて中々に腰が座っている。悩んでいる時間は最小で、その後導き出した答えへの行動はアグレッシブ。必要とすれば嘘だってつくし、他人だって欺く。但し誰も傷つけず、誰にも悟られないように。いつの間にか身体に浸透していく無害な毒の様なものだ。
誰よりも善人で、誰よりも悪人だ。
「僕の分のデセールはまだかな?」
穏やかに葛丸はそう微笑んだ。ひく、と一瞬笑みを引き攣らせて、では食後の飲み物とお持ちして宜しいでしょうかと咲は尋ねる。ああ、と頷いて葛丸は檜胡夫妻を振り返る。
「食後の飲み物は何にしますか?珈琲、紅茶などもあるようです。」
「本格派とまではいきませんが、エスプレッソもご用意できます。」
「私は紅茶がいいわ。レモンをお願い。」
「私も紅茶にしよう。ミルクでお願い出来るかね。」
「あら、珈琲でなくていいの?」
「いやいや、珈琲は普段から飲みすぎだからな。」
ふふふ、と二人は笑いあう。じゃあ、と葛丸は振り返った。
「ミルクとレモンで紅茶を一つずつ、僕は珈琲を貰おうか。」
「かしこまりました。」
ポットサービス、よろしくね。
振り返ってそう笑った後、三人は再び談笑に入った。一礼して咲はオーダーを持って下がる。
「だから貴方は、怖いんですよ。」
昔から何一つ変わってない。
そう最後に呟き捨てて、咲は笑顔で軽く頭を下げた。
「では少々、お待ち下さい。」
亀の甲より年の功。積み重ねた年代を一足飛びするのは、結構難しい。
だけど今は、少しずつ、成長していく様をご覧になっていて下さい。
きっとそれは、昔を知っている人達だけの、特権。